蘇る記憶
ヒカル:「は?」
広海:「え?」
蓮:「…………」
『私。蓮くんと別れようと思うの――――』
結菜の思いもよらない言葉に一同は唖然としていた。
蓮なんて、可哀想なぐらい面食らった顔をしている。
それはそうだろう。さっき玄関で見た二人は、そんな兆候なんか微塵もなかったのだから。
蓮だって、まさか結菜からそんなことを言われるとは夢にも思っていないはず。
それでも、爆弾発言をした当の本人はそんな三人をキョトンとした顔で見ていた。
「わ、別れると聞こえたけど?気のせいか?気のせいだろ」
どうやら蓮は結菜の発言を無かったことにしたいらしい。まあ。気持ちは分からないこともない。
「結菜ちゃん。蓮くんと何かあったの?ケンカしたとか。何か嫌なことされたとか。
まさか……蓮くん。結菜ちゃんを無理矢理、押したお」
「そんなわけねだろ」
広海が全部言い切る前に、ヒカルが広海の後頭部にツッコミを入れた。
「あの……」
「いいのよ。結菜ちゃんは何も言わなくても。無理矢理あんな事やこんな事をされたら、誰だってねえ……」
「広海は黙ってろよ」
広海はこの状況を面白がって言っているとしか思えない。
でも今はふざけている場合ではない。
いつもは太々しいとさえ思っている蓮の顔。それが、結菜の一言で暗く影を落としていた。
「結菜。どういうことだ?」
別に蓮の為とかじゃないけど、聞いてしまった以上、きちんと話しを聞いておきたかった。
結菜は自分が何を言ったのか分かっていないように首を傾けると、ああ、と納得したように口を開いた。
「ゴメン。そうじゃなくて。フリをするってことよ?」
「フリ!?」
「そう。別れるフリをするの。
だって、マユの時は相手の計画に乗ったフリで数ヶ月ばれなかったでしょ?そう考えると、私と蓮くんが別れるフリをすれば、もしかすると二年ぐらい騙せるんじゃないかって思うのよ。それだったら、もう誰も傷つけずにすむもん。ねえ。そう思わない?」
「それはそうかもしれないけど……」
「俺は絶対イヤだ!たとえフリでも別れるなんて冗談じゃねぇ」
蓮は持っていた箸を勢いよく置くと、結菜を真っ直ぐ見た。
「蓮くん……でもね。私たちのことで、もうこれ以上誰も傷ついて欲しくないの」
「それは分かる。でも、だからって別れることはないだろ?それなら他の方法を考えればいい」
「他に良い方法が何かあるの?」
「それは……」
結菜の言葉に蓮は口を噤んでしまった。
「他の方法があるならそうしてるよ。私だってイヤだよ?でも、そうするしかないじゃない」
結菜の大きな瞳に涙が膨らむと、瞬きと同時にポロリとそれが零れた。
傍で見ていて胸が締め付けられるように痛い。
二人はこんなにも好き合っているのに、すんなりと幸せになれないのはどうしてだろう。
跡継ぎがどうとか、財閥の仕組みがどうとかさっぱり分からないけど、そんなのどうだっていいと思ったら駄目なのだろうか。そんなことを取っ払って、二人は自由には慣れないのだろうか……
今は二人のことを気持ち良く応援してやりたい気分だった。
「結菜ちゃん。蓮くん。そのことだけど……」
広海が言葉を挟んだが、またいらないことを言わないかと警戒して聞いていた。
「そのことは、きちんと二人で考えなさい。でもね。もしそうするって二人が決めたなら、とことん貫きなさい。中途半端なことをしてたら、あなた達も傷つくわよ。
こんなこと……私が偉そうに言えることじゃないわね。でもね。あなた達には幸せになってもらいたいから言わせてね。
後悔しないように、前だけを見て歩みなさい」
「広海さん……」
結菜の頬に幾つもの涙の粒が伝わっては落ちていった。
なんだろう。こういうときの広海は大きく見える。どっしりとしていて頼りがいがあるように感じるのは、自分たちの父親代わりだからだろうか。
冷めてしまったけど食べましょう。と広海が朝食を食べるようにみんなに勧めていると、玄関のチャイムが鳴った。
結菜はまだ泣いているし、蓮と自分は人前に出られる顔をしていない。
仕方ないわね。と持ったばかりの箸を置き、広海が玄関へと向かっていった。
残った三人は黙々と朝食を口に運んでいた。
蓮と結菜はこれからどういう話しをして、どんな結論を出すのだろう。
