好都合
白く長い塀が車窓から見える。
「進藤さん。ここは蓮くんの家だけど……」
行き先を間違えているのかと思い、真っ直ぐ前を向いて運転している進藤に尋ねてみた。
「ええ。分かっていますよ」
サングラスの奥の目が、バックミラー越しにこちらを見た気がした。
学校の校門で記者たちに囲まれたところを、この進藤に助けてもらった。
助けてもらったからか、それ以上言い返すことが出来ず、結菜は革の臭いのする車中で携帯電話を広げてみた。
するとニュースなどが流れるテロップに『……高校生どうしで婚約』という文字が通過していった。
記事を読むまでもない。
これは自分たちのことだと思い、すぐに携帯電話を閉じた。
だから教室の外はあんなに賑やかだったのか……
付き合うだけでは、たとえ蓮でもあんな騒ぎにはならなかっただろう。
でも、『婚約』というフレーズは自分の中ではまだしっくりとはきていなかった。
「どうぞ」
雨宮家に到着すると進藤が後部座席のドアを開けた。
即座に家に帰ると言いたいところだが、ここの門の前にも何人もの記者が待ち構えていたからとてもじゃないけど一人では帰れない。
結菜は仕方なく進藤に言われるまま豪邸の中に入っていった。
広いエントランスホールに迎えられ大理石の床を靴のまま歩く。何度か来たこの場所も、いつもなら階段を上がり蓮の部屋へと直行するのに、今日はリビングルームに通された。
大空間として広がるリビングには、真っ白なソファーが置いてあり、壁にはジャガールの絵が飾ってある。
結菜は恐る恐る足を踏み入れた。
そこはまるで展示場のような生活感のない空間で、なんだか寂寥感があった。
進藤にここで待つように言われ、結菜は躊躇いながら白いソファーに座ってもう一度周りを見回していた。
「ったく、なんだってんだよ」
暫く部屋を眺めていると、そう言いながら入ってきたのは制服姿の蓮だった。おそらく自分と同じで記者たちにもみくちゃにされたのだろう。
教室では一日隣にいながら目も合わせなかった……ここは蓮の家だから帰ってくるのは当然だけど、広いとはいえ区切られた空間に二人きりというのは気まずい。
「俺の部屋に来るか?」
結菜を視線に捉えると、蓮は気遣うようにそう言った。
でも結菜は蓮を見てもすぐに視線を逸らした。
まだ腹が立っている。私は怒っているのだとアピールしたかった。そしてこんな自分のことは放って置いて欲しかったから。今の気持ちで蓮と向き合っても落ち着いて話しなんて出来やしない。
「いつまでもお前がそんなんじゃ。話しなんか出来ないだろ?」
呆れるように蓮が息を吐いた。
私だってそうしたい。
蓮と話しをして早くあの女の人とは何でもないと蓮の口から聞きたい。でも、自分の頑なな心と自尊心が邪魔をしてとても素直になんてなれない。
自分の中にもやもやとした嫌な感情が渦を巻いている。
「いいから来い」
蓮はそう言い背中を見せ、部屋を出て行ってしまった。結菜は蓮について行く気にもなれず、蓮が出て行った後に開いた扉がゆっくりと閉じていくのをじっと見ていた。
「蓮さんと喧嘩でもしましたか?」
蓮と入れ違いで入ってきた進藤がそう言いフッと笑みを漏らした。
その笑いに結菜はピクリと反応した。
「進藤さんには関係ない……私たちのことはもう放っておいてもらえませんか」
「それは、昨日お友達から私のことを聞いたからですか?」
進藤は結菜が座っている向かいのソファーに座りサングラスを外した。
いつもは薄暗いレンズ越しに見る目も、それが取り除かれると想像していたよりも優しい瞳の色をしていた。
「…………」
昨日マユと蓮がふて腐れている自分を無視して話していたこと……
蓮はマユに言っていた。
一人ではとてもじゃないけれど24時間監視することなんて出来ない。いったい誰が裏で動いているのかと。
そしてマユは進藤の名前を告げた―――
「マユさんからの報告が途絶えているので、お二人の今の状況は分かりませんが……
もし、喧嘩をしているのであれば」
「だから、あなたには関係ない!」
蓮とのことだけでも頭の中はぐちゃぐちゃなのに、他のことまで考える余裕なんてない。
結菜は「帰ります」と立ち上がった。
一人で考えたい。蓮とのことも今後のことも……
一人きりになってゆっくりと考えたかった。
「それは出来ません。あなたには暫くここにいてもらいます」
「え……?」
埃ひとつ無いテーブルに進藤がサングラスを置く音がカチャリと聞こえた。
「外に出ればあの騒ぎです。結菜さんが暮らしているあの家では誰もあなたを守れない。ですから、騒ぎが収まるまでここにいてもらいます」
「…………」
そんなの無茶苦茶だ。
たしかに、ヒカルは今海外に行って家には居ないし広海は仕事で帰りが遅い。男手は無いがいつも家にはタキが居る。それに、『守れない』とはどういう意味だろう。あの記者たちが何かするとは思えない。
「大丈夫です。自分の事は自分で守りますから。進藤さんも知ってるでしょ?そういう教育はきちんと受けています」
「あなたは今のご自分の状況をご存じないからそんな悠長なことを言っていられるのです」
「今の状況……?」
「お話しはあなたの伯父様が来てからにしましょう」
広海が来るまで二階で待つように言われ、結菜はリビングルームの扉に手を掛けた。
いったい何の話しがあるのか知らないが、広海が来ればすぐに家に帰れるだろう。結菜は安易にそう思っていた。
それよりも、二階で待っているようにとは、蓮の部屋のことだろうか。どういう顔をして蓮と向き合えばいいのか……
憂鬱な気持ちで扉を開けると入り口のすぐ傍の壁に凭れている蓮がいた。
「話しは終わった?」
「あ……終わったっていうか……」
まともに顔が見られない。
「終わってないのか?」
「これから広海さんが来るって……話しはそれからだって」
ふうんと言って蓮がこっちに近づいている気配がする。
「それで、進藤はどうしろって?」
「に、二階で待つように……って」
「そう。じゃあさ。それまでは俺たちの話しをしようか。じっくりと」
−じっくりと?
