行き違い?
勢いでここまで来てしまったものの、蓮の部屋の前で、また躊躇している自分がいた。
思い返してみても、あんな顔で怒らせたのは初めてで……
蓮に会うのが恐かった―――
でも。
ここで逃げるわけにはいかない。
ちょっとやそっとでは許しては貰えない覚悟で、意を決してドアをノックした。
握った掌に嫌な汗が出てくる。
暫くして「誰?」とかったるそうな蓮の声が聞こえ、結菜であることを伝えると「入れば?」と今度は素っ気ない返事が返ってきた。
何度もおじゃましたことのあるこの部屋も、今日は空気が重く感じて、今すぐにでも引き返したい弱い自分が出てくる。
「蓮くん?」
中から声がしたと思っていたのに、机にもソファーにもベッドの所にも蓮の姿はなく、別の意味で不安になった。
結菜は立ったまま、呆然としていると、ウォークインクローゼットの中から着替えを終えた蓮が出てきた。
「行くの?」
思わずそう尋ねてしまい、結菜はあっと口を押さえた。
どこへでも行けと言ったのは自分なのに……
「あ?行くよ」
「あれは……」
蓮は冷たく言い放ち、結菜の横をすり抜け部屋を出て行こうとする。結菜は思わず蓮の着ているダウンジャケットの端を掴んだ。
「なに?」
「あ……の」
冷たすぎる蓮の視線と声に、それ以上の言葉が出てこない。
何とも言えない空気が二人の間を流れると、蓮が大きく息を吐いた。
「ケイ。まだ上条の部屋にいるよな」
「……うん。たぶん」
「ケイとちょっと出てくるから。お前は部屋に戻れ」
「え?どこ……」
どこに行くの?
ケイとどこに出掛けるの?
女の人の……とこ―――?
「だから、それ離してくんない?」
「……だ」
「は?」
「やだ。嫌だ!離さない!」
結菜は両手でぎゅっとジャケットを掴むと、潤んだ瞳を蓮に向けた。
「やだって……お前はガキか」
「ガキだよ!考えても仕方のないことばっか考えて、それで勝手に苛々して、蓮くんに八つ当たりして……おまけに『女のとこでもどこでもいけばいい』だなんて……
ごめん。蓮くん……ごめんね。ホントは行ってほしくなんかない。女の人のとこなんて」
目頭に涙が滲んだ。
行かないでほしい。行ってほしくない。
自分のことだけ見ていてほしい―――
本当に勝手だ。
自分は何様なんだと自嘲したくなる。
「女のとこって……」
考えるように顎に手を持って行った蓮を見上げた。
そして見下ろした蓮の目と目が合うと、ドキリと鼓動が大きく鳴った。
最近、近くにいすぎて感じなかったけれど、こうしてまじまじと蓮の顔を見ると、こっちが恥ずかしくなるほど綺麗な顔をしている。ケイは女の人を感じさせる綺麗さだけど、蓮の場合はまた違う。
なんていうか……
大人っぽい顔つきに、冷たそうに見える瞳。その瞳で睨まれるとゾクッとするほどに恐懼する。でも……その氷のように冷たい表情が一変し、優しい笑顔を見せられると……
はっきり言って。
やられてしまう―――
決してそれは私だけでは無いはず。
普段、滅多に表に出さない蓮の笑った顔や、優しそうな表情を向けられれば、きっと誰だってそう思うはず……
蓮との距離があまりにも近すぎて、そういう感情を忘れかけていた。
自然に蓮の顔をめがけて、手が伸びていく。
もう少しで手が届きそうな時、蓮は結菜を見つめたまま、自分に近づいてきた結菜の手を掴むと、その手をゆっくりと下ろした。
見つめていた視線を蓮が外すと、結菜は自分が蓮に拒否されたのだと気付いた。
「出掛けてくる……」
そう言った蓮に、結菜はもう何も言い返せすことができなかった。
部屋に戻ると鞄の中から教科書を取りだし、ひたすら問題を解いていった。
「これ、どうするんだったっけ……」
手を止めると一気に涙が溢れてきた。
「バカだな」
胸にぽっかりと開いた大きな穴。
その部分はスカスカで、寒くて、そして痛かった。
ちょっとした行き違いだ。蓮はまたすぐにあの笑顔を自分に向けてくれる――
そう思いこまそうとしても、ケイと一緒に出て行った蓮の振り向かない背中を思い出すと、次から次へと涙が溢れてきてしまう。
結菜は天井からぶら下がっているカメラを意識して、誤魔化すように涙を拭うと、教科書のページを捲った。
何度かそんなことを繰り返していると、テーブルの上に置いてあった携帯電話がバイブの振動音と共に鳴り響いた。
「ヒカル?早かったんだね」
画面に流れたヒカルという文字に一気に懐かしさがこみ上げた。
『結菜?今空港に着いたんだ。あ〜早くタキさんのメシが食いたい』
相変わらずのヒカルにプッと笑いが出た。さっきまで泣いていたことを忘れてしまいそうなぐらい、ヒカルの声を聞いて安心している。ごちゃごちゃウジウジ考えていたこともどうでもよくなり、ただ、ヒカルに会いたいと、そう思った。
「一週間お疲れ様。ヒカル……」
『お。誰か大物芸能人でも通るのか?カメラや記者がすげぇいる』
弾むようなヒカルの声。
嫌な予感がした。
きっとそれは予感ではなくて現実で……
「ヒカル。たぶんそれって……」
結菜が言いかけると電話の向こうが急に騒がしくなった。
『あんだよ。あ?結菜?ちょ、押すなよ』
それから、聞こえていたヒカルの声は途切れ途切れになり、前に校門のところで記者たちにもみくちゃにされた光景を思い出した。
「ヒカル?」
ヒカルの方の携帯電話は耳から遠ざかっているようだ。
凄いことになっていると騒がしさから想像できる。
空港にいた記者達から、蓮との婚約のことも知られてしまったのだと覚悟しながら携帯電話を耳に当て、向こうの雑音を聞いていた。
『な。お前、誰だよ!触んなよ!ハヤミ!どうなってんだよ!わああああっ。ハヤミーィ!!』
ヒカルはマネージャーの名前を叫びながら雄叫びをあげている。
電話の向こうでは、なんだかとんでもないことになっているらしい。
結菜は静かな部屋で、騒々しい別世界に通じる携帯電話を握りしめ、固唾を呑んだ。
暫くすると、賑やかだった人々の声は途絶えたが『離せ〜!』とか『どこ行くんだよ!』とか叫んでいるヒカルの声だけは絶えず響いていた。
ヒカルも結菜と繋がっている携帯電話は手から離してはいないようだ。
ドスッと何かが落ちたような音と同時に『痛てぇんだよ!』と文句を言っているヒカルの大きな声が聞こえた。
そしてバタンという扉が閉まるような音。
−車?
ヒカルは車に乗せられたのだと、何となく分かった。
さっきまでとは違う静けさに息が苦しくなる。
ヒカルはどうなったのだろう。
『ごくろうさん。高倉』
『なんだよ。てめぇは誰だ?』
高倉!?それにこの声は……
『結菜の兄貴は威勢がいいな』
「…………」
え?
なんで?
どうして―――?