感情のない行為
私は覚悟を決めた。
自分はどうなってもいい。
私の願いは
大切な人達が幸せになること……
その為には、自分を犠牲にすることなんか何とも思わない。
あの悪魔からヒカルと蓮くんを守ってみせる。
絶対に。
そう決めたんだ―――
***
あれ以来、蓮から何度も着信があった。メールも何通も送られてきている。
でも、一度も話しをすることはなかった。決心が鈍りそうで、メールも開くことすらしていない。
きっとヒカルの怪我は脅しではない。ヒカルだからあれだけの怪我で済んだのだ。落ちてきた照明にまともに当たっていたら、本当に危なかったと後から広海が言っていた。
自分さえ大人しくしていれば、紫苑ももうヒカルに手を出すこともないだろう。
そう簡単に考えていた。
午前の授業が終わり、お昼休みに入ると教室から出て行ったはずの委員長が、血相を変えて戻ってくると、みんなに聞こえないような小声で結菜に耳打ちをした。
「屋上で待ってるって」
「誰が?」
「誰がって、雨宮くんがよ」
ついにキタという感じだった。憂鬱さがドシンと上からのし掛かってくる。
でも、蓮を守るためでもある。そう言い聞かすと、結菜は深呼吸をして椅子から立ち上がった。
屋上はお昼休みだというのに、誰も近寄らない辺鄙なところだった。それは、屋上があるというのもみんな知らないんじゃないのかって思えるぐらい。
でも自分の中ではここの屋上でいろんな出来事があった。メガネの男に連れ去られた時に襲われそうになった場所だし、愛美と対決をした場所でもある。そしてその後に、息を切らして自分を探してくれた蓮に髪を切ってもらった場所でもあった。
黒ずんだコンクリートはあの時と何も変わってはいない。
「上条……」
「蓮くん。久しぶりだね」
一番奥のフェンスに凭れている蓮の傍に近寄ると、結菜は笑顔で話しかけた。
初夏の日差しはもう暑いほど肌を照り付けている。高く上った太陽が眩しくて眼を細めた。
芝居の経験はないけれど、演じなければいけない。一番言いたくない言葉を、誰よりも愛しい人に向かって……
用意。スタート。
いつか観たことのある映画の撮影風景のドキュメンタリー番組を思い出し、自分の中でカチンコの音を鳴らした。
「どうして電話に出ない」
「どうしてって……蓮くん分かってるでしょ?」
見上げた蓮の片方の眉が上がった。
「分からないな。お前何かあっただろ?」
「別に何もないよ。ただ……」
「ただ?」
蓮の顔をまともに見られない。結菜は誤魔化すようにフェンスに指を絡ませると、遠くまで続く景色に眼をやった。
「疲れたのかな。蓮くんと一緒に居れば何かが起きるし、マユ達にも迷惑ばかりかけるし……それに、私たちってケンカばかりしてたよね。楽しいこともいっぱいあったけど、好きな人と一緒に居られないのって、こんなに寂しいとは思わなかった。自分から別れるフリをしようって言ったのに……ね」
「だったら、今からでも一緒にいればいいだろ?」
「それは出来ないよ」
「なんでだ!?」
蓮がフェンスを掴むと、ガシャンと言う音と一緒にフェンスが揺れた。
「蓮くんと一緒に居られなくて、寂しくって、それで……それで、私は蓮くんのことを…………裏切った。だからもう、私たちは元通りなんてなれないんだよ」
「なんだよそれ」
「ごめんね。ホントの私ってこういういい加減な奴なんだよ。怒っていいよ。私のこと殴ってくれたっていいよ」
「そんなことできるかよ。なあ。ホントは何かあるんだろ?言ってくれよ。俺はそんなに頼りないのか?」
両肩を掴まれ蓮の方に向けられると、揺らぐ瞳で真っ直ぐに見つめられる。蓮の悲しい顔。そうさせているのは自分なのだと痛感していた。
肩に触れられている蓮の手が温かいのも生きているから。この悲しい顔だって、蓮が生きてここにいるからこうして見られる。すべて生きているからだ。
「蓮くんは私のことを分かってないんだよ。ホント何もないよ。私は蓮くんじゃなくて…………紫苑を選んだだけだよ」
「上条……?」
「離してくれる?私……」
これ以上蓮の前にいると泣いてしまいそうだった。泣けば蓮が余計に不振に思ってしまう。
「ユイちゃん!」
屋上に出る重い扉が開くと、紫苑の声が聞こえた。
「紫苑……」
「何やってるんだよ。言いたいことがあるんだったら、僕に言えばいいだろ」
結菜の両肩を掴んでいた蓮の腕を紫苑が剥ぎ取り、蓮と結菜の間に割り入った。
「おまえ……おまえが上条を脅してるんじゃないだろうな?」
「はあ?何のことか分からないけど、ユイちゃんは僕のことを好きだって言ってくれたんだ。蓮くんじゃなくて僕のことをね。それ以上何が知りたいって言うんだよ」
紫苑の迫真な演技だった。蓮だけ知らない二人の演技。
紫苑は自分のことを恨んでいる。こうして少しずつ追い込んで行く気なのだろう……蓮と完全に別れることが自分の中では想像が付かず、現実味もない。それが現実だと気づいたとき、どうなるのだろう……やっぱり紫苑の思惑通り、私は壊れてしまうのだろうか?
紫苑の家での出来事が再現されたように、蓮は何も言わずにこの場を去っていった。
「ユイちゃんってホントは蓮くんに信用されてないんじゃないの?」
「…………」
「あんなに簡単に、ユイちゃんを僕に譲るって、そう言うことなんじゃないのかな」
「あんたに何が分かるのよ……」
紫苑になんかに分かるわけがない。人を本気で好きになったことのない紫苑に、自分たちの気持ちなんて分かるはずもない。
「分かるよ。言ったでしょ?僕はユイちゃんのことなら何でも知ってるって」
「もう……充分だよね。私はこれ以上蓮くんを傷つけたくない」
蓮が去った後で良かった。
溢れてくる涙を拭いながら、結菜は紫苑を睨み付けると、唇を噛み締めた。
「何言ってるの。ゲームは始まったばっかりだよ。面白くなるのはこれからなのに」
蓮との別れ以上に何があるというのだろうか。
何が待ち受けているというのだろうか……
「お願い。紫苑。私はどうなってもいいから、これ以上誰も傷つけないで」
「ユイちゃん―――」
突然柔らかい感触が唇を覆った。蓮以外に触れられたことのない唇。それは、蓮とは違う。優しさなんて微塵も感じない行為だけのキスだった。
紫苑から逃れようと後退りしても、後ろのフェンスが邪魔をする。顔を背けたくても、がしりと後頭部を掴まれた手で動かすことも出来ない。
「何するのよ!!」
ほんの少しの時間だったけれど、それは途轍もなく長く感じる屈辱的な時間だった。
やっとの思いで紫苑を突き飛ばし、痛いくらいに唇を腕で擦った。
「自分はどうなってもいいんでしょ?」
「…………」
結菜の反応を楽しむように、紫苑は声をあげて笑っていた。
自分も完璧な人間じゃない。完璧な人などいないと思っている。正しいことばかりしている人などいないだろうし、間違いは誰にでも起こりうること。そんな風に、いつものように寛大になんて到底思えなかった。
紫苑のことを憎んではいけないとも、もう思えない。
でも、知らなかった。これも紫苑の計算だったなんて。
この何も感情のない紫苑とのキスが、蓮に見られていたなんて―――