「ちょ……」
蓮は戸惑う結菜の腕を掴むと、半ば強引にエントランスホールから階段を上がっていった。
久しぶりに来た蓮の部屋はあの時とは全く変わっていない。
段を下りると右の壁際に黒いソファーが置いてある。蓮は結菜を奥の二人掛けの方へ座らせると、自分は手前の一人掛けのソファーへ座った。
ここに座ると、眠ってしまった日のことを思い出す。
そう言えば蓮が言っていた。初めてキスをしたのはこのソファーでだと……
夜景を見たときに交わしたキスが脳裏に浮かんだ。
−な、何を思い出してんだ!私は……
顔が急にかあっと熱くなる。
「あ。ここ暑いか?」
顔が赤いのはそう言うわけではないけれど、結菜は大丈夫と首を横に振った。
蓮が淹れたコーヒーのいい香りが部屋を漂っていた。
「あの……ありがと」
「どういたしまして」
ニッと笑う蓮はいつもと変わりないように見える。でも、今日は教室では話しかけてもこなかった……だから蓮もてっきり怒っているとばかり思っていたのに……
「あの……」
「なに?」
さっき言っていたじっくりと話しをするって、私が怒ってることについてよね?……
どうしてだろう。そんな簡単なことが言えない。
「あのさ。最近の上条って自分の言いたいことを言わないだろ?前はそんなんじゃなかったのに。どうした」
自分にだって分からない。確かに今までは言いたいことは言ってきたと思う。それもストレート過ぎるほど。でも、何故だろう。最近はよく言葉を飲み込んで、言いたいことも我慢してしまう。そうなったのはいつからだろう……
「嫌だよね。自分でも嫌だよ」
何か言って蓮に嫌われたくないっていうのもある。そんなことを思ってるのに、昨日のようなことがあれば、自我を通そうとしてしまう。いったい自分はどうしたいのか自分でもよく分からない。
「そうでもないけど?
実はさ。昨日のあれはわざと。怒ってるお前見て、安心したっていうか……
不安なのは俺だけじゃなかったって。
そんで今日のは、お前が嫉妬してるのをちょっと楽しんで見てた」
「楽しんでって……酷い」
「でも。いい加減疲れただろ?俺も上条とずっとこんなのは嫌だと思ってさ。今日のこの展開は俺にとっては好都合」
蓮は口許を上げて笑った。
でも……
まだ解決してない。
まだ蓮の口からあの女の人については語られていない。
「言いたいことをね……言ったら嫌われそうで……」
言葉を発して音にしてみると、凄いことを言ったみたいで恥ずかしくて結菜は下を向いた。
「そんなことで我慢してたのか?あのな。言いたいことを言わない方が、感じが悪い。だいたい上条らしくないだろ。俺に平気でバカだのなんだのって罵ってたくせに。その方がお前らしくて、俺は好きだな」
「私。蓮くんにバカなんて言ったっけ」
「あ?何とぼけてんだよ」
−『俺は好きだな』か……
蓮は時々、言われたこっちが照れてしまうようなことを平気で言う。そういうのっていいなって思う……恥ずかしくなるようなことはなかなか言えないけれど、蓮はこういうことが言いたかったのかもしれない。
「蓮くんみたいに歯の浮くようなことは言えないよ」
「たまには言えよ」
そう言うと蓮は、ははっと優しい笑顔を見せた。
そんな蓮の顔を見ると怒っていたことが馬鹿みたいに思える。
「あの女の人のことだけど」
今なら言えそうな気がした。
「ああ。たぶんもう来てる」
「は?来てるって誰が?」
「誰って……」
蓮は行けば分かると言い、結菜はまた強引に部屋から連れ出された。
二階の奥の部屋。ここは純平たちが来たときに入った部屋だった。
蓮が扉を開けると、中には女の人がソファーに座っていた。後ろ姿だけど、あの時の女の人だとすぐに分かった。
「ケイ……」
蓮がそう呼ぶと振り返った女の人はこちらを見て大人の笑みを見せた。
ふんわりとした柔らかい雰囲気で、その容貌は自分と比べるのも烏滸がましいほどに整っている。
『ケイ』―――
蓮がそう言った声が胸にズキッと突き刺さった。
この二人は付き合っていたのだと改めて認識すると、結菜は身体の奥からこみ上げてくるものをぐっと堪えた。