ずっとこのまま
塚原兄弟と別れてから、蓮の家に向かって歩く道中、マユと純平のことを考えていた。
どうしてあんな言い合いをしていたのだろう……
当人同士の問題だから。という省吾の言葉がチラリと舞い戻ってくる。
だからって、本当にそれでよかったのか?
マユが去った後。思いきって純平に聞いてみた。マユのことで私に聞きたかったことは何かと。
でも、顔を歪ませた純平に、もういいのだと突っぱねられた。純平のそんな顔を見ると、もうそれ以上は踏み込んではいけないのだと、その時はそう思った―――
けれども、本当にそれでよかったのだろうか?
泣いていたマユ。必死で追いかけてきた純平。二人に何があったのだろう……
わからない……
蓮のことを好きかと聞いた純平に、あり得ないと答えたマユ。どうしてそんなことを純平はマユに聞いたのだろう……
結菜は長く続く、白く高い塀を見上げた。
一週間ぶりにおじゃまする雨宮家は、何も変わっていないのに、自分が少しの間この家に住んでいたなんて微塵も感じさせないほどに静寂していた。
結菜は静まり返った玄関ホールを横切り、階段に足をかけた時。この家で一番会いたくない人物に後ろから声を掛けられてしまった。
「お久しぶりです。結菜さん。今日はまた、何の御用でこちらに?」
サングラスをかけた進藤が、嫌味全開で結菜に近づいてきた。
片方の口許を上げ、ニヤリと笑っているのがまた憎たらしい。
「用が無ければ来てはいけない?私は蓮くんの婚約者ですけど?」
何か文句でもお有りになる?とでも言うように、結菜は進藤を見据えた。
「相変わらずですね」
フンと笑う進藤を無視するように、結菜は階段を上り始めた。
進藤の態度には腹が立つが、相手にしないに限る。そう考え、進藤の気配を感じながらも階段を上っていると、また進藤から声を掛けられた。
「カメラは全て撤去しましたから」
「え?」
思わず後ろを振り帰ると、進藤が結菜を下から見上げていた。
「今のうちに、蓮さんとの『恋愛ごっこ』を楽しんでください」
「…………」
恋愛ごっこ……
−ム、ムカつく!!!
小馬鹿にするように嘲笑う進藤を見て、結菜の怒りがマックスに達しようとしていた。
結菜は踵を返すと、大きな足音を立てながら階段を上っていった。
ここで怒りを言葉で放出すれば、なんだか進藤に負けた気がする。
我慢。我慢!
自分はこんなに短気だっただろうかと、沸騰しそうな頭をなんとか押さえながら、蓮の部屋のドアを開けた。
進藤への怒りで、ノックもせずにドアを開けたことにも気づかずに、結菜は蓮の部屋の奥へと入っていく。
両壁に飾り棚のある通路を通り、右側に行くと一段下がったところから蓮の部屋全体が見渡せる。一番始めに目に付くのは黒色のシーツで覆われているベッド。ぐるりと振り返るように右を向くと、ベッドの横には机があり、その机の脇にはテレビ。そして、通路側の壁にはソファーにガラスのテーブルが置いてある。
蓮の姿は、そのソファーの上にあった。
二人掛けの四角いソファーの上で、上半身だけを横たわらせ、瞼を閉じている。
そっと蓮に近づくと、すうすうと規則正しい寝息をたてていた。
ソファーのすぐ傍にあるガラスのテーブルには、遣り掛けのジグソーパズルがあり、そのピースが散らばっている。
いつもとは違う蓮の部屋。
誰も観ていない付けっぱなしのテレビからは、クイズ番組の再放送が流れていて、時折パネラーたちの笑い声が聞こえてくる。
いつもは整理されているきれいな机の上も、教科書とノートが乱雑に置かれていて、その横には電源が入ったままのノートパソコンが開きっぱなしになっていた。
どうしたんだろうと、さっきまでの進藤に対する怒りもすっかり忘れて、気持ちよさそうに眠っている蓮を眺めていた。
今日、蓮から電話があったのが午前9時頃。今は4時過ぎだから、あれから7時間は経っている……
ああ、そうか。
結菜は机に置いてあるノートを手に取るとフッと笑った。
最初はおそらく机で勉強をしていて、その息抜きにパソコンを見ていた。それにも飽きてきた蓮は、買っていたジグソーパズルを始めたけれど、それにも飽きてしまい、寝転んでテレビを見ていてそのまま眠ってしまった……
その推理はたぶん当たっている。
ここで、そうやって時間を潰して待っていてくれたんだ。
無防備に眠っている蓮を見ると、胸がキュッと締め付けられた。
マユと純平のこと。進藤のこと。省吾のこと……考えていたことは全部遠くへ置いておいて、今は蓮のことだけ考えよう。
黒いソファーの上に頬を押しつけるように寝ている蓮の傍に行き、その場にしゃがむと蓮の口から「ん……」と声を漏らしながら少しだけ顔が持ち上がった。
まだ瞼を開かない蓮にホッとしながら、手を伸ばしてそっと髪に触れてみる。さらりとクセのない髪の感触が冷えている指先に伝わってきた。
ぐっすりと眠っている蓮に、思わず笑みが零れる。
