夢の中?
「…………か、こっち…………みる」
「うん。僕が……どうなって…………思うと恐ろしいよ」
「ありがとな。紫苑……」
遠くでぼんやりと誰かが話している声が聞こえた。
「そんなこと、蓮くんにお礼を言われることじゃないよ」
−蓮くん?
「上条は無事だったんだろ?だったら」
「だって、ユイちゃんとは別れたんでしょ?もう蓮くんには関係ないんじゃない」
「紫苑……」
まだ夢の中を彷徨っているように身体が重怠い。
そして夢から覚めようと必死で抵抗しているつもりでも、眼ですら重くて開かなかった。
−私、どうしちゃったんだろう?
まるで、自分の上に何かが覆い被さっていて、その見えない何かに身体中を押さえつけられているような、そんな錯覚すらしていた。
「だって、そうでしょ?別れた原因は、蓮くんの浮気だってみんな言ってるよ」
「…………」
「それ、ホントでしょ?あんなに思い詰めて、ユイちゃんが可哀想だよ」
−紫苑?
耳だけははっきりと音を捉えている。
結菜は紫苑が言ったことに反論しようと、また動かない自分の身体に抵抗した。
動かしているつもりでも、身体は思うように脳の命令を聞き入れてはくれない。それなのに、頭だけは冴えていて、自分が今どこにいるのか、やっと開いた眼で把握することができた。
ここは紫苑の部屋。そしてあんなに高かった天井が近くにあるということは、階段を上った先にあるロフトにいるのだろう。二人の話し声が下の方向から聞こえてくるから間違いないと思う。
「本当は俺が守ってやらなきゃいけないのに、お前にばっか助けてもらって悪かったな」
「蓮くんにそんなことを言う資格があるの?ユイちゃんが危険な目に遭ってたら、僕は何度だって助けるよ」
「…………」
「僕だったら何があってもユイちゃんから離れたりしない」
紫苑は知らない。何も分かっていない。蓮がどういう思いで自分と離れることを選んだのか。
少しずつ感覚が戻ってきた身体を起こそうと再度チャレンジした。蓮がすぐ傍にいる。紫苑とどんな話しをしていようと、今、蓮の傍に行きたい。
下にいる蓮に向かって手を伸ばすと、ドサッという音がして自分がベッドから落ちたことを知らせた。
「誰かいるのか?」
「起きたのかな」
階段を上ってくる足音が聞こえる。ベッドから落ちて身体に刺激を与えたせいか、また少し感覚が戻ってきた。
仰向けになっている身体を起こそうと賢明に手足を動かした。ほんの少しの動作というのに、既に疲労困憊している。横向きになった時点で階段を上がってきた紫苑と眼があった。
−紫苑……
喉の感覚までは戻ってきてはいないらしく、声が全く出てくれなかった。
「上条?」
紫苑に続いて蓮が結菜の目に映った。
自分の身体は今どうなっているのか分からないけれど、蓮が目の前に現れたことで、それも忘れてしまうほどに嬉しさがこみ上げた。
傍にいても眼も合わせられなかった蓮が、そこにいて自分を見てくれていると思うだけで涙が出そうになる。
でもこの時はまだ、自分の置かれている状況を全く理解していなかった。
やっと起きあがり、床にペタリと座り込んでいる結菜に紫苑が近づくと、一緒に落ちていた布団を結菜の肩に掛け、身体を隠した。結菜は紫苑の行動を不思議そうに見て、視線を蓮に移すと、蓮は驚いた時のように眼を見開き立ちつくしていた。
「こういうことだから。でもいいよね?蓮くんとユイちゃんはもう関係ないでしょ?」
紫苑が蓮に言った言葉の意味が分からず、結菜はただ紫苑と蓮の顔を交互に見ているだけだった。
「そんなの信じられるか」
「じゃあ。ユイちゃんに聞いてみれば?」
蓮の軽く握っていた手にぐっと力が加わったのが分かると、蓮が紫苑を押しのけて結菜の傍に近づいてきた。
「お前からちゃんと説明してくれ」
−蓮くん?
見上げた蓮の顔は怒っているようだった。
「お前……紫苑と。そんなのウソだよな?ちゃんと誤解だってお前の口から聞かせてくれ」
−誤解って何のこと?
聞きたくても声にならない。
「頼むから何か言ってくれ……」
それは絞り出すような声だった。今にも泣きそうな蓮の声に、自分の身に何が起こっているのか把握する必要があることを感じた。怒りを抑え込んでいるように見える蓮の後ろには無表情の紫苑が立っている。そしてまた蓮に焦点を合わせると、痛いほどの視線が絡んだ。
−……もしかして私?
蓮は自分に怒りを向けているのだと気がついた。でも、どうして?何故なんだろうと思うばかりで、蓮が自分の何に怒り、そして何に悲しんでいるのか分からない。
「何も言えないのかよ……」
再び悲しそうな顔と怒りが混ざった表情を結菜に向けると、蓮は握った拳を震わせながら階段を下りていった。
−待って!蓮くん!!
