塚原兄弟
女の子と口論していた純平のことは気になるが、それはそれ。今、気にしないといけないのは隣に並んで歩いている省吾のこと。
「これから蓮くんのところに行くの?」
母親似のかわいい笑顔を向け、隣から話しかけてくる省吾に、何故かドキドキしてしまう。 塚原ママたちが一緒にいるときは意識なんてしなかったのに、二人きりになると途端に思い出してしまった。省吾の部屋でのことを……
『何も変わっていない』
そう言った省吾の優しい眼差しと、頬に触れた温かい掌を思い出すと、胸の奥がゾクッと震えた。
いけない。いけない。これって、一種の浮気心?と言うのかもしれないと、ブンブンと首を振り、思考を止める。
「う、うん……」
そうだ。自分には蓮という彼氏がいた。いやいや、忘れてたんじゃない。ちょっと、隣にいる人の笑顔が可愛かっただけで……と自分に自分で言い訳をしてみる。
ホント、情けない……
また冬に向けて寒くなった土曜の午後。厚手のコートを羽織っていても、体の芯から冷えそうな冷たい風が、時折頬を掠めていく。
隣町とを繋ぐ橋の上に来たときに、一段と強く風が吹いた。
「ひゃっ」
心の中と同じで、情けない声が出てしまう。
この寒さの所為か、橋を通る人の姿も無い。冬眠しているクマのように、みんな温かい家の中に籠もっているのかもしれない。
寒さを紛らわすように、河を流れる水が雲の隙間から現れた太陽の光に反射して、キラキラと光っているのを歩きながら眺めていた。
すると、後ろからフワリと柔らかいものが首に掛かり、結菜は足を止めると咄嗟に隣にいた省吾に顔を向けた。
「寒そうだったから」
省吾はそう言って、さっそく使ってくれていた、プレゼントしたてのマフラーを、首に巻き付けてくれた。
「あ、ありがと」
いいのだろうかと思いながらも、巻かれたマフラーを触りながら省吾にお礼を言う。
−あったかい……
どこまでも優しい省吾の周りにある空気まで、優しいオーラで溢れている気がする。
あれは、蓮の気持ちも、自分の蓮に対する気持ちもまだ分からなかった頃。省吾から告白された時のこと―――
この人の傍にいれば、ずっと笑顔でいられるんじゃないかなって思ったことがある。
夕日を背にして省吾の顔が近づいてきたとき、このままこの人とそうなってもいいような気にさえなった。あの時、もしかすると自分は省吾のこと……もしも、蓮との事がなければ、自分は省吾のことを……
結菜は、一瞬よぎった思いを打ち消すようにまた頭を振った。
もしもは存在しないこと。今の自分は蓮だけを見て蓮だけを想っている。あの頃の自分とは違う。蓮との距離も関係も。婚約、結婚という肩書きを抜きにしても、自分の中で大半を占めているのは蓮である。
そんなことを思っているとは知らない省吾は、結菜を見ながら首を少し傾けると、優しい瞳で笑った。
今日、こうして省吾に会いに来たのは、蓮に対する想いを再確認するためだったのかもしれない。
それに……もうひとつ、決めたことがある。
それは―――
「結菜ちゃん。今日はありがとう。プレゼントもね」
省吾は嬉しそうに手袋を填めた手を広げて見せた。
「私こそ。突然おじゃまして……」
それにマフラーを取っちゃってと申し訳なさそうに言うと、ううん。と省吾は首を横に振った。
「来てくれて良かったよ。ずっとあった胸のモヤモヤが晴れたっていうか。やっと決意が出来た気がする」
「決意?」
「そう決意……」
省吾は橋の欄干に手を置くと、街の間を縫って遠くまで続く流れる河に眼を向けた。
「先輩?」
「結菜ちゃん。僕は決めたよ……」
省吾は笑顔で自分の方を振り向くと、その笑顔がスッと消え真顔になった。
「…………」
きっと訳なんかない。でもその瞳を見ると何故だかドキドキする。
そう意味なんて何もない―――
「僕は、君を諦めない」
笑顔の消えた省吾から発せられた言葉は、余計に真剣なものに聞こえた。
「あ……え?」
「どんなに二人が好き合っていても、これからどうなるか分からない。絶対なんてない……だから、自分の気の済むまで結菜ちゃんのことを好きでいることにするって決めたんだ。無理に諦めようとするから苦しいんだよね。それが今日こうやって結菜ちゃんと会って、話してて気づいたよ」
話し終わると省吾に笑みが戻り、少しだけホッとした。
