戸惑う気持ち
「上条。俺たち別れようか―――」
思いも寄らない言葉に、結菜は蓮の顔も見られず、そのまま固まってしまった。
『別れるフリをしよう』と言うのではなく蓮は『別れよう』と言った……
冷静になれと思っても、蓮と触れている手はきっと震えている。正直、何が何だか分からない。
「イヤだ……」
絞り出すように、やっと蚊の鳴くような小さな声が出た。
「…………」
「蓮くんと別れるなんて……イヤ」
結菜の小さすぎる声は街の雑音に消されてしまって聞こえなかったのかもしれない。
蓮からの言葉が返ってくるまでの時間が長く感じた。
「お返しだよ」
「え?」
蓮を見上げると、ニッと悪戯な顔をしていた。
「だってさ。この前は俺がお前にやられただろ?だからお返し」
「この前って……あっ」
『私。蓮くんと別れようと思うの――――』
確かにさっき蓮が言ったことと同じような事を言ったことがある。
蓮の言うお返しとはつまり、あの時「別れようと思うの」と、自分の言葉を聞いた蓮が慌てていたように、今度はこっちの反応を見るために故意にそう言ったということ……?
「でもあれは言葉足らずと言うか、態とじゃないもん!」
「でも、お前はそういう風なことを俺から言われるって覚悟してたんじゃねえ?だからお相子だろ?」
どういう意味で同等なのかさっぱり分からない。
結菜は悪戯っ子のように笑っている蓮に腹が立ち、繋いでいた手を離そうと自分の手を引いても、絡まるようにグッと握られた密着した掌が離れることはなかった。
「離してよ」
「イヤだ」
「もう!離してってば!」
「俺と別れるのはイヤなんだろ?」
ニヤつきながら見下ろされる蓮にムカつき、離れない手を更に引いた。そして手首を返すと蓮はあっけなく膝をついて降参した。
ここに入ってきたときは、何か思い詰めたような顔をしていたのに、それもきっと芝居だったのかもしれない。そう思うと余計に腹が立つ。
「機嫌直せよ」
ったく誰の所為で、とブツブツ文句を言いながら部屋に入って荷物をベッドルームに運んでいた。蓮も仕方なく後に続く。
「腕、落ちてないじゃん。手首のあれ、やられたの二回目だけど全然反撃できねぇし」
蓮は荷物を置き、ドカッとベッドに座ると手首を回していた。
「あれぐらい……」
言いかけて思い出した。蓮の手の甲が赤くなっていたことを……
「なんだ?」
結菜は蓮の傍に座るとさっき無理矢理離した手をとった。
「ここ、どうして赤いの?」
「赤いか?そうかな?どこかでぶつけたか。ああそうそう、俺二日間風呂に入ってなかったから、シャワー浴びてくる」
蓮はそう言ってそそくさと立ち、逃げるようにバスルームに消えていった。
−あやしい……
あの態度は絶対に怪しい!
今すぐに問いただしたいけれど、いくら何でもバスルームまで追いかけていく度胸はない。このバスタイムに蓮はこのことについての言い訳を考えているのかもしれない。
−その言い訳とやらを聞いてやろうじゃない!
ケンカをしたのには間違いないだろう。問題は誰と?というところ。
もしかして、と結菜はヒカルに電話をしてみた。
しかし、ヒカルは撮影中で電話に出たのはマネージャーの早見だった。その早見にヒカルの様子を聞くが、変わったところはないと言うのでヒカルは、シロ。念のため広海にもかけてみるが、蓮とのこの休日をからかわれただけで終わり、こちらは真っシロ。
純平と紫苑も疑ってみるが、ケンカをするような動機がない。
「ん〜分かんない」
やっぱり蓮に聞くしかないとお風呂から上がってくるのを待っていると、不覚にもそのまま眠ってしまった。
眼が覚めたのは夜が明けかけた時だった。まだ薄暗い部屋のベッドの中では、いつの間にか布団が掛けられ、腰には後ろから伸びた蓮の腕が身体を引き寄せるように覆い被さっていた。頭の上から蓮の寝息が聞こえる。
自分の状況を把握すると、かあっと全体が熱を帯びたように熱くなった。急に息苦しくなり、密着した身体を離そうと、横向きの身体を少しずらすと眠っているはずの蓮の脚が自分の脚に絡まり、身動きが取れなくなってしまった。
もしかすると蓮は起きていてまた自分をからかっているのかもしれないと疑ってみても、確認することもできない。
蓮が眠っていればその方がいい。今、この状況で起きられてもどういう反応をしたらいいのか分からない。
結菜は蓮が起きないように時間を掛けて少しずつ身体を離し、無事ベッドから起きあがることができた。
寝起きから疲れてしまい、リビングルームで休憩をしてからシャワーを浴びた。シャワーを終えてもまだ蓮は起きて来ない。かなり疲れているのだろう。一週間というもの、睡眠らしき睡眠も取らずに父親の捜索をしていたのだから……
結菜は蓮が起きてくるまでの間、コーヒーを淹れて飲んだり、早朝のバルコニーからの眺めを堪能したりして過ごしていると、呼び鈴が鳴る音が部屋の中で聞こえた。
「はい……」
確認もせずにドアを開けると、そこに立っていたのは女装をしたケイだった。
「おはよ。結菜。あれ、蓮は?」
ドカドカと蟹股で入ってきた。
「まだ、寝てるよ。こんなに早くどうしたの?」
しかもそんな格好でと不思議そうに言うとケイがいつものようにニヤリといやらしい笑いを向けてきた。
