許す?許さない?
母親の顔なんて忘れていた。いや違う。思い出さないようにしていた。まだ自分では何もできないガキだった頃の記憶なんて曖昧なもので、母親に対する思いも、もうどうだったかさえ覚えていない。
包まれた菜穂の腕が小さく感じたのは自分が成長したから。置き去りにされたあの頃とは違う……大人の事情でただ振り回されていた何もできなかった自分とは違う……
「ヒカル……」
菜穂が何度となく自分の名前を呼んでも、メロドラマのような再会の感動なんて何もなかった。
ヒカルは菜穂の身体から離れると、悲しそうに涙を流している菜穂から視線を逸らした。
今、目の前にいる菜穂は、自分の中ではまだ母親だと認識できないでいる。この人は安西菜穂。超一流の女優。その概念が張り付いていて、とてもじゃないけど、母親だとは納得もできない。百歩譲ってもしも納得できたとしても、突然現れてごめんねと謝られて、簡単に許すことなんかできないだろう。
14年……母親が自分を捨ててから14年も経っている。その間に一度も会いには来なかった。
それなのに、今更だろ。
「だからもう少し待てって、言ったんじゃない。折を見て話すつもりだったのに……」
「そんなこと言ったってもう待てなかったのよ……ヒカルが近くにいるって思ったら、会いたくて会いたくて仕方なかったの」
広海は菜穂から聞いていたのかと他人事のように思っていると、重大なことに気づいていてしまった。
菜穂が母親だとすると、父親は―――
広海!?
−マジで?うそだろ!!
ヒカルはハッとして見開いた眼で思わず広海を見た。
「マジかよ……」
広海はいつから知っていたのだろう。前に広海の子供がいたらという話しをこの部屋でしたことがあった。その時は知らなかったのだろう。この事実を知ったのは菜穂が帰ってきてから……
広海はまた溜息を付き、泣いている菜穂を支えながらリビングのソファーに座らせるとヒカルを呼んだ。さっきまで一緒に朝食を食べていた結菜と蓮がいつの間にかいなくなっている。
「俺……もう学校に行かないと」
「ヒカルちゃん。今日は土曜日よ」
そうだった。今日は休み……
どうにかしてこの場から逃げたかった。自分を捨てた母親と話すことは何もない。
それに広海に『あなたの父親は私よ』なんて名乗られるのなんかごめんだ。
「広海。悪いけど話すことなんかなにもねえから」
「まあ。そう言わずに。菜穂だって忙しい中こうしてヒカルちゃんに会いに来てるわけだし。話しぐらいいいじゃない」
広海はそう言いながら、座っていた椅子から無理矢理引き剥がすと、ヒカルを菜穂の隣に座らせた。
だから何?忙しい中来てやったから、自分が捨てた子供でも喜んで話しをしてくれると、そう思っているのだろうか。
冗談じゃない!
隣に菜穂の気配を感じると、沸々と怒りがこみ上げてきた。
「話しって何ですか。俺……僕も忙しいので、何もなければ失礼します」
そう他人行儀に言って立ち上がると、ヒカルはそのままリビングから出て行った。
「クソッ!冗談じゃない!!」
ヒカルは自室に入りドアを閉めると壁に怒りをぶつけた。
自分を痛めつけてスッキリするなら、この拳が潰れてもいいとさえ思った。何度壁を殴っても菜穂に対する怒りは収まらず、血が滲んでいる拳よりも心の方が痛かった。
「ヒカルちゃん。入ってもいい?」
広海が部屋に入ってくると、蹲っているヒカルに近づいてきた。
「ホント。早く言ってくれればいいのに。自分が父親だって、あいつから聞いたんだろ」
「あいつだなんて……」
「安西菜穂さん……これでいいか?」
呼び方なんか何だっていいだろ!あいつだろうがこいつだろうが。でも、もう二度と『かあさん』とは呼ぶことはない……
「突然のことで驚いたかもしれないけど、私だって、もちろん菜穂だって悩んでたのよ。あなたにどう言って話しを切り出そうかって」
「笑えるよな。広海は俺のこと自分の息子だって知ってたのに、俺は知らなかった。知らずにずっと広海と安西菜穂の子供に怯えていた……ホント笑えるよ。まさかその子供が自分だって?なんだよ。そのオチは」
こっちは広海に気を遣って、広海が話すまでそのことについては聞かずにおこう、触れたら駄目だって結菜と約束していたのに。
「私たちはヒカルちゃんのことを一番に考えて、これからどうすればいいのか話し合っていたの」
「これからどうするか?俺のことを考えて?なんだよそれ!あいつは自分のことだけ考えてたから、俺を捨てたんだろ!」
