触れた手
「ケイから聞いたよ……」
結菜はケイから父親のことだけではなく、雨宮グループの事についても知ったことを告げた。
「ああ。そうだってな」
意外と冷静に見える蓮は、きっとこの一週間でいろんな事を頭の中で整理してきたように感じる。
「お父さん心配だよね」
同じようにベッドの上で、壁に凭れて足を投げ出して座っている隣の蓮にそう話しかけた。何を言っても自分の言葉が軽く聞こえてしまうけれど、何か話しかけずにはいられなかった。
「もういいんだ……」
「え?」
「いくら探しても、きっともうどこにもいない」
蓮は投げやりにそう言う。
「そんな……そんなことないよ。きっと大丈夫だよ。そう信じていようよ」
ね?と蓮の顔を覗くが蓮が向けた笑顔は寂しそうで胸が締め付けられた。
きっと大丈夫なんて、何の根拠もない軽はずみな言葉。蓮を余計傷つけてしまったのかもしれない。
「俺……親父と会わなくなったこの三年間。俺が親父から逃げてた。電話が掛かってきても一度も出なかったし、親父が日本に帰ってきたって進藤のおっさんに報告されても俺には関係ないって会いにも行かなかった。だから、もし親父が生きていたとしても、向こうが俺に会いたくないんじゃないかな」
蓮の無理に笑おうとしている顔を見ると、自分を誤魔化そうとしているとそう感じた。
「そんなこと……ない」
「いいよ。慰めてくれなくても」
「そうじゃない。誰だって自分の子供が可愛くないわけはないよ。離れてたってきっと蓮くんのお父さんは蓮くんのことを心配してる。会いたいって絶対にそう思ってる。やっぱり何か会えない事情があるんだよ。こっちに帰って来られない事情が……」
そこまで言ってハッとした。
そんな事情があるとすれば恐らく最悪の事態が想像される。「きっと大丈夫」なんて言っておきながら、また軽はずみな事を言ってしまった……
「上条、考えすぎ。もしそうだとしても、俺は覚悟ができてるからいいんだよ。人のことより、上条は自分のことだけ考えろ」
そう言って蓮はいつものように頭の上に手を乗せた。
今は自分のことよりも蓮の事の方が心配だった。あんなことがあってもそれは運良く未遂で終わり、時間が経てば立つほど恐怖は薄らぎ、代わりに腹立たしさが募ってきていた。
あの時はあんなに怖かったのに、それが嘘のように思えてくる。そして何も抵抗できなかった自分にも憤慨していた。
だから、今一番に考えることはやっぱり蓮と父親のこと……どうにかしてあげたいけれど、その肝心の父親が行方不明ときている。
蓮は父親に対しての自分の態度を後悔し、行方が分からないと知ると世界中を探し回った。どんな思いで父親のことを探していたのだろう……
蓮が帰った後、蓮の指示通りにバッグに二泊分の荷物を詰め、迎えの車が来るのを待っていた。
――「この休みはずっと一緒にいよう」
蓮にそう言われた時は一瞬嬉しい気持ちでいっぱいになったけれど、蓮が何を考えているのか大体想像が付く。何も言わなくても分かってしまう。
それは、これからの長い人生を二人が一緒に過ごす為に、どうしても乗り越えなくてはいけないこと―――
きっとその為の休日だろうと浮かれた気分はすぐに吹っ飛んでしまった。
久しぶりに会うボディーガードの徳田が運転する車に乗り、高級ホテルの前に到着すると、徳田は慣れたようにホテルマンに鍵を渡した。
荷物を持たれ、何も言わずにずんずんとホテルの中に入っていく徳田の後を見失わないように、小走りでついて行く。それでも、壮大な空間のホテルのロビーに結菜は上を見上げていた。
気がつけば、コホンと態とらしく咳払いをして後ろを振り返っている徳田がエレベーターの前で待っている。
「ごめんなさい」
結菜はそう言いながら、ドアを手で押さえている徳田の横をすり抜けてエレベーターの中に入っていった。
ホテルの部屋に入ると蓮の姿はなく、徳田はバックを置くと何も言わずにすぐに部屋を出ようとする。
「あの……蓮くんは?」
