兄として
「自分が自分じゃなくなるみたいに、止まらなくなる―――」
蓮が言った言葉の意味が分かったとしても、蓮が結菜のことをどれほど好きだと分かったとしても、結局自分は蓮を許せないだろう。たとえ、どんなに完璧な人間が結菜と付き合っていたとしても、認める気はさらさら無い。
だったら、こうやって話しを聞いても無駄ってことか?
こんな気持ちは、なんだか娘を持った父親のようで、自分がおかしく思える。
付き合いを認めてもらいたい彼氏。でも、それを意地でも認めようとしない父親。
ホント。笑える。
「お前は、結菜のこと本気だって言ったけど、他に女はいないのかよ」
「いない」
即答で答える蓮を、ヒカルは訝しそうに見つめた。
「ちゃんと全部切ったのか」
「あんたが、何を言いたいのか分からないけど、俺は上条だけだから」
蓮は不満気に鋭い目を向けてきた。
「高校に入る前、おまえ、相当遊んでただろ?」
「…………」
「今はそうでも、そういう奴はまた遊びたくなる」
「…………」
それで、いつかこいつは結菜を泣かせる。
「お前に結菜は任せられない」
そうヒカルから言葉を浴びせられると、蓮は黙ったまま俯き、そして何かを決意したかのように顔を上げた。
「……他の女になんか興味はない。
あんたに言っとくけど、俺はこの先、一生、上条を離すつもりはない。あんたの入る隙はないから」
「……は?」
「兄貴とかって家族面してっけど、ホントはあんただって上条のこと好きなんだろ?正直になれよ。兄貴じゃなく、男としてあいつのことが好きだから俺が気に入らないんだろ?」
−こいつ……
蓮の言葉が胸に突き刺さった。でも一方ではそんなことはないと反論している自分もいた。
変だ。頭がクラクラする。
「そっちこそ、何を言ってるのか分かんねぇよ。俺が結菜を好きなのは、兄貴としてだ。それ以上でも以下でもない。おまえは、俺と結菜の血が繋がっていないって知ってるからそんなこと言ってんだろうけど、俺たちは小さい頃から一緒だったんだぜ?そんな感情を持つ方がおかしい」
ヒカルは、ははっと軽く笑って見せた。
紅葉みたいな小さな手をしていたときから一緒だったんだ。
夜は恐くて一人じゃ眠れないって、俺のとこに来ては、身体をすり寄せて一緒に眠った。
箸の持ち方も、自転車の乗り方も俺が教えた。
一年生の頃は、自分の身体ぐらいある大きなランドセルを背負って小学校に行くのは可哀想で、後ろは自分のランドセル、前は結菜のランドセルを抱え、右手は結菜と手を繋いで通ったんだ。
ずっと一緒だった。
兄として。妹として……
「良かった。ケンカしてない」
いきなり開いたドアから、ひょこりと結菜が顔を出し、安心したように息を吐いていた。
それはもう、飛び出しそうなほどに、心臓がドキリと動いた。
「ビビった」
それが正直な感想。
一週間ぶりに会ったのに、タイミングが悪いというか、空気を読まないというか……
結菜は、ちょこちょこっと、小走りで二人が座っているソファーまで来ると、後ろを振り返った。
ドアの所には、広海が入りにくそうにこっちの様子を窺っている。
「広海さんね。ヒカルに怒られるんじゃないかって、怖じ気づいてるの」
「しっかり怒ってやるからこっちに来い」
結菜と広海の登場で、蓮との話しが中断し、少しほっとしていた。
結菜は蓮の顔を見ると、気まずそうに視線を逸らし、ヒカルの隣に座った。
「ヒカル。ちょっと痩せたんじゃない?」
そう言って結菜は覗き込むように顔を近づけてくる。
「お前は相変わらずぷにょぷにょのホッペタだな」
顔を突き出している結菜の両頬を掴み、横に引っ張ると、結菜の眉間にシワが出来た。
「ひっどい。ブスがもっとブスになったらどうしてくれるのよ」
そう言って頬を膨らませる結菜は子供でかわいい。
「お前がブスだったら、世の中の女はみんなどうするんだ?」
「出た。やめてよね。人前でシスコンぶりを発揮するのは」
恥ずかしいでしょ。と結菜はチラリと蓮を見た。
結菜とのやり取りは和やかで、すっかり蓮が傍にいることを忘れてしまうところだった。
