少しの真実
学校帰りに待ち合わせをして、結菜は行き交う人がよく見える窓際の席に座った。カフェには制服姿の学生がちらほら見える。
相手はまだ現れない。
ホットココアの入ったカップを手に取ると、蒸気に逆らうようにフッと息を吹きかけてから少しずつ口の中に入れた。
窓の外を見ると、足早に通り過ぎていく人や仕事中のサラリーマンが携帯電話で話しをしながら向かいにある交差点を渡るために信号待ちをしていた。その中には何組かのカップルの姿もある。手を繋いで時々目を合わせながら楽しそうに会話をしているカップルの後ろ姿を歩行者用の信号が青になるまで眺めていた。
信号が青に変わると、結菜はまたココアの入ったカップに視線を戻しフッと息を吹きかけた。
今日の昼休みに愛美から聞いた事が脳裏に浮かぶ。
それは、高校生になって間もなかった頃の出来事。まだ数ヶ月しか経っていないのに随分と昔の事のように思えてくる―――
ここから少し離れた公園で省吾の帰りを待ちながら芝生に寝転んでいた自分を思い出していた。学校以外で初めて会った蓮の姿は制服を着ている時よりも声を掛けづらく、思わず呼び止めてしまったことを後悔した。振り返ると、あの時あの公園で蓮と偶然出会ってから急激に距離が縮まった気がする。
省吾と共に駅前から走って逃げた場所がその公園。ヒカルの妹だと周囲にもばれ、その上、ここら辺の高校でもイケメンで有名らしい省吾まで一緒にいたからそうするしかなかった。そしてその時に撮られた二枚の写真……
それは愛美によってばらまかれたのだと思いこんでいた。でも、考えてみれば愛美がそんなことをしても省吾の気持ちを振り向かせる武器には使えない。しかし、みんな勘違いしていたのだ。愛美がやったのだと……
「お待たせ!なに?用って」
結菜が回想していると、待ち人はいつものように明るい笑顔で結菜の向かいに座った。いつもと変わらないその顔はとても演技とは思えない。
「あ……うん」
結菜はココアの入ったカップを置くと、ぎこちない笑顔で相手と向き合った。
ここに呼び出したのは、疑いを晴らす為なのか、それともそれが事実ならそのことを責める為なのか……それは分からない。
ただ真実が知りたいだけかもしれない。
それが友達を失うことになっても……?
何度も頭の中に渦のように回る言葉を振り払いながら結菜は固唾を呑んでいた。
きっと既にこの人は知っている。私が気づいていることを……ただ、どちらから先にこのことに触れるのか―――
どんな方向に話しが進んでいくのか全く予想出来ない。だから怖いのかもしれない。自分から話しを切り出すことが……
相手は黙っている結菜を不思議そうに見ていた。
「ユイ。どうしたの?また何かあった?」
心配そうに自分が見られていることに抵抗を感じ、結菜は鞄から志摩子が置いていった封筒を取り出し相手の前に差し出した。
見てもいいの?と尋ねられ、結菜はうんと首を縦に振った。
「今日。愛美さんに会って来た。その中にも入ってる写真について聞くために……
あなたでしょ?あの時の写真をみんなに送ったのは……ねえ。どうして。どうしてなの……
マユ―――」
マユは封筒の中の報告書を捲りざっと目を通すとクスリと笑った。それは先程まで見せていた優しい笑みとは違う。いつものマユではない笑いだった。
「やっぱりバレたんだ。なんだ。残念」
マユの目はまだ報告書に向いている。
結菜はあっけらかんと放ったマユの乾いた言葉を聞いて、やっぱりという気持ちと、本当は間違いであって欲しかったという気持ちがごちゃ混ぜになり、そして少しの怒りの感情が芽生えてきた。
「どう…して?」
声が震えた。
結菜の声にマユは報告書から視線を外し、強い目線で結菜を見た。
「どうして?はは。これだから金持ちって嫌いなのよ。私だってやりたくてやった訳じゃない。どうしてって聞かれたら……そうね。『生きるため』って答えるしかないよ」
「生きるため?」
「そう。でもユイのおばさんの所為で計画が狂ったじゃない。今まで上手くいってたのに。でも。まあいいや。ユイと雨宮蓮は婚約するんでしょ?私の役目は終わったから」
「…………」
話しが一向に見えない。聞きたいことがたくさんあり過ぎて何から話せばいいのかとても選べない。
「そういうことだから。じゃあ」
マユはそう言って席を立った。
「……待って……よ」
「何?私はもう話すことはないけど。報告書見たでしょ?ユイの想像していた通りだから」
確かにそうかもしれない。
でも違う。
聞きたいことはそんなことじゃない。
「マユ……私たちって、友達だよね」
結菜の言葉に明らかに驚いて目を大きくしたマユがストンとその場に座った。
「あんた。バッカじゃないの?こんなことされて友達って……ホント呆れるわ。
ユイのそんな偽善なとこって大嫌い」
「偽善って……」
「だってそうでしょ。偽善じゃなかったら嘘つきね。
ユイは雨宮蓮になんて言ったか覚えてる?『自分がいなくなればいい』って。あれ本心じゃないよね?自分を美化してまで同情されたいなんて私には分からない。まああれはキスさせるための計算だったのよね?」
「…………」
捲し立てて言うマユの言葉について行けず結菜は黙り込んでいた。
