信じたい
「上条さん知ってる?あの紫苑って子、一年でダントツの一位だって」
「一位って、何が?」
「何がって。もちろんイケメンのよ!ハーフってところもまたポイント高いわ。二年は雨宮くんと塚原くんが一位二位独占ってとこね。それは疎い上条さんも知ってるでしょ?」
鞄に教科書を詰めながら、委員長は楽しそうに話していた。
「ふうん。そうなんだ。けど、そんなくだらないこと上条に吹き込まないでくれるかな」
「くだらないって……」
委員長は振り返ると、声の主を見て固まっていた。
「ほれ。帰るぞ」
「あ。うん」
蓮は結菜の鞄を持つと、早く帰るように急かし、固まって動かない委員長を残し、教室を後にした。
「ユイちゃん。僕も一緒に帰ってもいい?」
蓮と並んで歩いていると、人懐っこい笑顔を見せて紫苑が後ろから声を掛けてきた。
「却下だ」
蓮は鞄を肩に担ぎ、もう一方の手でシシッと犬を追い払うように振っていた。
「蓮くんに聞いてないよ」
「一年のガキのくせして、俺の名前を馴れ馴れしく言うんじゃねえ。それに、こいつの名前もな」
「え〜〜っ。ユイちゃん。『ユイちゃん』って呼んでもいいよね?」
紫苑は泣きそうな眼で結菜に訴えてきた。
「あ……まあ。いいんじゃない?」
「やった。蓮くんいいって」
「だから。『蓮くん』言うな。上条もこいつを甘やかすなよ」
紫苑はまるで子犬のような瞳を蓮に向けると、飼い主に構ってもらいと言う風に蓮にまとわりついていた。
蓮はそんな紫苑を鬱陶しいといったような言い方をしていても、端から見ると可愛い弟を手なずけている兄貴みたいに見えてしまう。本当に嫌な相手なら、蓮は喋らないし、眼だって合わせないだろう。そう考えると、少なからず紫苑のことが気に入っているのかもしれない。
そんなことを考えながら、じゃれ合っている二人を眼で追っていた。
紫苑とはそれから顔を合わせることが多くなっていた。卒業した省吾だけではなく、純平や綾までもがいないランチタイムはかなり寂しく、それを分かっていたかのように紫苑がその穴を埋めてくれた。『別れるフリ』作戦の難航で、あまり会話の弾まない蓮との二人きりの時間だっただけに、紫苑がいることが救いになっていた。
「委員長も一緒に食べればいいのに」
いつもそう言って誘っても、後ろの席の委員長はお昼休みになるとスッと席を立ち、違う場所でお弁当を広げていた。
委員長曰く、イケ面は遠くで見るに限る。だそうで……結局は、蓮たちを前に緊張し過ぎて話しなんてできないらしい。
「上条さんと並ぶなんて……そんな引き立て役なんてごめんだわ」
と意味不明なことも言っていた。
まあ。なんだかんだと時は過ぎ、蓮の顔の傷も癒えてきた頃―――
授業を終え、いつものように蓮と紫苑の三人で学園を出ると、横付けした赤のビートルに凭れて立っていた女の人と眼が合った。
内巻きにシャギーの入ったブラウンの長い髪が風で少し揺れている。黒を基調とした服は、より大人な女性に見え、スカートの下に伸びた足はすらっとしていてスタイルも良く、女の自分でもドキリとするほどに綺麗な人だった。
その女性はこちらを見て微笑むと、手を挙げて蓮の名前を呼んだ。
「蓮くん。誰?」
ほんの少し前まで、冗談を言いながら歩いていた蓮の顔が、見る見るうちに険しくなると、まるで結菜の質問が聞こえてなかったかのように、蓮はひとりその女性に近づいていった。
不機嫌な顔のまま、その女の人と何かを話している蓮を、ただ黙って見ているだけで、隣で紫苑が話しかけてきても、何も頭の中に入ってこない。
見ていると、蓮はその表情を崩すことはなく、時々短く口を動かしていた。きっと『ああ』とか『そうか』とかの相槌を打っているのだと思う。それでも、その女性はそんなことは当たり前のように、蓮に微笑みながら会話をしていた。
そんな様子を離れたところから、じっと凝視していた結菜は、ふたりの視線がこちらに向けられると、慌てて眼を逸らした。
じりじりと近づく足音で蓮が帰ってくるのが分かると、少しホッとして肩の力が緩む。
よかった。ただの知り合いだったと、逸らしていた視線を今度は真っ直ぐに蓮へと向けた。
「紫苑。悪いが、上条を家まで送ってくれ」
「別にいいけど……」
紫苑がチラリとこっちを気にして見ているのが分かっても、蓮が何を言ったのかすぐには理解が出来ず、どうして?と問いかけることも出来ない。
「上条。こいつに送ってもらえ。話しは必ず後でするから、何も心配するな」
「…………」
「な?」
蓮は頭に手を乗せ、顔を覗き込んでくるけれど、言葉は何も出てこなかった。
きっと今自分は泣きそうな顔をしている。
何も心配するな?
