天使の顔をした悪魔
制服のブラウスのボタンを填め、短めのスカートをはいた。
私を壊す?
下で待つ紫苑の言った言葉を何度も回想してみるが、言葉の意味が分かるはずもなく、自然と溜息が漏れた。蓮が怒って帰ったのも気になる。蓮がここから去ってからどれくらい時間が過ぎたのだろう。携帯電話にも着信は無かった。
やっぱり怒ってるよね……
あの時は声が出なくて何も言えなかったけれど、でも今は違う。きちんと話しをすれば、蓮はすぐに誤解だったと分かってくれる筈。
一刻も早く蓮に会って安心させたかった。
「もう服着たんでしょ?早く下りておいでよ」
ロフトの下から紫苑の声が聞こえた。
紫苑は全部自分がやったことだと言っていた。何故?どうして?と聞きたいけれど、いつもとは違う紫苑に戸惑っていることも確かだった。
「ここに座ってよ。聞きたいんでしょ?どうして僕があんなことをしたのか」
「…………」
ロフトから下りると、いつもと変わらない紫苑がいた。
聞きたい。でも、今すぐ帰った方がいいと自分の中で警笛が鳴っている。
「もうすぐかな……」
ニヤリと笑みを浮かべて時計を見た紫苑と目が合うと、今度は不敵な笑みを浮かべた。
「やっぱり……聞きたいよ。紫苑はどうしてそんなことをしたのか。あなたが私に何をしたいのか」
「そうだよね。そう言うと思ったよ」
「紫苑……あなたは私の敵なの?」
唾が乾いた喉を通っていく音が小さく聞こえた。
「こんなことしてるんだから。味方ではないよね。僕の目的は、ユイちゃんを壊すこと。幸せになんかさせない。君は幸せになっちゃいけないんだ」
「……どういうこと」
「僕は志摩子さんみたいに甘くないから、覚悟してて」
「しまこ……って紫苑がどうしておばさまのことを」
ソファーに座っている紫苑が自分の爪を噛みながらニタニタと笑っている。その眼が普通ではなくて、紫苑との距離を取ろうと、立っている足が自然と後ろに動いた。
やっぱり、ここにいてはいけない。でも……
「僕はね。戸籍上では志摩子さんの子供だから、知ってて当然。そのことを知らないユイちゃんの方が信じられないよ。さすが、冷酷なあの上条義郎の孫だけあるよね」
「子供……」
紫苑があの志摩子の息子……!?
「ユイちゃんは志摩子さんのことを誤解してるみたいだけど、あんな優しい人はいない。お金に汚いのも、人情が無いのも、冷酷なほど人を人とも思っていないのも……それは全部、上条義郎の方だよ」
「そんな、そんなことはない。紫苑の方が誤解してるよ」
紫苑は知らない。志摩子がどういう人間なのかを。
「そうかな。」
「…………」
「父さんはあいつのことを無二の親友だと思ってた。でもね……あいつは違ってた。父さんはあいつに殺されたんだ」
「お爺さまに……そんな」
「父さんがプライドも何もかも捨てて助けを求めたのに、あいつは残酷なほど簡単に父さんのことを切り捨てた。その結果、父さんは自ら死を選んだ……
残された僕のことを引き取ってくれたのが志摩子さんだったんだ」
紫苑の言ったことが信じられなかった。志摩子が昔言ったことがある。今でもその言葉は鮮明に覚えている。
両親が亡くなり、ヒカルに施設に行けと言った志摩子が言い放った言葉―――
『この子は上条の人間じゃないのよ。そんな子供は上条にはいらないでしょ』
子供ながらに、あれは本心だと思った。それなのに、どうして志摩子は紫苑を引き取ったりしたのだろう。
義郎が紫苑の父親を殺したというのは何か誤解がありそうだけれども、志摩子が何を考えているのか分からなかった。
「僕が今まで、どんな気持ちで生きてきたかなんてユイちゃんには分からないよね?何の苦労も知らない。初めて好きになった人には誰よりも愛されて……幸せだったでしょ?もう十分だよね。だから、僕がユイちゃんの幸せを全部壊してあげるよ」
スッと音もなく立ち上がった紫苑に恐怖が沸いてきて、逃げないといけないと思っても身体が硬直して一歩も動くことが出来ない。
「僕はユイちゃんの全てを知ってるよ。どんな風にすれば喜ぶのか、どんな風にすれば悲しむのか、どんな風にすれば絶望を与えられるのか……楽しみだね」
顔が当たるぐらい近づいた紫苑の声が耳元で囁くと、全身が震えた。
「そんなこと……ないよ。紫苑は私のことを分かっていない。どんなことがあっても、私は蓮くんを愛し続けるし、蓮くんもきっと分かってくれる」
「そう強がっていられるのも今のうちだよ。それじゃ、第一弾いってみようか」
紫苑はそう言うと結菜から少し離れ、携帯電話で誰かと話しを始めた。
話し終わると口許だけ上げた笑みで結菜を見据えた。
「ユイちゃんは蓮くんとひーちゃんのどっちを選ぶのかな〜」
「なっ……」
「蓮くんは今、僕とユイちゃんに関係があったんじゃないのかって疑っている。それは知ってるでしょ?もちろん僕はユイちゃんとそういう関係ではない」
「だったら……」
「まあ、最後まで聞いてよ。でも、僕とユイちゃんはそういう仲になってしまったということにしよう」
「ふざけないでよ!」
「ふざけてなんかいないよ。明日から、今からでもいいや。僕たちは付き合っているフリをする。もちろん僕がそう言っただけじゃユイちゃんは従わないでしょ?だから……クスッ……僕はユイちゃんを脅すよ。言ったでしょ?君は蓮くんとひーちゃんのどっちを選ぶのかな?って」
「ヒカル……紫苑。あなたヒカルに何かしたの!?」
まさか―――
「僕は志摩子さんみたいにお人好しじゃないからね。脅しだけじゃないかもね」
「ヒカルに何かしたら、絶対に許さないからっ!!」
「いいよね。その顔。これからもっと見られると思うと嬉しくてゾクゾクするよ。ユイちゃんはひーちゃんのことを守るために、僕の言うことには絶対服従ってことで、ヨロシクね」
笑顔の紫苑に怒りが沸き上がってくる。
ヒカルは大丈夫。ああ見えて、喧嘩も強いし強運の持ち主だし、紫苑如きにやられたりなんかしない。だから、絶対に大丈夫……
「私は紫苑と付き合うフリなんかしない。蓮くんにも本当のことを言ってちゃんと分かってもらう。紫苑の思い通りにはいかないからっ」
「どこまでその強気な態度が続くかな。もうそろそろ、ひーちゃんに電話してみなよ。面白いことになってるかもね」
紫苑はそう言って時計を見た。
−ヒカル!?
