落ち着く場所
もう駄目だ……
さっき会ったばかりの知らない男子が、荒い呼吸を繰り返しながら、徐々に自分に近づいてくる。短いスカートから出ている太ももに手が伸び嫌な手つきで触られるとビクッと身体が反応して、すぐにぞぞっと身体全体に寒気が走った。
「んん―――」
いくら叫んでも、口の中に押し込められたハンカチが音を吸収して表に出て行かない。
それにたとえ声が聞こえたとしても、離れ小島のようなこの教室に誰か立ち寄るなんて考えられなかった。
静かな教室の中で、机の上にポタポタと涙が落ちる音まで聞こえる。
「マジで……夢みてぇだ」
そう言って男は結菜の口の中に押し込んだハンカチを取り出すと、口を近づけてきた。
「や―――っ。誰か助けて!!」
「それ戻せよ。声出されたらやばいって」
結菜は顔を横に背け廊下に向かって叫んだが、またすぐに口の中にハンカチを戻されてしまった。
「早くしろよ。誰か来たらどうすんだよ」
がっちりと固定されている腕と足は、いくら暴れてみても外れない。
引きちぎられたブラウスの下から見えているブラジャーに手が掛かると、結菜は眼を閉じた。
本当にもう駄目だ……
ごめんね。蓮くん……
これは蓮の話しをちゃんと聞かなかった罰かもしれない。きっと人にした事って自分に返ってくるんだ。言ったことも、やってしまった事も。だから、これは自分が誰かにしたことが大きくなって返ってきているんだ―――
そうこれはきっと罰……
あの時やっぱり謝っておけばよかった……
「ごめんね」ってたった一言、言っておけばよかった。
もう遅いよね。
ブラジャーのフロントフォックが外れ、締め付けられていた胸が解放される。いつもならホッとする瞬間なのに、今は一生外れないでほしかったと願っていたのに……
男の手が結菜の胸に近づいてくる。
結菜は男から顔を背けると、固く眼を閉じた。
その時……
美術室のドアが勢いよく開いた―――
「お前達……何してんだよ!」
聞き覚えのある声に、結菜の眼には勝手に涙が溢れてくる。
男達が掴んでいた腕や足が外れると、結菜は急いではだけたブラウスで胸を隠した。
男達は後ろのドアから一斉に逃げていったが、足音が遠くになっても机の上から起きあがることが出来ない。
「大丈夫?ユイちゃん」
「うん……」
紫苑にそう答えるのが精一杯で、結菜は流れ出る涙を止めることが出来なかった。
紫苑は落ち着くまで黙って傍にいてくれた。
身体をなんとか起こし机の上から下り、床に崩れるように座ったまではよかったけれど、自分の身体を守るように背中を丸め、膝を抱え込んだまま動くことが出来ない。
本当はこんなところにいたくないのに、まだ身体がガクガク震えていてとてもじゃないけれど、立ち上がれない。
「どうしよう……」
「ん?」
「歩けない……」
大丈夫だよと紫苑は普段と変わらない笑顔で笑っている。その笑顔にフッと身体の緊張が緩んだ。
「二度目だね。紫苑に助けて貰うの」
「そうだね。ユイちゃんってなんかこういう場面を呼び込む体質?なんじゃない?」
「何よそれ」
「危なかしくって見ていられない。でも。もしまた何かあれば、僕が助けてあげるよ。いつもそうでしょ?僕がいない時も、ユイちゃんは誰かに助けて貰ってた……そうでしょ?」
たしかにそうかもしれない……
屋上で男達に襲われた時も、倉庫に連れられていかれたときも、いつも蓮が助けてくれた。
「情けないね……」
自分で招いておいていつも自分で処理できない。いつもこうして誰かに助けて貰わないといけないなんて……自分の身も自分で守れないなんて……本当に情けない。
今日のこの出来事は蓮には黙っていようと紫苑が言った。それはそうだろう。助けて貰った紫苑に言われたからではなく、蓮に言えばあの男子達はどうなるか分からない。それが本当に冗談じゃないところがまた恐ろしいのだ……あんなことをされて男子達をかばう訳じゃない。それどころか、あの人達がどうなろうが知った事じゃない。
それでも蓮に言わないのは、蓮のことを一番に考えて、やっぱり黙っていた方がいいと判断したから。それに、蓮に知られるのも嫌だし、もうあのことについては思い出したくもなかったから……
やっとのことで家に帰ると、いつものように蓮からの電話が掛かってきた。あのことは忘れて、今日こそは蓮に謝ろうと思って気合いを入れる。