「用を済ませてからこちらに来られるとおっしゃっていましたので、もうそろそろ来られるかと思いますが」
「そう」
前にヒカル達と泊まったホテルのスイートルームほどの広さはないけれど、こういう場所は落ち着かない。だからか、徳田が帰った後は寂しさもあって、久しぶりにマユに電話をしてみた。
マユは相変わらず元気な大きい声で、積もる話しもあったのだろう、純平とのことを一気に喋りまくっていた。
「仲良くやってるみたいで安心したよ。純平くんに聞いても何も話してくれないからどうなってるのかなって気になってたんだ」
『ふ〜ん。それって、学園では私のことを隠しておきたいんじゃないの?』
「何言ってんの。そんなこと無いよ」
何故か焦って否定すると
『そんなこと分かってるよ』
とマユにさらりと返された。
本当にご馳走様と言いたいところだ。
「マユ。あれから何もないよね」
実はこれが一番聞きたかったこと。純平にもあまり会うことが無くなっているから、そういう情報がなかなか入ってこない。
『何もないよ。何かあればすぐに報告するって!そう言っても無理だよね。ユイはホント他人の事ばかりなんだから。人のことより、まず自分でしょ?聞いたよ。コウナンでのユイと雨宮蓮の噂』
「…………」
『「別れた」なんてそんな噂を流す方も流す方だよね。そんなこと絶対にあり得ないのに。それを聞いて私は一人で大笑いしちゃたよ』
「…………」
『ユイ?あんた……まさか』
何も答えない結菜にマユが電話の向こうで固唾を呑んでいる。
「マユ。そのことはまた今度ゆっくり話すよ。またね」
そう言うと結菜は慌てて電話を切った。
マユには悪いけれど、今は何も話せない。
蓮が自分をここへ呼んだのだのだって、きっとその話をするため。携帯電話に向かってもう一度ごめんねと繰り返すと、結菜は携帯電話を閉じた。
バルコニーに出ると夜風が身体に当たって気持ちがいい。昼間はもう夏のように暑い日差しにうんざりするが、夜になるとほどよく気温の下がった空気が心地良くて、暫く夜の街を眺めていた。
カタンという音で振り返ると、蓮が部屋に入り荷物を床に置いたところだった。誰もいない部屋の中を見回している。結菜はバルコニーから窓をコンコンと鳴らして自分が居ることを伝えた。
蓮もバルコニーに出てくるのを見ると、結菜はまた街の方へ目を向けた。
ビルが立ち並び、その一つ一つの窓から漏れる明かりを見ていると、その明かりの中にはそれぞれの人の人生がありいろんな人達が暮らしているという当たり前のことを今更ながらに思ったりして……この中には言うことのないくらいの幸福な人生を送っている人もいれば、どうして自分ばかりと不幸な人生を送っている人もいるだろう。
そして、自分ではどうにもならない運命の渦に巻き込まれている人もいる……
「一瞬、帰ったのかと思った」
隣に来ると、蓮は部屋の方を向いて手すりに凭れた。
「なんで?帰らないよ。帰るわけないよ」
ビルの方を向いていた結菜が手すりを持った手を伸ばし、蓮を見た。何かを言いた気な蓮の顔は強ばっている。不意に見た蓮の手の甲が赤くなっていることに気がついた。
−これって……
視線が手の甲から蓮の顔に移動すると、結菜が蓮にそのことを尋ねる前に蓮の口が開く。
「上条。俺分かんねえよ……」
そう言って蓮は空を見上げた。
「蓮くん?……」
「どうやったらお前を守れるんだろ……」
「…………」
上を見上げている蓮の顔が今にも泣きそうで、結菜は何も言えなくなった。
暫く重苦しい沈黙が続き、結菜は思い切ってダラリと垂れている蓮の手に触れてみた。蓮は部屋の方を向いているから今どんな表情をしているのかは分からないけれど、でも何故かそうしたい気分だった。蓮の手を軽く握るとその手が動き、反対に自分の手が蓮の大きな手によって包まれる。そして今度は指を絡ませてギュッと握られた。
結菜も握り返すと蓮がこっちを見ている気配がした。
この手を離したくない……
そう蓮だって思ってくれているはず。
でも―――
「上条。俺たち別れようか―――」