好きということ
結菜は蓮と蓮の知り合いから隠れるように大きな柱の陰に移動した。
すぐに話しは終わるだろう。何もこうして距離を置くことも無かったかもしれない……そう思ってもあの三人の中にどうしても身を置くことが出来ない自分もいた。
結菜は三人に背を向けるようにその場にあるソファーに腰を下ろした。
ここで待っているからと告げたとき振り返った蓮は無表情だった。
自分と一緒にいる時とはまるで違う感情のない顔――
「あら。そこにいるのは結菜さんじゃなくって?」
持て余した時間にマユ達にメールを送ろうと携帯電話を弄っていると不意に掛けられた声にビクッと反応した。この声には聞き覚えがあった。甘ったるくて艶のある声……
「おばさま……」
「やっぱり結菜さんね。何年ぶりかしら。あなたのご両親が亡くなってからだから……もうすぐ六年になるかしら」
「ええ……」
「お元気そうで良かったわ。あの後、広海さんがあなた達を引き取ったってお兄様から聞いて、心配してたのよ」
さも心配そうな表情をし、その女は結菜の隣に座った。
年の割には若く見えるが、真っ赤な口紅が目立ち、手に填めている指輪は、いかにもお金持ちという嫌みのある大きさのダイヤが光っていた。そして刺激の強い香水の臭いがより神経を苛立たせる。
この女は結菜の祖父義郎の年の離れた妹。志摩子。上条財閥の一員である。
「結菜さんのお兄さんはお元気そうね。時々テレビなどで拝見するけれど、芸能人だなんて……広海さんと同じで上条の恥さらしだわ」
この女がしれっとキツイことを言うのは昔からのことだった。結菜の母親も志摩子に泣かされたことは一度や二度では無いはずだ。
自分はあまり人に対して好き嫌いがないと思っていたが、この志摩子だけは別格。世界中で一番会いたくない人は誰?と聞かれたとすればこの志摩子だと即答で答えるだろう。
その世界一会いたくない人が今目の前にいる。結菜は握っていた拳に力が入った。
「あの人が結菜さんの婚約者ね?」
志摩子は後ろを振り返り、蓮を見てそう言った。
「どうして……」
知ってるの?と言いかけて止めた。どうして知っているのかと言うのは愚問だ。広海はきっと義郎に言われて行動したのだろうし、その義郎の妹の志摩子がこのことを知らない筈はなかった。
さっき蓮の言ったことが本当なら、こんな風に蓮と会っているのは上条家に関わること。だから志摩子はここにいるのかと自分の中で結論付けた。
志摩子は上条の中でも一番お金に執着しているように思う。両親が亡くなった時も遺産や今後の運営など口出しをしてきた。それもある程度は義郎が押さえつけ志摩子は何も言えなくなったようだが、結菜はこの志摩子を許せない。お金や仕事のことはまだ幼かった自分には分からなかった。でも……許せないのはヒカルのこと。両親が亡くなって不安な中この志摩子はヒカルを施設に預けろと言ってきた。
『この子は上条の人間じゃないのよ。そんな子供は上条にはいらないでしょ』と……
あの時はさすがに寡黙な義郎も志摩子に向かって怒鳴り声を上げその場にいた親戚中が震え上がった。
それでも志摩子は平然としていた。
この人はそういう人。
人が傷つくことなんて何とも思っていない。自分さえ良ければいいと、そう思っている人。
「結菜さん。あの人と結婚なさるの?止めておいた方がいいわ。あなたが傷つくだけよ」
志摩子はそう言ってバカにするように鼻を鳴らした。
「…………」
何を根拠に言っているのか分からないけど、答える気にもならない。
「あなたのためを思って言っているのよ。結菜さん。今あなたは幸せでしょ?その幸せな気持ちのまま、綺麗な気持ちのままで雨宮蓮と別れなさい」
「な……」
「どの道あの子とは別れることになるの。可哀想だけど、そういう運命なのよ。全てを知って別れるより、今のうちに別れた方が幸せよ。結菜さん。これは忠告よ」
結菜は志摩子を睨み付けた。
この女はまた何を言っているのか。
「それは蓮くんと結婚しても、おばさまには何の得にもならないから?」
「ふふ。それはそうね。あなた達が結婚しても私には何の得にもならないわ……私だけじゃない。上条にとってもなんの利益にもならないのよ」
「…………」
「いいことを教えてあげるわ。結菜さんと蓮さんが知り合ったのも、お互いが惹かれ合ったのも人為的なもの。ある程度は人の手によるものなのよ。私も驚いたわ。人の心って人でどうにでも出来るのね……私が言っている意味がこれから先分かればすぐにあの子とは別れなさい。それ以上深入りするとあなたが大事に想っている人が傷つくことになるのよ」
「言っている意味が分からない」
睨み付けて言う結菜の言葉に志摩子はクスリと笑った。
「そのうち分かるわ。そして、結菜さんとも近いうちにまた会うことになると思うわ」
志摩子は立ち上がりエントランスに向かって数歩歩くと「そうそう」と思い出したかのようにエルメスのバーキンから封筒を取り出し結菜に差し出した。
それを結菜が受け取らずにいるとまたクスリと笑い自分が座っていたソファーの上にその封筒を置いた。
「これは私からのプレゼントよ」
そう言って嫌みな笑いを結菜に向けた。
「らない……」
「え?」
「何か分からないけど、あなたから何も受け取る気はない!私の前に二度と現れないで!」
別れろ?訳が分からない。
いちいちこの女の言うことを気にすることはない。そう思っても何故か気持ちが落ち着かず苛々した。
