考えられない……
眼を開けると辺りはすっかり明るくなっていた。昨夜は屋外の気温が下がったようで、ひんやりとした部屋の中で、結菜は布団も掛けず、昨日帰ってきたままの制服姿でローテーブルに顔を伏せて眠ってしまっていた。握ったままの携帯電話を慌てて見ると、そこには着信を告げる表示もメールが来ている形跡も何もなかった。
蓮は必ず来ると行った。何かあったのかもしれない……
寒さで少し震えている冷えた指先で携帯電話の操作をすると、蓮との携帯電話に繋がり、何度も呼び出し音が耳元で鳴っている。
まだ眠っているのか、それとも、やはり何かあったのか……
そう不安が心配へと変わって行ったとき、携帯の呼び出し音が途切れた。
「もしもし?蓮くん……」
「……ん……もう……誰?こんなに朝早く……」
「…………!?」
それは寝起きの女性の声―――
ガサガサとシーツが擦れる音も聞こえた。
「ねえ?誰……」
声からすると、昨日の女の人のような気もする。
受話器から漏れる声を聞きながら、そんなことを何故か冷静に思っていた。
「あの……蓮くんは」
それでもこれはきっと何かの間違いで。例えば、昨日蓮が携帯電話を忘れてしまっていて、あの女の人が仕方なく持って帰っていた。それで、自分の携帯電話と間違えて出ているのではないだろうか?きっとそうだ。だから、ここにも連絡出来なかった。なんだ。そうか……
そう思いながらも、結菜は固唾を呑んで対応を待った。
「レン?あ〜。どこだろ……今シャワーでも浴びてるんじゃない?出てきたら電話するように言おうか?」
「……け、結構です」
そう言って結菜はすぐに電話を切った。
今、頭の中が真っ白になっている―――
シャワー?電話の向こうの人は、蓮はシャワーを浴びていると言った……まさか。そんなこと……
はははっと乾いた笑いが部屋に響いた。
だって、そんなのあり得ない。あれは自惚れではないはず―――
そう。蓮が自分以外の人とそういう風になるとはとてもじゃないけど、考えられない。
考えられない?
ホントにあり得ない?
「…………」
頭の中がパンクしそうだ。
クラクラと視界が揺らいだ。
「熱があるわね。ここのところまた夜が寒いもの……」
広海はそう言いながら、体温計をケースに戻すと、結菜の顔を覗き込んだ。
道理で身体が怠いと思っていた。心配そうに見ている広海に、制服のままで寝ていたから熱が出たなんて、とてもじゃないけれど言えない。
「寝てれば治るよ。タキさんもいるし」
結菜は熱で火照った顔を向けながら、心配しないでねと付け足した。
「そうね。なるべく早く帰ってくるから、ちゃんと寝てるのよ」
ヒカルは今日から仕事が再開したらしく、一足早くに家を出たと広海が教えてくれた。
今日の帰りは遅いらしい。
ヒカルが忙しくて、ちょうどよかったのかもしれない。今ヒカルの顔を見たら、ぐちゃぐちゃの気持ちがもっと掻き乱されて、もしかすると泣いてしまうかもしれない……
タキがお粥を作ってきたくれても、食べる気にはなれなかった。
あれから携帯電話の電源は切っている。
蓮から掛かってきたら、どう向き合えばいいのか分からない。言い訳も聞きたくないし、現実を突きつけられるのも、今はまだそんな覚悟なんてできていない。結局は逃げているだけ。物事を先延ばしにしているだけ。そんなことは充分すぎるほどに分かっている。でも、今日は身体が辛いから、だから、気持ちまで辛くしたくない。そう少しでも自分が楽なときにって思うのはいけないことだろうか……
「結菜さん。蓮さんがお見えですよ」
タキの声に、重い身体を起こして時計を確認すると、もう授業が始まっている時間帯だった。
電話が繋がらなかったから、心配してくれたのかなと思っても、蓮がここへ来てくれたことを素直には喜べなかった。
頭がボーッとしている。
嫌だ。やっぱり今、蓮と会うのはしんどすぎる……
「タキさん……」
『眠っているから』でも『風邪がうつるから』とでも、帰ってもらう理由はいくらでもある。
そうタキに言いかけたとき、扉をノックする音が聞こえた。
結菜は咄嗟にベッドに潜り込むと、すぐにカチャリと音がして、人の入ってくる気配がした。
「上条?」
「…………」
何も答えない結菜の傍に蓮は座ると、ふうと息を吐いた。
「寝てるのか……広海さんからの電話で、熱があるって言うから……
上条。ごめんな。俺……」
嫌だ!何も聞きたくない。
結菜はくるまっている布団の中で耳を塞いだ。
「帰って!」
「上条……」
「ズルイよ……こんな時にそんな話しをするなんて……」
「そうだよな。でもな。お前が誤解してるかもって思ったらじっとしていられなかった」
嫌だって言ってるのに……ごめんな、なんて簡単に謝ってほしくないのに……
蓮がベッドの端に座り、布団に手を掛けたのが分かると、結菜はギュッと眼を瞑った。
眼を閉じても、自分が揺れているように頭がくらくらする。
「い……やっ」
それでも、渾身の力を振り絞って、引き離される布団を引き戻すと、涙がボタボタと目頭からベッドの上に落ちていった。
「ちゃんと顔を見て話したいんだ」
「お願いだから……帰って」
「上条……」
布団の中のくぐもった自分の声が大きく聞こえる。
自分とは違う女の人を触った手で触れてほしくない。違う人を見た目で自分を見ないでほしい。あの女の人と話した声で話しかけないでほしい……
――本当に蓮くんと付き合ってるの?
紫苑の言葉が痛い……
そう言えば、蓮の過去をあまり知らない。高校生になって出会うまでの間、蓮はどんな風に過ごしていたのだろう……家でのことは、森先生に聞いたことはある。でも、友達との関わりとか、どんなことが楽しくて笑ったり、どんなことで腹が立って怒ったりしたかなんて知らない。少なからず、それをあの人は知っているのだと思うと、涙が止められなかった。
泣いたからか、さっきまでガクガクと寒気で震えていた身体が今度は熱を帯び、顔がカッと熱くなる。
熱が上がりきり、今度は下がるのだとぼうっと火照った頭で朦朧と感じていた。
今、蓮がそこにいるのかすらもう分からなくなっていて、布団の中にいることが余計に身体に熱を籠もらせていた。
熱い……身体が熱い。
熱を放出させるためにいつの間にか自分で布団をはぐっていた。
呼吸が乱れ、ハアハアと大きく胸を上下させている。
「熱凄いのか?」
遠くで蓮の声が聞こえる。
額にひんやりとした手が添えられると、蓮の顔が薄れゆく意識の中でぼんやりと見えた。