仲裁人参上
どれくらい眠っていたのだろう。
次に気がついたときには、明るかった部屋の中は闇に包まれ、辺りはシーンと静まり返っていた。真っ暗な部屋の中で眼を開けていると、眠っている間に何かが起きていて、もうこの世の中には自分しかいないのではないかと感じてしまうほどの静寂さに寂しくなってくる。
死んだように眠っていたからか、あんなに怠かった身体も、重かった頭も、少し軽くなっていた。
朝には蓮が傍にいてくれたことも、もう夢の中の出来事のように思えてくる。
気怠い身体を起こし、ベッドのサイドライトをつけ、枕元に置いていた携帯電話を開くと、電源が入れられていない画面は、この部屋と同じで真っ暗で、すぐに電源を入れると命が吹き込まれたように、画面が明るくなった。
数秒待って出てきた待ち受けは、蓮と一緒に撮ったツーショット写真。二人で写真を撮ることを嫌がっていた蓮に『OMURASU』での罰ゲームがまだだったと古い話を持ち出して、無理矢理撮った貴重な一枚。小さな画面の中の蓮は楽しそうに笑っていて、二人はとても幸せそうで……この写真を見ると、いつもは温かい気分になれるのに、今はただ哀しいだけだった……
信じていると、そう思っていたのに、結局は怒りの方が勝ってしまって蓮の言葉を聞いてあげることも出来なかった―――
熱と戦っている時、蓮の声が何度も聞こえてきた気がした。
眠ってしまってからも暫くの間、ここにいてくれたのかもしれないなと思いながら、結菜はベッドから立ち上がると、まだ少しふらつく足を支えながら階段を下りていった。
明るいリビングに入ると、自分が着ていたパジャマが知らない間に違う物と代えられていることに気づいた。きっとタキがしてくれたのだろう。
キッチンでタキが夕食の用意をしている姿が見えると結菜はタキに声を掛けた。
「結菜さん!起きて大丈夫ですか?」
驚いているタキに大丈夫よと笑ってみせても、立っているのはやっぱりしんどくて、すぐに椅子に座った。
「パジャマ着替えさせてくれたんだね。さすがタキさん」
「あ……それはですね」
リズムよく鳴っていた包丁の音がピタリと止まった。
「タキさん?」
「あの。言わない方がいいと思ったのですが、後から分かってもアレですし……」
「なあに?」
ヘンなのと、包丁を持ったままモジモジとしているタキを不思議そうに見ていた。
「私は何も……していないのですよ。全部、その。蓮さんが……」
−蓮くんが!?
「全部って?全部……?」
結菜は目線を下に落として着せられたパジャマを見た。
「そう言うことです」
「…………」
絶句している結菜にタキは申し訳なさそうに話しを続けた。
「いくら言っても聞き入れては貰えなくて……熱が出たのはご自分の所為だとか、いずれ結婚するのだから、こういう事があったときの予行練習とかなんとかおっしゃって。蓮さんが心配そうにずっと結菜さんに付いていたものですから、まあいいかなと……」
まあいいかなって。良くないでしょ……
タキとの気まずい沈黙の中、お粥を少しだけ胃に入れ、自室に戻ると、またベッドに寝転んだ。
タキは、蓮が着替えと水を取りに下りてきただけで、後は帰るまでずっとこの部屋にいたと言っていた。
『何か欲しい物あるか』
『……みず』
朦朧とした意識の中で、そう言ったような気がする。
でも、身体を起こして飲んだ記憶はない。まあ、半分眠っていた記憶全てが曖昧なのだから覚えていないのも仕方ないか。
分かっているのは蓮が自分を大事にしてくれているということ……
――――お前が誤解してるかもって思ったらじっとしていられなかった……
誤解。そう……
きっと誤解だ。
広海が今朝置いていった体温計で熱を計ると37.2℃。これなら明日には学園に行けそうだ。念のためにともう一度眠ろうとしたときに、訪問者がやってきた。
「なんだ、思ったより元気そうだな」
「で?何の用?」
「何の用って、久しぶりに会ってそれかよ。オレは結菜のことが心配で……って痛い」
結菜はケイの身体に傍にあったクッションをぶつけた。
どうしてケイがここへ来たのか大体の察しがつく。
こういう展開は、何か話したいことがあるから→それはもちろん蓮関係→それは何かというと、昨日のことを弁解するため→
「そして、それはケイが関係している……そうでしょ?」
「はあ?どんな無理矢理な推理だよ。これまでことを考えてみろよ。普通、仲裁に来たって思うもんだろ」
ったく。と息を吐いたケイの顔は、すぐにニッという笑いに変えて、結菜のいるベッドに腰を下ろした。
「どうでもいいけど、女装してその喋り方はやめてほしいんですけど」
そして、スカートで堂々と足を開くのも。
「え。いいじゃん。ギャップって言うの?女はそういうのに弱いだろ?」
「それこそ、どんなギャップよ」
ケイと話していると頭が痛くなる……
今日のケイは、外見は女で中身は男。あ。中身はいつも男だけれど。
一応女の子の部屋に入るのだから、家の人に警戒されたらいけないと、こういう格好で来たらしい……ケイの女装は完璧で、到底男には見えないから、タキも何の疑いもなく招き入れたのだろう。
「ふうん。ケイって女の子の家に行くとき、いつもこういう手を使うんだ」
「ああ。変な詮索もされないし、それに堂々と入れる。おまけに一緒に出掛けても泊まりもOK。一石二鳥っていうの?いてっ」
もう一つ、クッションをお見舞いしてあげた。
「それで?蓮くんはなんだって?」
あの状況をどう説明するのか見物だ。
朝起きたら、知らない間に女の人が隣に……ていう言い訳なら、代わりにケイをぶん殴ってやる!!