マユは知っている。蓮と二人だけしか知らないことでも、全て知っている。
分かってはいたけれど、なんだか哀しくなってくる。蓮と自分だけしか知らない思い出など、きっと一つもない。それがどうしたと言われればそれまでだが、全部のことを知られていると言うのもいい気はしない。
それに何?計算って……
「ほら。本当のことだから反論できないでしょ?」
分からない。マユが何を言っているのか……
マユが自分に敵対心を持って向き合っていることが未だに信じられずにいた。
「マ、マユは私と蓮くんを婚約させるために私に近づいたの?」
「そうよ。でもユイと出会ったのは偶然だった。あの時HIKARUの妹だって知ったときはホントに驚いた。だって、この話しを持ちかけられたばっかだったから……
ユイと偶然会ってこれはチャンスだって思ったの。
相手はあの雨宮蓮だって聞いたときは正直無理だって諦めかけたし、それに、ユイに出会った日に塚原省吾がユイに告ったって聞いて焦った。だから、ユイと塚原省吾を付き合わせないためにあの写真をみんなに送ったの。私の予想通り浅野愛美が出てきたってわけ」
マユは淡々と顔色一つ変えずに話している。
「いったい誰がマユに……」
「それは言えない。それを言ったらきっと報酬が貰えない」
「報酬……マユはお金が欲しくてこんなことしたの?」
報酬と聞いて結菜は自分の中にある怒りが膨らんでくるのを感じた。
「お金が貰えなかったらこんなややこしい事なんてしないよ。
ユイはお金で苦労したことなんてないでしょ?
ホントむかつく。
恋だの愛だの言ってればいいんだもんね。こっちは生きるために必死だっていうのに……」
「マユ……」
マユの言っていることが本当なのか読み取る余裕なんてなかった。でも話していることが事実なら?それが本当なら言い返す言葉なんてない。
結菜は両手の拳を膝の上でぐっと握り、ぶつけることの出来ない怒りを抑えていた。
「ユイ……マユのこと許してあげて」
不意に聞こえた声と人の気配に顔を上げると、そこには哀しい顔をしたアッキーが近づいて来ていた。
「アッキー……」
驚いた顔をしたマユの横にアッキーはスッと座ると今にも泣きそうな瞳で結菜を見た。
「マユだけじゃない。あたしだって同罪だよ。
気付いてたんだ……マユが何をしていたのか……だけど止められなかった。
いや。止められなかったんじゃない。あたしだってマユに加勢してたんだ。
だって、ユイは雨宮蓮のことが好きでしょ?それを友達として応援するのはいけないこと?
それに、マユんちが大変なことも知ってた」
「アッキー!」
言わせまいとマユが割って入ったが、アッキーは構わず話しを続けた。
「マユのお父さんが突然リストラされて……働くところがすぐには見付からなくってね。今はマユのお母さんがパートに行って生計を支えてる。マユんとこは兄妹が五人いるんだ。マユはその一番上で、その下には中学から二歳までの兄妹がいて、ほとんどマユが面倒を見てる。
本当に大変なんだ。だからってユイは簡単に許すことは出来ないって思うけど。
でも。でもね。
おじさんがリストラされた会社っていうのが」
「アッキー!言ったらダメ!」
マユの口調はさっきよりも強かった。
「もういいじゃない。ユイはいい奴だって……友達だってマユだって思ってるでしょ?
こんなことでお金を貰ったって兄妹達は喜ばないよ。
あたしだってバイトしてマユのこと助けるから、だからもうやめよ?」
マユの目が見る見るうちに涙で膨らんでポロリと頬に伝わった。
「アッキー。その会社って?」
聞いたところでどうなるものでもないと分かってはいても、聞かなければいけないと、そう思った。
「その会社は……雨宮グループの関連会社」
「雨宮グループ?」
「そう。雨宮蓮の父親を通して、この話しがマユに来たの」
「え――――!?」
−ど、どうして……蓮くんのお父さんから?
「お父さんがね……」
マユは頬の涙を拭いながら話し始めた。
「雨宮蓮の父親の側近がうちのお父さんと高校の頃からの親友でね。私はあんまり会ったことはないんだけど、お父さんとその人は仕事帰りによく飲みに行ってたみたい。
それで、リストラをされたときもすぐにその親友に会って相談したら、その話を持ちかけられたの……」
−待って。それって……
「それって、おかしいよ。だって、タイミングが良すぎない?まるでこの話しを受けさせるためにリストラされたみたいじゃない?」
「確かにそうだね……」
結菜の言葉にアッキーは顎に手を掛け頷いた。
「ねえ。私、分からないんだ。どうしてそこまでして私と蓮くんが結婚しないといけないのか。ただの政略結婚じゃない気がする……
例えばだけど、何か秘密が隠されているとか?上条家が弱みを握られているとか?」
「そこまでよ」
マユとアッキーの後ろの席からゆっくりと立ち上がり振り返ったのは志摩子だった。
「あ……」
「結菜さん。覚えているわよね。私が先日言ったことを」
そして三人が座っているテーブルにやってくると結菜の隣に座った。香水の臭いが勢いよく襲ってくる。今までの話しを聞かれていた。この香水の臭いにも、志摩子の存在にもなぜ気がつかなかったのか結菜は不思議で仕方なかった。