言えない
信号が青になり、人々が一斉に動き出す。結菜はそれに逆らうかのように、そこから動けずにいた。皆、結菜を避け、足早に通り過ぎていく。誰一人として泣いている結菜に気づく者はいない。
目の前にはつい先程、自分が悲しい顔にさせてしまったヒカルがいる。
大型ビジョンに映し出されたよそ行きの顔をしたヒカルが、自分が主演する映画について語っている。
今日の自分はおかしい。どうしてあんなことを言ってしまったのか分からない。いつもなら、冗談っぽくやり過ごすのに……
そこにいるのは、いつもとは違うヒカル……
違う。やっぱり、こんなのヒカルじゃない!
私の知っているヒカルは、意地悪だし、すぐ怒るし、言葉遣いだってこんなに丁寧になんて喋らない。大きな口を開けて笑うし、変なくしゃみだってする。
やめてって言っても変顔の写メ送ってくるし……お節介だし、心配性だし……それに、それに、
―――どんなに遅く帰ってきても、私の部屋を一度は覗くことも……知っている。
そう……ヒカルは私には、めちゃめちゃやさしかったりする……
なのに、どうしてそんなに忙しくするの?
もう少し、ほんの少しでいいから傍にいてほしい。幼い頃からずっとそうしてきたように……
あふれ出た涙が落ち、アスファルトに吸い込まれていく。
交差点に面した歩道には、同じくらいの女の子たちが嬉しそうにヒカルの姿を眺めている。
どれくらい、そうしていただろう。結菜はまだ乾かない涙を拭うと、踵を返して駅の方へと戻っていった。
駅前には腰ほどの高さの丸い花壇がいくつかある。花壇の中には色取り取りの花が植えられており、その花々を背にするようにベンチが備え付けられている。駅前ということもあって、待ち合わせ場所にしている人や、休憩している人など、様々な人々が集っている。
結菜が花壇の前に行くと日曜日にしては空いており、難なくベンチに座ることができた。
疲れた足を少しだけ休めるためと、もう一つ、ヒカルに電話をするために……
−やっぱり、謝ろう。
そう思い携帯電話を取り出した。
「HIKARU超〜かっこよかったね。映画絶対見に行こうね」
高校生くらいの女の子が二人、隣に座って話し始めた。不意に聞いた『HIKARU』と言う言葉に、手の動きを止め、思わず意識がそちらへと向かう。
「楽しみぃー。あ〜早く映画観たいよ。あたし、やばいぐらいHIKARUファンなんだ」
「えっアッキーも?実は私もHIKARUファンだよ」
「そうなんだ。あたしたち気が合うよね」
HIKARUファンだというその女の子たちは、意気投合し話が徐々に盛り上がっていく。
結菜は、かけられない携帯電話を触りながら、女の子たちの話を聞いていた。
「映画が始まるの、来週の土曜日だね。頑張ったけど、初日のチケットはとれなかったよ。残念」
「マユも?私も結局とれなかった。しょうがないよね」
女の子の話しを聞いて、結菜はあっと思い出したかのように、斜めがけの鞄から封筒を取り出した。今朝、広海から渡された映画のチケット。印字されている日付は来週の土曜日だ。
この映画を観に行きたい人がいるのに……
私はやっぱり行けないよ。
意地を張っているのかもしれない。我が儘なのは充分わかっている。それでも、どうしても芸能人としてのヒカルは見たくなかった。
「あっねえ、これ……初日のチケットじゃない!」
結菜のすぐ隣に座っていた、マユと呼ばれていた女の子が、結菜の持っているチケットに釘付けになっていた。
「ちょっと、マユ……」
友達の恥ずかしい行動を止めようと、もう一人の女の子がマユの袖口を引っ張った。
「だって、めちゃめちゃほしかった初日のチケットだよ!それに、舞台挨拶のある映画館のじゃない?」
「……マジで……」
二人の視線が痛いほど、チケットに注がれている。
「あの……よかったら」
どうせ、自分は行くつもりはなかったのだ。捨ててしまうよりは喜んで貰ってくれる人にあげた方がいい。
そう思い、結菜はチケットを差し出した。
「ホントに?……いいの?」
結菜が頷き、マユがチケットを受け取ろうとしたその時、アッキーがマユの腕を掴みそれを阻止した。
「ダメだよ」
「どうして?あげるって言うんだから貰ったっていいじゃん」
アッキーはマユに向かって首を振り、結菜に視線を移した。
「あなただって、HIKARUファンでしょ?」
「…………」
「さっき、そこでHIKARUを見て泣いてたよね」
「えっそうなの?」
マユも結菜に視線を向ける。
「何があったのか知らないけど、これはあなたが持ってなくちゃダメ」
「えっあの……」
「あたし、縁って信じてるんだよね。このチケットをあたしたちが貰うのも一つの縁だと思うけど、その前にあなたのところにあることも、何か意味があるんだよ。そういう縁も大事にしないとね」
−意味のあること……?