でも、話している内容は安堵するようなものではなかったような……
「省吾先輩……」
「あ。だからって、蓮くんとの仲を無理に引き裂こうなんて思ってないから。ただ、結菜ちゃんには知ってて欲しいかっただけ。僕の気持ちを……僕が結菜ちゃんを想っているってことを」
微笑む省吾を直視できなかった。どう答えたらいいのか分からない。
それに、どうして省吾は、自分に対してそんなに固執するのだろう……その理由も分からない。
こんな何の取り柄もない自分を、学園一イケメンと豪語されている省吾が想ってくれているというのは『奇怪』という以外言葉が見付からない。
それは蓮の場合にも言えること。あれは、奇跡に近いような……
−『いったいどういう魔法を使ったのか聞きたいくらいだよ』
前にケイがそう言っていた。
ああそうか。魔法だと現実味はないけれど、催眠術に掛かっていると思えば、納得するものがある。
催眠術。そう。催眠術か……
「もう!いい加減にしてよね!純平と話したって切りがない!!」
「お前が分かるように言わないからだろ。本気でオレから解放されたかったら、ちゃんとした理由を言えよ」
結菜の頭中での分析を遮るように、橋下から聞こえてきた口論には「純平」という固有名詞が入っていたから、慌てて欄干から身を乗り出した。
隣では省吾も同じように覗いている。
「純平?」
陰になっている橋の袂で、純平が言い合いをしている姿が見えた。
一緒にいる女の子は……
「マユ!?」
どうしてマユが純平と一緒にいるのだろうか?それに、塚原家の玄関先でも二人はなにか揉めていた。
「マユってあの時の子?友達だったら尚更、見なかったことにしておいた方がいい」
「え?でも」
当人同士のことだから、放っておいた方がいいと言う省吾に、結菜はこのままでいいのだろうかという眼を向けた。
「帰る!」
「待てって!他に誰か好きな奴でもいるのか?もしかして……蓮?
おまえ。もしかして蓮のこと……」
橋の下にいた筈の二人が、いつの間にか橋の傍にある土手に沿って作られた河原に下りるための階段を上ってきていた。
そして、足元を見ながら階段を上っていたマユが、純平にぶつけられた言葉に足を止めて振り返った。
上から見下ろしていた結菜たちの至近距離で飛び出した今度は「蓮」という名前……
結菜はゴクリと固唾を呑んだ。
隣にいる省吾も二人の成り行きを見守ることにしたように、動きを止めていた。
実際には動くことが出来なかったと言うべきだろうか。
「は?そこでどうして雨宮蓮の名前が出るのよ」
不満を抑えながらのマユの言葉。
「よく言うよ『どうして?』こっちが聞きたいよ。オレの質問には答えないつもりかよ」
「雨宮蓮はユイのカレシなのよ。カレシって軽いものじゃない。婚約者なのよ!友達の婚約者を好きになるなんて、あり得ない!!」
マユの押さえていた不満が爆発する。
「それって、友達の婚約者だから好きにならないようにしてるって聞こえるけど?」
「純平ってそういうとこあるよね?人の揚げ足取ったりするところ……私の言葉に裏なんてない!そのままの意味よ!!」
吐き捨てるようにそう言うと、マユは踵を返して再び階段を上っている。
「だったらなんで?どうしてだ?」
純平の問いにもう答える気が無いように、マユは黙って階段を上った。
上り終えたところで顔を上げたマユと眼があった。
「……ユイ?」
どうしてここにいるの?と問いかけているマユの瞳からは涙が零れていた。
マユのことで聞きたいことがあると純平が言っていた。それをちゃんと聞いてそれに答えていれば、避けられたんじゃないのだろうか?マユがこんなにも悲しむことは無かったんじゃないだろうか?純平にそこまで言わせなくてもよかったんじゃないのだろうか……?
あの時、純平が聞きたかった事って……何だったんだろう―――
「ちょっと待てよ!マユ!オレは納得なんかしてないからな」
流している涙を拭うと、マユは追いかけてきた純平の方を振り返った。
「ホント。しつこい。純平ってストーカーの素質があるんじゃない?」
「あ?また何言って……」
マユと同じように階段を上ってきた純平が結菜と省吾に気付くと言葉を閉じた。
「じゃ、ユイ。またね」
純平から逃げるようにヒラヒラと手を振りながら、純平の前では強がってマユは笑顔で去っていった。