「そうか。昨日は頑張っちゃったから、そりゃ疲れたよな」
ケイは結菜の肩にポンと手を置くと、ウンウンと頷いている。
「何が?」
「何がって……そんなこと私に言わせたいの?」
急に声を変えたケイが女に変身すると、口に手を持って行き、くねっと身体を歪ませた。
「キモイんですけど」
「『キモイ』なんて酷いわ」
およおよと泣く芝居をしているケイを無視して、結菜はコーヒーを淹れる為に踵を返すとケイもからかうのに飽きたのかソファーにドカッと腰を下ろした。
「今日は女装してくる必要なんてなくない?ていうか何しに来たの?」
「前から思ってたんだけど、結菜ってオレに冷たくない?」
「そんなことないでしょ。こうしてケイのためにコーヒーまで淹れてあげてあげてるのに」
『ケイのために』と協調して言うと、それはそうだなと単純に納得し、ケイは結菜の出したコーヒーカップを口に運んだ。
「蓮に頼まれたんだよ。ったく、あいつはこのオレ様を何だと思ってるのか……」
「蓮くんが?」
「ああ。さっそく始めようか」
「始めるって……何を?」
ケイの手によって自分が自分じゃなくなるみたいに変わっていく―――
鏡の前に座らされ、ケイの綺麗な顔が近づき、瞼を持ち上げられると、慣れた手つきでアイラインを入れられた。
「メイク、人にもよくしてあげるの?」
「たまにね」
そんなたわいのない会話をしながらも、徐々に仕上がっていく。
最後に、ケイが被っているウイッグと同じようなものを、上から乗せられると作業は終わった。
「すご……」
「だろ。女ってこんなに変わるんだぜ。結菜もたまにはこういうのもいいだろ?」
鏡の中に映っている女の人はどう見ても自分じゃないみたいで、本当に鏡なのか手を動かしてみたりして確認してしまった。それだけ、ケイのメイクの力は凄い。
以前、沙織という女の人に変装したことがある。それも普段の自分と比べると大人っぽさが倍増したが、今回の変身はその10倍ぐらい大人かもしれない……
「結菜の顔は化けるとは思ってたけど、これほどとはね。蓮も驚くだろうな。これで外に堂々と出られるだろ」
「うん……」
月曜からはみんなの前では蓮とは別れたということにしておくため、この休みに二人仲良くデートしていたなんて誰かに見られたら、それこそ計画が狂ってしまう。
だから蓮はケイに頼んで誰にも分からないように変身させたという訳。
この計画を知るのはケイとヒカルと広海。その他の友人達には言わないつもりだ。何故なら、マユが気にするかもしれないし反対されるかもしれない。それに、どこから裏の組織に情報が漏れるのか分からないから、知る人達を最小限に抑えないといけない……
ケイの用意してくれたワンピースに着替えると二人で蓮の起きてくるのを待っていた。
「これって短すぎないかな?」
スカートの長さを気にして少しでも長くならないかなと、裾の部分を引っ張ってみた。
「そんなことないだろ。いつも着てる制服の方が短いぐらいだよ。それにしても蓮の奴何してるんだろ。結菜起こしてこいよ」
ケイにそう言われ、渋々立ち上がると結菜は蓮の眠っているベッドルームに向かった。
相当疲れていたみたいで、近づいても一向に起きる気配はない。
「蓮くん?」
顔を傍に寄せ、蓮の耳元で囁くように言うと少しだけ瞼が持ち上がった。
「起きた?」
「ん……」
蓮は寝返りを打つと顔をクッションに押しつけまだ起きないと言うように押しつけたクッションの下に両腕を滑り込ませた。
そこから動かない蓮を見ていると、無理に起こすのは可哀想になり、起こすのは止めようとベッドから離れた。
リビングルームに戻ると、もう少し待ってみようとケイに話し、気になっていた昨日の事についてケイが何か知らないか尋ねてみることにした。
「結菜は知らないかもしれないけど、蓮はケンカなんて日常茶飯事だったからな。その時の相手とばったり会って……っていうパターンもあるかも。まあ蓮が言わないのなら気にすることねえよ」
「そうかな」
「それより、気になってたんだけど、結菜のその口んとこの傷はどうした?」
昨日よりは全然気にならなくなった一年の女子に叩かれた後をケイに目敏く見付けられると結菜は焦って誤魔化した。
「ちょっと自分で噛んじゃって。ホントそそっかしいよね」
「ふ〜ん」
「ねえ。そんなことより、ケイは今日なんで女装なの?」
ケイに話しを戻されないように違う話題に変える。蓮にも話していないことをケイに話すわけにはいかないし、何よりもう思い出すのも嫌だった。
「昨日のパーティーの帰りだからだけど?遅くなっちまってそのままここに来たんだよ」
「そう……あ。この前、ヒカルに変な芝居をするから、あれから大変だったんだから。ケイからちゃんと説明してよね」
「あれバレなかったんだ。へ〜オレって俳優になれるかも」
そんな悠長なことを言っていていいのかと呆れながら見ていると、さっきまでニヤついていたケイの顔が急に真剣なものに変わり結菜の心臓がドクッと大きく脈を打った。
いつもふざけているケイが真面目な顔をすると、それだけで緊張してしまう。
「結菜ってさ……」
「何?」
ケイのカールした長い睫毛が上下すると、綺麗な唇が少し開いた。
「蓮と離れてる間。オレと一緒にいない?」