私がヒカルの映画を観ることに意味なんてあるの?
「アッキーがそう言うなら仕方ないよ。諦める!ホントにホントに残念だけど」
「マユ……」
「では、気を取り直して、HIKARUファンが偶然にもここに3人いることも何かの縁、ということで、HIKARUクイズをしたいと思いまーす!」
マユが拍手をしながらテンション高めにそう言い、アッキーと結菜もその勢いに押されて思わず一緒になって拍手をした。
KIKARUクイズって?と思う暇もないほど、ノリの良さに圧倒され流されていく。
「その前に、あなたの名前はなんて言うの?」
「えっと……ゆい……」
−な…
「ああ。ユイね。この元気のいいのがマユ。あたしは、みんなからアッキーって呼ばれてる。ユイもそう呼んで」
−『ユイ』……間違いではないけど……
結菜は胸の奥がざわつくような、複雑な気分だった。
二人共、見た目は、自分より少しお姉さんに見える。アッキーは、カールアイロンでキレイに巻いた背中まである髪に、細くて形よく整えられた眉。大きな目を更に強調するように黒のアイラインで縁取りをしている。マユの方はと言うと、肩の長さで揃えられたボブカットで、お化粧もアッキーほどではないが、目の周りのアイシャドーといい、グロスで光っているくちびるといい、今時の女子高生という感じである。
化粧っけのない結菜が幼く見えるのは当然かもしれない。
キレイに化粧されたアッキーとマユの顔を交互に見ていると、マユが早くクイズをしようとアッキーを急かしている。どうやら、本当にその『HIKARUクイズ』とやらを行うようだ。
HIKARUファンだと言われるのも、なんだか複雑な気分だ。
「それでは、1問目いきまーす。HIKARUが、初めてテレビに出た番組はなーんだ!」
「そんなの簡単だよ。『回るサワラ御殿』でしょ?あれって超貴重だよ。最近トーク番組なんてあまり出ないから」
「ブッブー。残念!ハズレ!」
マユは嬉しそうに手でバツマークを作った。
アッキーの答えが間違えていたのがマユにとっては嬉しかったらしい。
「初めてって……確か、『パチキン先生』で生徒の弟役じゃなかったか……な」
結菜が答えると、マユの動きが止まった。
−あれ?違ったかな?
確かヒカルが『初めてテレビに出るから観ろ』とみんなで興奮して観たような……
「ユイ。すっごい!正解だよ」
「えーっあたし知らないよ〜マジで?ショック……」
「アッキー落ち込まないで、今度DVD貸してあげるから。
じゃ、次。二問目いきまーす。最近HIKARUが集めている物は何?これは簡単でしょ?」
−なんだろ?