頭の中では大声で叫んでいて、今すぐに蓮のことを追いかけている。
でも、現実は床に座ったままの状態で、声すら出せない。
−どうなってんのよ!
動かない足を引きずり、少しだけ動くようになった手だけで這うように前へ進んだ。階段の傍まで行くと、紫苑の足で行く手を遮られた。
「蓮くん。帰っちゃったよ?」
−紫苑……
見上げた紫苑の顔はいつもの無邪気な笑顔ではなく能面のように無表情だった。
紫苑が屈んで結菜と視線を合わせると、結菜の腕を掴み、またベッドへと引き戻される。
「身体。まだきついんでしょ?もうちょっと休んだ方がいいよ」
紫苑によってベッドに寝かされると、再び眼が閉じそうになった。
霧が掛かったような視界に、これは夢かもしれないと思わされる。
蓮のことを早く追いかけたいという思いとは逆に、抵抗することが出来ない程の重い瞼をそのまま閉じてしまった。
***
「ユイちゃん」
どれくらい眠ったのだろう。
身体を揺すぶられ、目覚めた先には、笑顔の紫苑に顔を覗き込まれていた。
「ん……紫苑?」
今度は簡単に声が出た。
そうかあれはやっぱり夢だったのか。と思い、身体を起こすと、これまたすんなりと身体が動いた。どちらかと言えば、ぐっすりと眠ったせいか、爽快な気分だ。両腕を高く上げて身体を伸ばしてみると、気持ちが良いほどにポキポキっと骨の鳴る音が聞こえた。
「服……」
「え?」
「服を着た方がいいよ」
紫苑に言われて自分の身体に視線を落とすと、下着姿の上半身が丸見えだった。
「ちょっと、なんで裸なの?」
慌ててずり落ちている布団で身体を隠すと、私はどうしてここで寝ているのだろう?と疑問が沸いた。
黒スーツの男達に追われて、紫苑のマンションに逃げてきた。そしてこの部屋に入って、紫苑と話しをしていて……
それからどうしたんだろう―――
「蓮くん、案外あっさり帰っちゃったね。一発ぐらい殴られるのかと思ったのに」
「……え?」
「僕たちのことを誤解してたみたいだけど、どうせならこのまま付き合っちゃおうか?」
「ちょっと待って。紫苑……あなた何言ってるの?」
あれは夢だった筈。だって……だったらどうして夢の中で蓮が誤解をしたまま立ち去ったことを紫苑が知っているのだろう。
「ユイちゃん。あれは夢じゃないんだよ。現実なんだよ」
フッと笑った紫苑の顔には、いつもの無邪気さが消えていた。
「私……」
ここに来てから身体がおかしくなったことを思い出した。動かなくなった手足。朦朧としていた意識。
「紫苑。私に何かしたの?」
これは明らかに紫苑が何かを知っている。
「ユイちゃんは僕のこと何も分かってないよね。でも僕は分かるんだ。ユイちゃんのことならなんでも……だって、ずっと見てきたんだもん」
「…………」
紫苑の人差し指が伸びてきて、ツッと頬を伝った。
「おかしいと思わなかった?ユイちゃんに何かあればいつも僕が傍にいて。だってあれはね……」
顔を近づけた紫苑の眼は怖いぐらい表情がなかった。
「し……おん?」
紫苑の冷たい瞳を見ると、背中に冷気が走る。
「だって。あれは全部僕がやったんだ。ホテルにユイちゃんの友達を監禁したのも、学園で男達に襲わせたのも、さっきの男達だってそうだよ。僕が全部やったことだよ」
「ウソでしょ。なんで?!どうしてそんなこと……」
「簡単だよ。ホテルの時と学園で助けたのはユイちゃんと蓮くんに近づいて僕のことを信用して貰うため。予想通りユイちゃんはすぐ僕のこと信じてくれたでしょ?ユイちゃんに警戒心がなければ、蓮くんにもすぐに近づける。でも、男達に襲われて、ユイちゃんがあそこまで抵抗できないなんて思わなかったから焦ったよ」
紫苑はいったい何を話しているのだろう……
これは何かの間違いか、それとも悪質な冗談か。
「だって……あの時は、危ないところを助けてくれたじゃない」
そう。あの時紫苑が助けてくれなかったら、あのままあの男達に……
考えるだけでも恐ろしい。
「僕の計画では、ユイちゃんがヤラれちゃうまでは入ってなかったからね。そうなったらユイちゃん悲しいでしょ?」
「そう思うんだったら、どうして……」
「僕はただ、あいつらにユイちゃんをいいようにされたくなかっただけ。だって……」
紫苑の口許を上げただけの笑みに身体がゾクッと震えた。
いつもとは違う紫苑に恐怖を感じる―――
「だって、ユイちゃんを壊すのは、この僕だから……」