向かいに座っている蓮は、思い切り不機嫌な面をしている。
そりゃそうだろう。あいつは俺を結菜の兄貴ではなく、男として、ライバル視している。
怒るのも当然だろう。
「ね?蓮くん機嫌悪いでしょ?あれでヒカルとケンカにならなかったのが不思議よね」
そうコソッと耳打ちしてくる結菜。
その様子では、結菜は蓮の気持ちを全く理解していない。
ヒカルは蓮に同情してしまいそうだった。
鈍感にも程がある……
−『上条は子供で……』
蓮の言ったこともうなずけた。
まあ。蓮は誤解している訳だけど。
「ねえ。ヒカルちゃんは、蓮くんから大体のことは聞いたのね?」
「ああ。聞いた。よくも俺の居ない間に……婚約って!」
「そんなことより、志摩子のことよ。蓮くんの家にいる進藤さんもなんだか怪しいし」
広海は誤魔化すようにそう言うと、三人の顔を順番に見ていった。
「広海さんは何か策があるの?」
「そうね……私にいい考えがあるのよ。月曜の放課後、結菜ちゃんも蓮くんも空けておいてくれる?私が学校まで迎えに行くから。まずはマスコミ対策からよ」
「マスコミより、志摩子をどうするかが先なんじゃねえか?」
あの報道陣の集団も恐ろしいが、命まで取られることはないだろう。だったら、志摩子や進藤とかって言う奴のことの方が先決な気がする。
それに、結菜が小さい頃の誘拐事件も気になるし、もしかすると……考えたくないけど、両親の事故のことも、何か関係しているのかもしれない。
「志摩子のことは大丈夫よ。脅しておいたから、暫くは大人しくしてるでしょ」
「脅しって……?」
結菜が心配そうに広海を見ていた。
「ちょっとね……それより、せっかくだから、今日はみんなでここに泊まりましょうよ。部屋もたくさんあることだし。ねえ。蓮くん。いいわよね?」
「別に構わない」
相変わらず不機嫌な顔を貼り付けた蓮は、睨むようにこっちを見た。
「ここね。蓮くんのお父さんが経営してるホテルなのよ」
「へえ。そうなんだ」
結菜も相変わらず、蓮の気持ちには気づかず、凄いねと呑気に部屋を見回していた。
ヒカルはそんな結菜に呆れていると、こちらを見ていた蓮の眼が益々恐くなっていた。
同時に、横にいる結菜の視線に気がつくと、ヒカルはフッと隣に首を動かした。
−ち、近い。
いつの間にか、すぐ傍で自分をじっと見つめている結菜の大きな瞳。
なんなんだと躊躇いながらも、そのキラキラとビー玉のように光る澄んだ瞳から眼が離せない。
結菜は、少しずつ、更に近づいてくる。
「結菜?」
結菜が首を傾けると、クセのない茶色い髪がサラサラと流れた。透き通るような白い肌。自分に向けられている、瞳の奥の茶色い部分が瞬きをすると、クルクルっと、揺れている。高校生になったとは思えないほどの童顔の顔。まだ、あどけない子供のような顔をしている。
笑ったときの顔も、怒っているときの顔も、そして今の窺うような顔も……
愛しい―――
って何見とれてんだ!
二人の時ならともかく、みんなが見ている前で。
いや。違った。
二人の時でもマズイだろ。
えっと。何?これは?
「ヒカル……」
結菜のキュッと締まった、かわいい唇が自分の名前を呼んだ。
もう蓮がどれだけ怒っているかなんて関係ない。
広海も眼に入らない。
「結菜」
ヒカルは結菜の両肩に手を置き、ゴクリと唾を飲み込むと、眼を閉じた。
冷たい感触が――――
額を包んだ。
−ん?
「ヒカル。やっぱり熱がある。広海さん大変!」
「…………」
眼を開けると、結菜は後ろを振り返り広海を呼んでいる。
「本当。寝てなくっちゃダメじゃない。体温計あるかしら。私部屋を見てくるわ」
「私。氷、貰ってくる」
バタバタと結菜と広海は部屋から出て行った。
え?熱?
ああ。熱ね。
通りでクラクラすると思った……
そうか……はは。そうだよな。
「残念だったな」
口許を上げ、クッと笑った蓮の憎らしい顔。
「は?何が」
「顔赤いし」
「熱があるからな」
「素直じゃないな」
「…………」
ヒカルは恥ずかしさを誤魔化すように後ろ頭に手をやった。
さっきの高揚した気持ちは、いったい何だったのだろう……