迫る魔の手
結菜と紫苑は狭い路地を縫うように走っていた。
「ユイちゃん。あの人達って……ハァ……誰?」
「そんなの。私が聞きたいよ〜〜」
後ろを振り返ると、黒いスーツを着た男達がまだ追いかけてきている。走るのももう限界で足が縺れだし、前を走っている紫苑に先に逃げてと告げてから結菜は走るスピードを緩めた。
「ユイちゃん。もう少しだから走って!」
紫苑が後ろを振り返り、結菜の手を取ると大きな通りに誘導した。
どうしてこんなに走っているのだろう……
学園からの帰り道。後ろから紫苑に声を掛けられた。
「ユイちゃん。一緒に帰ろうよ」
「だからね……」
「蓮くんに頼まれたって言っても、一緒に帰ってくれないの?」
「蓮くんが?」
紫苑は可愛い顔を最大限に活用し、結菜が怯んだ隙に隣に並ぶと「そうだよ。蓮くんがね」と話し始めた。
紫苑が言うには『もう俺は上条の傍にいてやることが出来ないから、代わりにあいつを守ってやってくれないか』と蓮が頼んできたらしい。
「それにさ。ユイちゃんに言えなかったんだけど。ユイちゃんが一年の男子に襲われたこと、蓮くん知ってたよ。何をしたのか知らないけど、あれからあの三人は学園に来てないんだよ。それ、ユイちゃん気づいてた?」
結菜は知らないと頭を振った。
「あっ……もしかしてあの時の……」
あの時、赤く腫れていた手の甲の理由はそう言うことだったのかもしれない。
「運良くユイちゃんを二度も助けたってことで、蓮くんが僕に頼んできたんだと思うけど。ねえ。二人は別れたんだよね?でもどうして蓮くんはそんなこと僕に頼むんだろうね?」
「さ、さあ。どうしてだろうね?」
歩きながら話している紫苑の向こう側に、黒い車が二台停車するのが見えた。
蓮は知っていた。どこまで知っていたのだろう。襲われた理由も知った上で、それでも離れることを選んだ……
―――どうやったらお前を守れるんだろ……
蓮が言ったあの言葉の意味が分かった気がした。
「蓮くんはまだユイちゃんのことを好きなんだと思うよ。でも浮気は良くないよね。浮気相手は年上だったんでしょ?やっぱり許せないよね」
何も言っていないのに、別れた理由は蓮の浮気だと思っているらしい。
それも度重なる浮気。
それに私が愛想を尽かして三行半を押したと紫苑だけではなく、学園中のみんなが勘違いをしている。
それを否定しない蓮にも、そんな噂が広まった要因があるらしい。
もちろん、浮気などしていないのだけれど、陰口を言われている当の本人は「タイミングがいいな」とケロリとしている。
こんなんでいいのだろうか……
溜息を付いていると、紫苑が後ろを何度も気にして振り返るばかりしていた。
「後ろに何かあるの?」
結菜も後ろに眼を向けるが、学園の制服を着た生徒が同じように下校している姿が見える程度で、特に変わった様子はなかった。
「誰かにつけられてる」
「誰かって?え?私たちが??」
驚いてまた後ろを見ると、紫苑がシッと口だけで音を出し、何も気づいていないように歩いてと言われ緊張しながらも前を向いた。
「後ろに三人。前に回り込んだ二人がいる。もしも同時に襲ってきたら、後ろの三人は任せて」
「分かった。私は前の二人をなんとかしてみる」
そんな会話をしているなんて誰も思いもしないように、自転車のおばさんが通り過ぎ、花に水をあげているおじさんの前を通過した。それは、日常の平凡な光景だった。
でも、それは角を曲がるまで―――
コンクリートのブロック塀を曲がると、待ち構えていた黒スーツを着た二人の男がいきなり襲ってきた。
結菜は始めの一人をかわすと、次の男に持っていた鞄をぶつけ、隙が出来ると透かさず男の腹に蹴りを入れた。紫苑を見ると、結菜が避けた一人目の男を既に倒したところだった。
「今度は三人が来るよ」
「うん」
言葉通り、前の二人を紫苑と倒すと、すぐに後ろから三人の男達が襲ってきた。
紫苑は二人の男を鮮やかに倒し、結菜はもう一人の男の顎に蹴りを入れて難なく倒すと、投げた鞄を拾い上げた。
男達は呻き声を上げながらも立ち上がると、よろよろとしながら、逃げ帰っていく。
「あいつら何?」
「さあ……」
もしかすると……という疑いはあったが紫苑に話すようなことではない。でも蓮と別れたのに何故自分が襲われるのか疑問が浮かんだ。
蓮と別れるフリをしてからは、志摩子からの嫌がらせもないとケイが言っていたのに、蓮絡みで襲われるようなことはあり得ないと思っていたから。