結菜は携帯電話を取り出すと、震える手でボタンを押した。大丈夫。絶対に大丈夫。と何度も自分に言い聞かせながら……
『結菜さん!?』
長いコールが途切れ、マネージャーの早見がどことなく慌てた声で電話に出た。
「ヒカル……ヒカルは仕事中?」
そうであってほしいと願いながらも、雑然としている電話の向こうの様子が伝わってくる。
『それが……スタジオで撮影中に照明が落ちてきて、ヒカルさん、ケガしちゃって……』
「ケガって。それで?それで、ヒカルは大丈夫なの!?」
『ケガはたいしたことありませんよ。一応、社長がヒカルさんを病院に連れて行きましたけど』
早見からヒカルがいる病院を聞くと携帯電話を閉じた。
「さすが、ひーちゃんは運動神経がいいんだね。これからはそれも考慮しないといけないよね」
「……許さない。これ以上ヒカルに何かしたら、今度は私が紫苑に何をするか分かんないからっ」
「僕に何かあったら、ひーちゃんも蓮くんも消えちゃうかもね。これ、脅しじゃないから。ユイちゃん。よ〜く覚えておいてね」
憎らしい笑みを浮かべている紫苑を睨み付け、結菜は鞄を掴むと部屋から出て行った。
「ヒカル!大丈夫!?」
病院に着くと、ヒカルはまだ手当て中で、妹だと告げると、看護師に処置室へ通された。
「結菜ちゃん声が大きい」
迷惑でしょ。と広海が小さい子供を叱るようにメッっという顔をした。
「ケガは?どこが痛いの?本当に大丈夫なの?ねえ!?」
この怪我は自分の所為だと思うと申し訳なくて、絞った声もまた徐々に大きくなってしまう。
「意外に心配性ね」
クスリと広海が笑っている横では、肩に包帯を巻かれているヒカルが、苦痛で歪んだ顔をしていた。
幸い、打ち所が良かったのか、レントゲンでは異常は見られなかったそうだ。ホッと胸を撫で下ろすと、広海が処置室の外に結菜を呼んだ。
「結菜ちゃん。あなたまだ家に帰ってなかったの?」
「あ……」
こんな時間に制服姿でいるということは、そういうことがバレバレだということ……
「まあ。たまにはいいけどね」
「ごめんなさい……」
「いいのよ。それよりも、今回の事故の事だけど……なんかおかしいのよね。照明が落ちてくるなんてあり得ないのに。それに、ヒカルちゃんの真上からでしょ?人為的な物を感じて仕方がないのよね。結菜ちゃん。あなた何か知らないかしら?些細なことでもいいのよ。もしも何か気づいたことがあれば、すぐに教えてね」
ジリッと心が痛んだ。やっぱり言うべきだ。ヒカルには隠しておいても、広海には言っておいた方がいい。
「広海さん……実はね……」
広海に向かって言いかけたとき、病院のガランとしたロビーに響く足音が聞こえた。
「……どうして?」
振り返ると結菜は眼を見開いて二人に向かってくる人物を見た。
「ユイちゃんが落ち込んでないかって心配で」
その人は、可愛らしい顔の瞳を潤ませながら、結菜を真っ直ぐ見つめていた。
「あなた、どこかで会ったことがあるわね」
「あの時は突然おじゃましてすみませんでした。ユイちゃんと仲良くさせてもらっている紫苑と言います」
紫苑はしおらしく広海に向かって会釈をすると、結菜に大丈夫?と聞いてきた。その紫苑の態度は昨日までの紫苑で、先程の紫苑が嘘のように思えてくる。
「紫苑。なんでここに……」
「なんでって……僕はユイちゃんが心配で……」
自分を気遣うように、そしてさも心配そうな表情をすると、紫苑は結菜に近づいてきた。腕を掴まれ、引き寄せられると、紫苑が耳元で囁いた。
「ホントのことを言ったら、すぐにでもひーちゃんのこと殺しちゃうよ?」
誰も知らない……
本当は悪魔のような紫苑との戦いが始まった――――