スッと完璧なまでに整った顔は幾ら見ていても飽きない。でも早く起きてほしいような、もう少しだけこのまま眺めていたいような……
でも、そのうち、見ているだけではつまらなくなり、髪を触っていた手で今度は蓮のきれいな長い手に自分の手を重ねてみた。外気に触れてきた自分の冷えた手に、蓮の温もりがじわりと浸透してくる。
そして蓮の胸元に顔を埋めると、猫のようにスリスリと埋めた顔を擦る。もう起きてもいいかと思ったのと、眠ってないで相手にしてよという意味も込め、そして、ちょっとは甘えたい気持ちもあったり。
これはさすがに起きるかと思っていたけれど、蓮は何の反応もしなかった。
「つまんない……」
胸に埋めていた身体を起こし、まだ眼を閉じたままの蓮をもう一度見ると、結菜はガラスのテーブルに広がってあるパズルを見た。
蓮が起きるまでの時間つぶしにいいかもしれない。
結菜が蓮の手の上に置いていた手を離そうと持ち上げると、その手を今度は反対に掴まれた。
「やっと来た」
掠れた蓮の声にドキッとしながら振り向くと、薄目を開けた蓮が微かに笑っていた。
「起きた?」
「なんだよ。キスでもして起こしてくれると思ったら、それだけ?つまんねえ」
グイッと掴まれた手を引き寄せられる。
「もしかして、起きてたの?」
「あ?なんのこと?」
さっきまで埋めていた蓮の胸に、再びトンと顔があたった。
「やっぱり、起きてたんだ」
背中に回ってきた腕を心地いいと感じながら、結菜は蓮の胸の中で笑った。
「実は、今日ね……」
ソファーを背もたれにして足を投げ出し、床に座っているふたり。
「ちょっと待て」
黙っているのはやっぱりいけない気がして、蓮に今日の塚原家での出来事を話そうと思っていた。
蓮が純平のことで何か聞いていることがあるかもしれないと思ったというのもあるけれど。
「待てって。どうして?」
「実はって言うことは、何か嫌な予感がする……」
蓮の鋭い指摘にも、そんなことはないよと軽く笑ってみる。
そんな蓮を放っておいて話しを進めた。
橋の上で言われた、省吾の決意とやらは、もちろん蓮には話さずに……
「ふうん。で?」
「純平くんから何か聞いてないかなって思って」
「別に。ってか、省吾の言うように放っとけば?俺だって純平にあれこれ言われるのイヤだから、純平だってイヤなんじゃね?」
男ってみんなそうなのだろうか?相談する相手を間違えた?
「それが正しいのかもしれないけど、なんか引っかかるっていうか……」
そう。何かが引っかかっている。あの時、マユはどうして泣いていたんだろう……
「人のことより、自分のことを考えれば?」
「え?」
「自分のことだけじゃないか。俺たちのこと?」
そう言って隣にいる蓮が肩に手を掛けてきた。
自分のこと。私たちのこと……
横から蓮の顔が近づいてきたとき―――
思い出した。決意したことを。
「蓮くん。私。決めたことがあるの」
爛々とした意気込みを込めた眼を向けたつもりが
「タイミングわるっ」
と蓮はガクッと首を項垂れていた。
少々機嫌の悪い蓮を横目に、気を取り直し、話しを続けた。
「あのね。私これから花嫁修業をするよ」
「なんだよ。唐突に」
「普通のお母さんがしてることが出来るようになりたいんだ。まず始めはお料理からかな。それで、蓮くんと結婚したら、私は専業主婦になる。いつも蓮くんが帰ってくるのを私が家で待ってるの。蓮くんが仕事から疲れて帰ってきても、私が癒してあげられるように、美味しい手料理で迎えてあげられるように、今から頑張る。そう決めたんだ」
それは今日、塚原ママに会ったから。あんなお母さんになりたいと本気で思った。明るくて素敵な奥さんに……
自分も蓮も、親にはあまり縁がなかったから余計にそう思うのかもしれない。
「そう考えてくれるのは嬉しいけど……」
「蓮くん?」
もちろん蓮は喜んでくれるとばかり思っていた。
けど。と帰ってきたのはちょっと意外……
「ま。そう肩肘張らなくても。上条だって好きなことしていいんだ。結婚つったって、無理に18でしなくても、お互いがしたいときにすればいいんだし」
「私のしたいことがそれだって言ったら?」
「そうだったらいいけど。上条って、こうだって思ったら突っ走ることがあるだろ?だから、臨機応変にってこと。そうだって決めてしまわなくても、いくらだって選択肢はある。その時その時、一緒に考えていけばいいんじゃね?」
なんだか……
蓮の大人な意見に胸が熱くなってしまった。自分が蓮のことを考えているように、蓮もまた自分のことを考えてくれている―――
当たり前のことのように思うかもしれないけれど、蓮にしてみれば、それって凄いこと。
ツンと鼻の奥が痛くなり、眼の中が潤んできた。
「あれ?もしかして感動した?」
「べ、別に」
からかうように言われ、泣きそうな顔を蓮から逸らすと、すぐに蓮の手によって頭を押さえられ、くいっと蓮の肩に凭れさせられた。それがまた心地が良くて、このままずっとこうしていたいと蓮の肩に頭を預けながらそう思った。