「だから、いろんな状況が重なってだな……ってか、まずい展開?」
「それは、蓮くんと昨日の女の人が……ってこと?」
結菜は拳を握りしめ、いつでもかかっていける準備をした。
「そうじゃなくて、ったく、蓮には言うなって言われてたけど、面倒くせえ。全部話すか」
ケイは、ウイッグを被った頭をがしがしと掻くと、ベッドヘッドに凭れていた結菜の顔に自分の顔を近づけた。
「全部って……」
ケイの綺麗な顔がすぐ近くにあって、グロスの付いた艶のある唇の口許が上がった。色っぽい目つきを変に意識してしまう。
「昨日のあの女はな。雨宮グループの系列の秘書だ。まあ、知り合ったのはクラブでだけど。
それから、ちょくちょくあの女から情報収集してたわけ。ほら、秘書って常務のこととか会社内のこととかよく知ってるだろ?始めは話すのを渋ってたけど、オレたちが雨宮の人間だって分かると、掌を返したようにベラベラ喋ってくれたよ。それで、昨日は最近噂になってる蓮の親父について話しを聞いてた」
「蓮くんのお父さん?」
「結菜は蓮の親父がここのところ日本に帰ってきてないのは知ってるか?」
「うん。蓮くんはもう三年近く会ってないみたい……」
蓮は父親の話はしたがらないから、あまり聞いたことはなかったけれど……
「香港で新しい仕事を始めたから立ち上げ当初は忙しい、こっちへは帰れないって言ってたらしいけど、蓮の親父が立ち上げた事業なんてどこを調べてもなかったんだ」
それってどういうことなんだろう……
会社はなかった。蓮の父親は帰ってこない。
「行方不明……?」
「そういうこと。それを確かめるために、あれからすぐに蓮は香港に飛んだんだ」
あれからって……昨日香港に行ってたってこと?
「それで見付かったの?」
「蓮が伯父さんから教えられてた住所に行ってみたんだけど、全然違う人が出て、そんな日本人は知らないって言われたらしい」
父親は見付からなかった……
「じゃあ……それじゃあ、進藤さんは?進藤さんなら何か知ってるかもしれないよ!」
「それが……進藤のおっさんもどこにいるのか分からないときてるから……厄介だろ?」
―――今のうちに、蓮さんとの『恋愛ごっこ』を楽しんでください。
あれが進藤からの最後の言葉……
今のうちに?
あの時はただ腹立たしかっただけだけれど、その言葉に何かヒントがあるのだろうか。
「何かに巻き込まれたとか?志摩子……おばさまが何か関係してるとか?」
あり得ないこともない。蓮と自分がいつまで経っても別れないから、志摩子は蓮の父親を……
「あの女は関係ないと思う……関わっているとすれば、それよりも、もっとマズイ連中だろうな」
「マズイ連中って?」
ケイは結菜に向けていた顔を逸らした。斜め後ろから見るケイの顔は、きっと真剣な表情。不安がじわじわとこみ上げてくる。
「どんな話しを聞いたって、結菜は、蓮のこと嫌いにならない?」
「嫌いになるもなにも、話してくれないとなんのことかさっぱり分からないよ」
そうだよな……と自分とは目も合わさずに前をみたまま話すケイの後ろ姿が小さくなっていくような気がした。