ヒカルの部屋の中を思い出す。あまりキレイとはいえないその部屋に何か同じような物があっただろうか?近頃は寝るだけに入る部屋……
分からない―――
「ハイハーイ。帽子とメガネ!これは、簡単だよ」
マユの質問にアッキーが手を挙げて答える。
−へぇ、そうなんだ。
「ピンポン!正解。次は少し難しいよ。
では、3問目。HIKARUの家族構成は?」
ドキッとした。
「妹と伯父さんでしょ?お父さんとお母さんは小さい頃、亡くなったって聞いたことがあるよ。きっとHIKARUって苦労してるんだよね」
アッキーの声が急に大人しくなり、先程まで明るかったマユも神妙な顔つきになった。
−どうしよう言わなきゃ。今言わないと……
自分がヒカルの妹だと、騙してはないにしても言わないでおくのももう限界かもしれない。
会って間もないけど、結菜にはこの二人は悪い人には見えない。寧ろ良い人たちだ。アッキーとマユに話しても、この二人なら『言ってくれればいいのに』と笑って許してくれると思う。
「HIKARUの妹と言えば、高校はコウナンでしょ?コウナンの友達が言ってたんだけど、その妹がいるクラスだけ凄いらしいよ」
「何が凄いの?」
マユの話にアッキーが身を乗り出して真剣に聞いている。
自分が妹だと益々言えない状況に追い込まれていく。
「イケメン揃いだって。アッキーも聞いたことない?西中で有名だった雨宮蓮と塚原純平」
「知ってる。アイドル並にかっこいいって……あたしの友達なんて、その塚原純平のお兄さんの追っかけやってる子がいるよ。イケメン兄弟で有名だよね。雨宮蓮はちょっと恐いって噂だけど。へーあの二人が同じクラスなんだ」
−そんなに有名なんだ
そんなことより、やっぱりこのままじゃいけない。言わないと……
「あの……」
思い切って結菜は口を開いた。
「あ、ごめん。つい夢中になっちゃって。何?ユイも知ってる?」
「う……ん。知ってる」
−ダメだ。言えない。どうしよう。
「HIKARUって凄いシスコンだっていうのも?」
−シ、シスコンって……
「マユ。それは噂でしょ?」
「違うよ。ホントのことだよ。私聞いたんだ。HIKARUの友達の元カノに……あのね、中学の時のHIKARUって良い奴だったけど、いくら仲が良くても触れてはいけないことが一つだけあったんだって。それは、妹のこと……で、その妹のことに触れると途端に機嫌が悪くなるんだって。同じ中学に妹が入ってきた時に、一時期男子たちが騒いで、その男子全員締め上げたらしいよ」
「ウソ……」
アッキーは信じられないといった顔をしている。
「それで、その友達が聞いたんだって。『どうして、そこまでするんだ』って、そしたらHIKARUは『妹を守りたい』って……私も驚いたんだけど、HIKARUの妹って小さいときに誘拐されたことがあるんだって」
−えっ……誘拐?なに?そんな話し聞いたことないよ。
「誘拐って?」
「やっぱ、アッキーも知らなかったんだ。すぐに犯人も捕まって、妹も無事に戻ってきたらしいけど、その時のことが頭から離れないって……だから、妹には誰も近づけさせなかったらしいよ」
知らなかった自分の過去をマユは淡々と語っている。それは本当のことかどうかは分からないけど、ヒカルの行動といい辻褄が合うような気がする。
自分が誘拐されていたこともショックだけど、ヒカルのことで、知らないことがたくさんあることの方がショックかもしれない。
「へー意外な一面。でも、そういう妹思いのHIKARUもステキかも」
「アッキーもそう思う?私もそれを聞いて、もっとファンになったというか……」
「ところで、HIKARUの妹ってなんて名前だったかな?」
「えっと確か……」
しまった!大事なことを忘れていた―――
名乗り出るタイミングをすっかり無くしてしまっていた。
−どうしよう。このまま言わずに乗り切ろうか……
「結菜ちゃん!」
「そうだよ。『ゆいな』だよ」
「「えっ」」
アッキーとマユが驚いて声のした方を同時に見た。
結菜の後ろから掛けられた声に反応する。それは、聞いたことのある声―――
「やっぱり。上条結菜ちゃん」
青ざめた顔で振り返ると、そこには爽やかな笑顔を振りまく、あの人がいた。