息子より、女優という仕事を選んだ母親とどう向き合えというのだろうか……
部屋の冷たいフローリングに涙の粒がぽたりと落ちた。
あんな勝手な奴のためになんか泣かない。もうあの人のために泣く涙はあの時に枯れてしまった。会いに来てくれるなら、どうしてあの時来てくれなかったのか。母親のことだけ考えて、迎えに来てくれることを想像していたあの時に会いに来てくれていれば、間違いなく飛びついて喜んでいただろう。
もう……
もう遅い。
「菜穂はね……」
ヒカルは腕で涙を拭うと、睨むような眼を広海に向けた。
「あんな奴。母親とは思わねぇ!」
「ヒカルちゃん……」
「出て行ってくれないか」
広海が部屋から出て行くと、ヒカルはベッドに転がった。もう枯れたはずの涙が次々溢れてくる。
「クソっ」
涙が蓮に殴られた傷口を敏感に伝っていくと、その痛みに嫌でも自分は生きていると思わされてしまう。
広海が父親で、安西菜穂が母親。この二人がいなければ自分はいなかった。そんなことは分かっている。でも、許せないものは許せない。
「ヒカル?ちょっといいかな?」
今度の来客は結菜だった。どうせ広海にでも頼まれたのだろう。
「なんだよ」
泣いた顔を見られないように入り口とは反対に身体を向けると、結菜がベッドの端に座る気配がした。
「ビックリしたね。まさか広海さんと菜穂さんの子供がヒカルだったなんて。ねえ。今の心境は?私的には、ヒカルと血が繋がってたって分かって嬉しいけど。従兄弟っていうことになるんだよね?でもいいな〜ヒカルにはホントのお母さんとお父さんがいるんだもんね。羨ましいよ。広海さんが父親ってちょっとしっくりこないけど。ねえ。ヒカルもそう思わない?」
「…………」
「あっ。さっき従兄弟だって言ったけど、今まで通り私の兄貴ってことでよろしくね」
結菜にバンと背中を叩かれると自然と笑いが出てきた。
自分がこんなに悩んでいることにズカズカと入り込んでくる結菜を嫌だとは思わなかった。きっと今までの話しを聞いていただろうに、あっけらかんと喋る結菜を尊敬すらしてしまう。
「結菜」
「なに?」
「俺。やっぱ、あいつのこと許さなくちゃいけないのかな?」
「許す?なんで?……ん〜ヒカルの気持ちは分かんないけど。私は菜穂さんに感謝してるよ。だって私はあの人のお蔭でずっとヒカルと一緒にいられたんだもん。ヒカルを私の兄貴にしてくれたことに感謝してる」
「ヒカル?」
結菜を思わず抱きしめていた。
あの時もそうだった。母親に捨てられ自暴自棄になっていた時、結菜はずっと傍にいてくれた。背中に背負った重い荷物で身動きが取れなくなったとき、その重い荷物をいつの間にか軽くしてくれる。自分は結菜によっていつも救われていた。悲しいときや辛いとき、結菜はこうやっていつも手を差し伸べてくれる。
「そうだな。俺も結菜が妹でよかった――」
忘れていた……
兄妹として一緒に過ごしてきた楽しかった日々は、あの人がくれたもの。上条の家に預けられなかったら、結菜とこうして一緒にはいられなかった。
結菜が言ったように、それは感謝しないといけないのかもしれない。
結菜の髪が顔に掛かってくすぐったい。こんなに長い間抱きしめるのはいつ振りだろうか。ずっとこのまま結菜の温もりに触れていたい気分だった。
「もうそろそろ離れてもいいんじゃね?」
入り口に凭れている蓮が咳払いをしてからそう言った。
「イヤだね」
蓮が見ている前で、結菜を更に強く抱きしめると、慌てた蓮が引き離しにきた。
「妹だって言ってたよな?ヒカルがここでそう言ったよな?」
「あ?そんなこと言ったっけ?」
「いい加減にしろよ!」
焦った蓮は、なかなか離れない腕を強引に掴んでいる。
蓮をからかうと面白い。
くくくっと自然と笑いが漏れ、自分がウジウジと悩んでいたことが馬鹿らしく思えた。
「ちょっと、どうでもいいけど。くるしい!」
結菜は結菜で腕の中でバタバタと暴れていた。
「広海の作戦勝ちだな」
「なんのことよ」
−惚けやがって。
広海が結菜を部屋に寄越したくせに。
リビングに下りると、既に菜穂は仕事に向かったのか、もうここにはいなかった。
「まあいいや。結菜が腕に縒りをかけてご飯を作るから、あの人を呼べって言ってた。そう伝えといて」
「あ……え?」
−いつまで惚ける気だ?
驚いている広海を背中に感じながら、ヒカルはリビングのドアを開いた。
「それと……今度はゆっくり話を聞くからって、そうあの人に言っといて」
「ヒカルちゃん!」
閉めた扉の向こうから、跳ねるような広海の声が聞こえた。