「それにしても、ユイちゃん強いね。なのに、なんであの時はやられたの?」
「それ。言わないでよ……」
鞄に付いた埃を払うと、帰ろうかとまた紫苑が隣に来て歩き出した時だった。
目の前の歩道に乗り上げるように勢いよく黒塗りの車が数台止まると、さっき襲ってきた男達と同じような黒いスーツを着た男達が集団で車から降りてきた。
それも、巨漢の男達ばかり。
「これって、やばいよね」
結菜はそう言って後退りすると、紫苑も
「相当、やばいでしょ」
と情けない顔で結菜を見た。
バンっと車のドアが閉まる音が合図のように、結菜と紫苑は走り出した。当然のように男達は追ってくる。
そうだった、だからこんなに走っていたんだ……
逃げても逃げても追ってくる男達に、もういいかと諦めかけていた。でも関係ない紫苑を巻き込むわけにはいかない。だから、自分が残り、紫苑は逃げてもらおうと提案したのに、今その紫苑に手を引かれてまだ逃げている。
紫苑はマンションの前に来ると慌てて番号を押し、自動ドアが開くと結菜を押し入れた。
二人が入り、自動ドアが閉まると、透明なガラスの向こうに追いかけて来ていた男達が見え、思わず紫苑の後ろに隠れた。
「大丈夫だよ。暗証番号を押さないと開かないから」
紫苑の言ったように、男達がドアの前に来てもそのドアは開くことはなく、こじ開けようと隙間に指を入れたり、ドアを叩いていたりと必死で格闘しているが無駄のようだった。
今、外に出ることはできない。結菜は紫苑に言われるままにエレベーターに乗った。
「ここって。どこ?」
「僕の家だよ。男達が居なくなるまで中に居た方が安全でしょ?」
紫苑にマンションの一室に通されると、玄関で躊躇っている結菜に、笑いながら紫苑は中にはいるように促した。
「なに警戒してるの?もしかして、僕がユイちゃんを襲うとでも思ってるの?」
「そうじゃないけど……家の人は誰もいないよね」
「いないよ」
「だったら……」
「今外に出たら、ここより確実に危険だね」
一度中に入った紫苑が戻ってくると、ニコリと笑い結菜にペットボトルを差し出した。
「ありがと……」
相手は紫苑だ。知らない人ではない。そう思い、お邪魔しますと小さく言いながら、中に入っていった紫苑を追いかけるように、結菜も靴を脱いで部屋の中に入った。
デザイナーズマンションと言うのだろうか、コンクリートの打ちっ放しの壁にモダンな家具がよく合い、床の白いタイルが光っていた。
「あんなに走ったから疲れたでしょ」
「そうだね」
ふかふかのソファーに座り、紫苑に貰った水を飲みながら、キョロキョロと部屋を見回していた。打ちっ放しの壁から生えるように突き出した階段を眼で追っていくと、上にはロフトのような空間があった。
「あの男達って何者なんだろうね」
「うん……」
「あそこ。気になる?」
結菜が見上げているロフトを紫苑が指をさした。
「ここってワンルーム?」
「そうだよ。僕一人暮らしだからね」
「ふ〜ん」
一人暮らし……
あそこのロフトに上がって寝るのだと紫苑が教えてくれた。
「ねえ。ユイちゃんて、本当に蓮くんと別れたの?」
「え?」
唐突な質問で飲んでいた水を吐き出しそうになった。
「だって、ユイちゃんだって今でも蓮くんのこと好きでしょ?浮気したのがそんなに許せなかった?」
紫苑にしてみたら、無邪気であまり何も考えずに言ったことかもしれないけれど、結菜にとっては返答に困る質問だった。
別れたフリをしているのだから、そのことを何も知らずに近くにいる紫苑が不思議がるのも分かる気はする。
「あのね。紫苑……」
紫苑には話しておいた方がいいのではないのかと思った。男達に襲われ、そして追われた。確実に紫苑を巻き込んでしまったのだ。これからも紫苑といるときにこういうことが無いとも限らない。
「別れてないんだよね?」
「そのことだけど」
話そうとすると、ぐらりと視界が揺らいだ。
−目眩?……違う。
「ユイちゃん?」
「……私……どうしたんだろ」
心配そうに見ている紫苑の顔が波打って見える。
座っているのも辛くなるほどに身体が怠くなり、持っていたペットボトルが手をすり抜けて落ちていく―――
ボトルが白いタイルの上で跳ねると、足下で水たまりができていた。
−何?これ……
天井がグルグルと回って見え、気持ちが悪くなる。そのうち、瞼が重くて開けていられなくなり、眼を瞑ると暗闇の世界に引きずり込まれていった。