『何かあったのか?』
「え?どうして?」
『声がいつもと違う』
自分ではいつもと変わらないように話しているつもりだったのに、いつからそんなに鋭くなったのかというほどに、蓮の勘は冴えていた。
「べ、別に何もないけど?」
『そうか?喋り、噛んでるけど?』
「噛むのはいつものことでしょ!」
『滑舌が悪いのもいつものことだもんな』
「知らない!」
ははっと電話の向こうで笑っている蓮を、もう!と怒りながらその笑っている蓮の顔を想像してみた。
『上条?』
「やっぱり。逢いたいよ……」
つい口を付いて出てきた言葉。
逢いたい。逢って蓮の温もりに触れたい。あんなことがあったから余計に思うのかもしれないけれど、ちゃんと顔を見て話しがしたかった。
『…………』
「あ……やっぱりいいよ。冗談。そう冗談だから。蓮くん気にしないでね」
そんなこと出来る訳がない。蓮の父親の捜索を邪魔することになるし、それに、今来られたらこっちだって困る。
結菜は鏡の前に立つと自分の顔を近づけた。
一年の女子に平手打ちをされた頬と唇が少しだけ腫れている。
こんな顔を蓮に見せると、また心配させてしまう……
『今から行くよ』
「いいよ。無理しないで。だって今海外でしょ?今日はどこに行ってるの?」
『んっと……』
蓮が歩いている足音が電話越しに聞こえた。ここからどれだけ離れたところにいるのだろう。想像も出来ないぐらい離れたどこかの街で、蓮は父親のことを探している。
「蓮くんがどこにいても、元気ならそれでいいんだ」
階段を上がってくる足音が聞こえた。きっとヒカルが帰っていたのだろう。
結菜はベッドに戻ると足を投げ出して座り、壁に背中を凭れさせた。
『上条。やっぱりお前、なんかおかしい』
「なんで?こんなことぐらい私だって言うよ?」
『そうじゃなくて……』
カチャリと自室の扉が開いて、その音でスローモーションのように振り向くと、そこには携帯電話を耳に当てた蓮が立っていた。
「蓮くん……!?なんで?」
「なんでって。逢いたかったんだろ?」
「あ……」
蓮が結菜のいるベッドまで来ると、伸びてきた蓮の掌で、頬に流れていた涙を拭いてくれた。
「ほらな。やっぱ、泣いてた」
クスッと蓮は笑い、そのまま引き寄せられ蓮の大きな胸の中に自分の身体がすっぽりと収まると安堵の息が漏れた。
やぱっりここは落ち着く……
一週間ぶりに感じた蓮の温もりに、余計に涙が溢れてきた。
「上条?」
「ごめん。ホントなんでもない……」
これ以上泣くと心配を掛けると思えば思うほど、涙が止まらなかった。
「いいよ。話さなくて」
「え?」
結菜は蓮の言葉に驚いて顔を上げ、まだ涙が流れている瞳で蓮を見上げた。
「今はいいよ。上条が話したくなったら話してくれればいいから、この傷の理由も……」
そう言って蓮は結菜の唇を親指で優しくなぞった。少し膨れた唇は蓮に触れられても痛みはなく、どちらかというとくすぐったい。
「……うん」
また涙を拭ってもらい、蓮の顔が近づいてくると瞳を閉じた。
傷を意識して軽く触れるだけの蓮の唇は優しくて……そして心が救われた。
抱きしめられると、蓮と離れていた一週間がリセットされたような気分になる。嫌なことも、寂しかったことも、心配だったことも、すべて蓮が吸い取ってくれるようで、心が軽くなっていった。
「やっぱり、偉大だな」
「何が?」
蓮は自分の中でもう無くてはならない人。落ち込んだ時には元気をもらい、楽しいときには一緒に笑ってくれる。寂しい時にはこうして抱きしめてくれるし、涙を拭ってくれる。
なのに―――
「私は蓮くんに何もしてあげられない……蓮くんがお父さんを探して世界中を飛び回ってても、私はここでこうして待ってるだけ。蓮くんが苦しんでる時だって気づいてあげることも出来なかった。私ってダメだね。してもらうばっかりで、蓮くんに何もしてあげられていないなんて……」
止まっていた涙が思い出したかのように再び頬を伝わった。
蓮は困ったように笑うと結菜の頭に掌を乗せた。
「俺の考えてる事って単純だって言っただろ。俺はただ上条がこうして傍にいてくれるだけでいい……」
「蓮くん……」
結菜は蓮の着ているシャツを掴むと、顔を蓮の胸にうずめた。