それに志摩子はまた笑っている。この顔も見ていて苛ついた。
「それを見るのも見ないのもあなたの自由よ。いらないなら捨ててしまいなさい」
「だから……」
いらない。そう言いかけ言葉に詰まった。それは志摩子の顔から笑みが消えていたから。
「結菜さん。あなたの両親が亡くなった原因ってあなたでしょ?……あなたさえ我が儘を言わなければ今頃上条財閥は安泰だったのに……」
視界が揺らいだ。何も考えられない。返す言葉も見付からない。
「私の……」
私の所為。そうあれは自分の所為……
でもどうして……
「なぜ私がそんなことを知っているかって?その答えもその中にあるわ」
握っていた拳も掌に食い込むほどの力が加わっていた。泣かないようにぐっと奥歯を噛み締めて堪える。
そして自分の横にある志摩子が置いていった封筒をじっと見つめていた。
「待たせたな」
後ろから聞こえた蓮の声に慌てて滲んでいた涙を拭って振り返った。
「ホント待たせ過ぎだよ。お詫びになんか奢ってよ」
「お前また食べる気か?どういう胃袋してんだ」
「なによ。私はファミレスに行きたいの。こんなとこじゃ食べた気がしないんだもん」
「ハイハイ。分かったよ。分かりました。お詫びだから仕方ないデス」
蓮は結菜の手を取ると口許を上げてニッと笑った。
「蓮くん……手」
ホテルを出ると通りにはまだ人も多く手を繋いで歩いていることが急に恥ずかしくなった。 何度繋いでも緊張した。それに、自分と蓮とはちぐはぐで周りの人からどう思われるのかとか考えると居た堪れなくなってくる。
「これが何?」
蓮はそう言うと握っている手を自分の胸の辺りまで上げた。
「恥ずかしいから外さない?」
「なんで?いいじゃん。それに上条が迷子になったら困るから」
それより今度は何を食べるんだよ。と全く相手にされない。
結菜は蓮の動く唇を見ながら違うことを考えていた。
『結菜さんと蓮さんが知り合ったのも、お互いが惹かれ合ったのも人為的なもの。ある程度は人の手によるものなのよ。私も驚いたわ。人の心って人でどうにでも出来るのね……』
志摩子が言っていたことはどういう意味だろうか。本当に全てはこの封筒の中に隠されているのだろうか。
結菜は蓮と繋いでいる手と反対の手に握っているバッグの中に押し込んだ封筒を確認した。
「それでさあ……上条聞いてんのか?」
封筒ばかりに気を取られていて蓮の変化に気づかなかったけど、あの蓮の知り合いと話しをしてから蓮の機嫌がいい……三人で何の話しをしたのか気になった。
「蓮くん……さっきの人たちって誰?」
どういう知り合いかと軽い気持ちで聞いたつもりだったのに、見ていた蓮の顔が硬直した。 そしてそれを誤魔化すように横を向くと次に見せた顔は貼り付けたような笑顔だった。
「誰って、ただの知り合い……それより何処のファミレスに行くんだ?」
蓮の態度を見てその話しに触れたらいけないのだと感じた。機嫌がいいのではなくて態と明るく振る舞っていたのだと……何かある。そう思っても蓮の顔を見るとそこから先はどうしても踏み込むことができない。
志摩子はお互いが惹かれ合ったのは人為的なものだと言った。でもそんなことは嘘だ。自分は蓮のことを人によって好きにさせられた訳ではない。じゃあ蓮は?蓮はどうなのだろう。
『上条――』
そう言っていつも笑う蓮の笑顔は自分だけに向けられている。今はその笑顔を信じるしかない。この手の温かさと優しい眼差しは自分だけのものであってほしい……
例え欲しい言葉を声に出して言ってもらえなくても、蓮から語りかけられる声のアクセントやちょっとした仕草から想いが伝わってくる。その度に蓮にとって特別な存在なのかもしれないと自惚れている自分がいることも確かだった。
でも……そう思っていても不安が付きまとう。
胸の奥がざわついた。
言って欲しい。やっぱり蓮にきちんと言ってもらいたい。
結菜が歩みを止めると蓮も足を止めた。
「どうした?」
不安がどんどん膨らんで、きっと今泣きそうな顔になっている。
「蓮くんは……蓮くんは、私のことどう思ってるの?」
結菜は泣きそうな顔を隠すように俯いたままで語りかけた。
蓮がフッと息を吐いた気がした。その瞬間、繋いでいた手が引き寄せられトンと蓮の胸に額がぶつかった。
視界には結菜達を避けるように人々が行き交う足が映り込んでいる。土曜日のこの時間、人通りの多いこの場所で何をやっているのかとハッと顔を上げ、蓮から遠ざかろうとするが蓮の手が結菜の髪の中に滑り込むとそのまま顔を胸に押しつけられた。
「前に上条がさ。人を好きになったことがあるのかって俺に聞いたことがあっただろ?お前は人を好きになったことがないからどうだったらその人のことを好きだと自分で分かるんだって、俺にそう言ったよな?」
「……うん」
あれは省吾に告白された時。教室まで行く廊下で蓮に聞いた記憶が蘇った――
「あの時、俺は適当なこと言ったけど、今ならその答えが分かったような気がする……」
蓮の手の力が抜け、身体から引き離された。
「その答えって……?」
蓮の目は優しく自分を見つめている。
「人を好きになるっていうのは……何よりも、誰よりも……その人のことが大事だって思うこと……自分の事よりも大切だって、守ってやりたいって思うこと。
それに……ずっと一緒にいたいって思うこと……」
「上条。俺はお前とずっと……何があってもこれからもずっと一緒にいたい」