たとえどんな答えを出したとしても、それは自分がどうこう言うことじゃない。
ヒカルはチラリと横にいる結菜に目を向けると、ご飯を口に放り込んだ。
「だから、何度も言ってるのに!」
廊下から広海の大きな声が響いた。
「いつまでもこのままじゃいけないでしょ!」
怒ったような女の人の声が聞こえて、三人は同時に眼を合わせると、それぞれの動きを止めた。
「ちょっと、勝手に入らないでよ」
廊下を歩く音がして、リビングの扉が開くと三人はまた同じ動きで扉の方を同時に見た。ドアノブを掴んだまま突っ立っている女の人が眼に映ると、ヒカルの箸が手の中からポロリと滑り落ちていった。
「安西菜穂……さん?」
リビングの入り口に立っている女性……
その人は、ハリウッドで活躍していた女優でもあり、その名演技はもちろん、突然の日本帰国でも注目されている。帰国してからは広海の事務所に所属し、映画にドラマに引っ張りだこの多忙な日々を送っている。自分とは比べものにならないほどの超大物俳優。
そして、広海の元カノでもある安西菜穂には、広海との間に子供がいるのではないのかという噂がある。同じ事務所になったのだから幾らでも確かめるチャンスはあるだろうと高を括っていたけど、それは甘かった。菜穂のあまりの忙しさに、未だ会えずにいたのだから……
その超多忙の安西菜穂がどうしてうちにいるのだろう?
しかもこんなに朝早く……
テレビや写真でしか見たことのない菜穂を間近で見て、ヒカルはただ呆然としていた。
「もうホント自分勝手なんだから!!」
菜穂を押しのけるようにして広海が部屋に入ってきた。超大物スターも広海には関係ないらしい。
テレビの中ではフワフワに巻かれている長い髪も、今日は後ろで一つに束ねてあり、化粧もナチュラルメイク。茶色い縁のメガネを掛け、これから撮影現場に向かうようだった。
菜穂は広海の言葉には耳を傾けず、ずっとこっちを見ていた。そして菜穂と目が合うと一瞬微笑まれたような気がした。やっぱり気のせいだろうか。ずっと自分が見られているような気がするのは……
そのうち、菜穂が徐々に近づいてきて、椅子に座っているヒカルの傍までくると、目線が合わさるようにその場に屈んだ。その間、ヒカルは菜穂のその姿を追うだけで精一杯だった。
間近で見る菜穂は、綺麗な人。それが第一印象。こんな薄化粧しかしていないのに、はっきりとした顔立ちに見える。そして綺麗な張りのある肌をしていた。とてもじゃないけど、そんなにハードな仕事をしているようには思えなかった。
そんなことより、どうしてこの人は自分をこんなにも見ているのだろう?そう気づくのに暫く掛かってしまった。それほど、自分の近くにいるのには違和感のある人物。
「どうしたの?この傷……」
菜穂はヒカルの頬に手を当てると微笑み、そしてその顔は心配そうな表情に変わっていった。
菜穂の周りに感じた空気は、まるで、映画の1シーンのようで、どこかでカメラが回っている、そんな錯覚がする。
「あの……」
この状況をどうしていいのか分からず、広海を見ると、ハアと大きな溜息を付いていた。
「ごめんね……」
−え?
ごめん……って?
菜穂の綺麗な瞳から、見る見るうちに涙が零れ落ちていた。
「え?あの」
どうして謝られるのかも、菜穂がどうして泣くのかも分からず、ヒカルは焦るように菜穂を見ていた。
「今まで、ごめんなさい。ヒカル……」
「え?……あ―――」
菜穂に抱きしめられると、幼い頃の記憶が蘇ってきた。
それはもう思い出さないように何度も封印しては奥に押し込めてきた記憶。
『ヒカル。これから大事な人に会いに行くからいい子にしててね』
『うん!わかった』
あれは、日差しが刺すように暑い夏の日。幼い自分が無邪気にそう答えている。
いい子にしていれば、忙しくていつもは傍にいない母親とずっと一緒にいられると、そう信じて……
でも、そんな期待はすぐに砕け散ってしまった。広くて冷たい屋敷に一人置き去りにされた辛さ。いつまで経っても自分を迎えに来てくれない絶望感。
別れ際に聞いた母親の言葉と、今、菜穂が言った言葉が長い時を経て重なって聞こえた。
『ヒカル。ごめんね……本当にごめん……』
抱きしめられた温かさもあの時と同じ―――
「お……かあ……さん?」