そんなの無理……
言いたいことは沢山あるのに、喉に何かが詰まったみたいに塞がって、それらは表に出ることはなかった。
結菜が何も言わないのが分かったという事と理解したのか、蓮の顔がフッと優しく緩むと、頭に乗せていた手をポンポンと二度弾き、耳元で「今日必ず行くから」ともう一度念を押すように囁いた。いつもは自分だけが特別だと思えるそんな蓮の仕草にも、心には何も響かない。
蓮は結菜に背を向けると、車の前で待っていた女の人の所へ向かって歩いていってしまった。
二人が車に乗って走り去ると、結菜は車があった場所に駆け寄り、走り去る赤い車を見送った。
ぐっと苦しいほどに胸が締め付けられる。
赤いビートルが小さくなっていくと、蓮は本当に帰ってくるのか不安がこみ上げてきた。
「あれは元カノかな?」
「え?」
「あ……ごめん。ユイちゃんを不安にさせるつもりじゃないんだけど、あの人はきっと蓮くんの元カノだよ」
−元カノ?
もしそれが本当なら、元カノと二人で消えた蓮を黙って見送った自分って……
いやいや。と頭を横に振る。
蓮は後で必ず話しをすると言ってくれた。今はそれを信じるしかない。
紫苑と二人並んで歩く帰り道。蓮のことで頭がいっぱいだったけれど、考えても仕方がないと開き直り、頭の中を無理矢理切り替えた。
暫くして少し余裕が出てきた結菜は、辺りの景色に眼を向けてみた。春から夏に季節が向かっている気候は一番好きな季節で、歩道に並んでいる木々にも新芽が生え、青々と茂っていた。日が当たると日差しが頬をチクチクと温めるけれど、日陰になれば気温が一気に下がる。
それも少し前までは寒いと感じていたのに今は心地いいぐらいだった。
「ユイちゃんって本当に蓮くんと付き合っているの?」
「え?何その質問」
「だって。普通、目の前でカレシが女の人と一緒に消えればそんなに冷静でいられないと思うけど?」
「ははっ。そりゃあ、不安はないわけじゃないけど、考えたって仕方ないもの」
そう。考えれば考えるほど嫌な方向に思考が傾きそうで、自分の中の不安を増長させないためにもここで止めなければと思っただけ。
「へえ〜余裕なんだ。でも、気をつけた方がいいよ。僕のクラスの女子も蓮くんのこと狙ってるって言ってたし……」
「そう」
いちいちそんなことを気にしていたら、蓮と付き合うことなんか出来ない。それはよく分かっているつもりだ。
結菜が素っ気なく答えると、紫苑は納得が出来ないように眉を顰めた。
「その女子って蓮くんの幼なじみだって言ってたよ。ユイちゃんはそのこと蓮くんから聞いてるの?だいたいさ。ユイちゃんは蓮くんのクラスにほとんど行かないでしょ?それをいいことに一年の女が簡単に蓮くんに近づいてるってどうかと僕は思うけど?」
「何それ?」
聞いていないどころではない。そんなことは噂でも耳に入ってきたこともなかった。
「だから、言ったでしょ?『本当に付き合ってるの?』って。さっきのことだって本当にユイちゃんのことが大事なら、目の前であんな風に女の人の車に乗るなんて考えられないよ」
「…………」
紫苑の言ったことに何も反論出来なかった。
それでも。
それでも、今は信じるしかないって……
そう思うことしか出来ないじゃない……
カチカチと針が時を刻む音がやたらとゆっくり聞こえる。
幾度となくその時計の針を見ても、先程からそうたいして進んでいない。それでもチラチラと時計に眼がいってしまう。
蓮が車に乗って行ってしまってから四時間。
その間に何度携帯電話を開いたのか分からない。
掛ければきっと出てくれると思っても、蓮の言った『今日必ず行くから』という言葉が発信ボタンを押せなくしていた。
苛々したり、急に不安になったり……初めて待つことの長さを知ったのかもしれない。
そういえば、蓮を何時間も家で待たせたことがある。あれは省吾の誕生日に塚原家におじゃました時だった。蓮は待ち疲れて眠っていた。あの時もこんな気持ちで待っていてくれたのかもしれないなと思うと、熱いものがこみ上げてきた。
マユがいなくなったときは、マユを連れ戻すからと言って消えた私に、繋がらない携帯電話をかけ続けながら、蓮は必死で探してくれた。いつもいつも自分勝手なのはこっちの方で、迷惑を掛けているのもこっちの方で……
蓮はそんなどうしようもない自分をただ抱きしめてくれた……
無事で良かったと涙を流してくれた―――
そんな蓮を知っている。自分だけが知っている。だからやっぱり信じるしかないのだと、そう思う。
たとえ、自分の知らない蓮がいたとしても。たとえ、何も話してくれなくても。
私は蓮くんを信じたい……