星屑からの慕情
床に座りベッドに凭れたヒカルを結菜は上から見下ろした。
ふわりとした髪が、挑発的で生意気なヒカルの顔を少し柔らかく見せてくれるように思う。仕事中はどうか知らないけれど、普段はあまり髪型を変えないからこういうのも新鮮でいい。
そして、カラーコンタクトをしている青みがかった灰色の瞳が何かを連想させる。
はて?何かに似ている……
――あ……そう。ハスキー犬だ。
いつも怒ったように見えるその顔に生意気そうなその瞳。ヒカルそのもののような気がして、結菜はブッと思わず吹き出してしまった。
「あんだよ」
怒ったヒカルの顔を見てまた吹き出す。
緊張感がない――
ヒカルを見ながら後ろの携帯電話も気になっているくせに……
「ごめん。ごめん。で、話しって?」
結菜も腰を下ろし、テーブルの横に置いてあったクッションを自分の方へ引っ張るとその上に座り直した。
ヒカルと視線が合う。
「俺。明日から一週間海外で撮影なんだ。広海から聞いてない?」
「一週間も……?聞いてない。っていうか。最近の広海さん、なんかおかしくない?」
最近……ではないか。もうかなり前から様子が変だ。
「それが。来週なんだ……安西菜穂が帰国するのが」
それも結菜にとっては初耳だった。
やっぱりそれが原因だろうか。そんなことよりも……
安西菜穂が帰って来る。十数年ぶりに日本に帰ってくる。そして突然消えた菜穂を広海はどういう気持ちで迎えるのだろう。しかも、自分の子供も一緒に帰国してくるかもしれないのだ。
そう考えると広海が変になるのも分かる気がした。
「ヒカル。その菜穂さんって言う人のことなんだけど。ヒカルは本当に菜穂さんと広海さんとの子供がいると思う?」
「そんなの分かんねえよ。広海だってきっとまだ知らねえだろうしな」
「そう……」
ヒカルはベッドから身体を離すと前にあるテーブルの上に頬杖を付いた。
「なあ。結菜はもし広海に子供がいたらどう思う?」
「どうって……」
どう思うかなんて考えたことはなかった。
広海に子供がいたら……?
「もしいたら、歳は私たちと同じぐらいなんだよね?私は綺麗な優しいお姉さんだったら嬉しいな」
そしたらいろんな事を相談できるかもしれない。広海にもヒカルにも言えないようなことを……
「結菜はのんきでいいな」
クッと笑いヒカルは頬杖の腕をもう一つ増やした。
「じゃあ。ヒカルはどう思うの?」
結菜の質問に、合わさっていたヒカルの瞳が揺らいだ気がした。
どう思うかなんて聞くべきではなかったのかもしれない。でも安易に言ってしまった言葉を今更飲み込むことは出来ない。
「……俺も……そうだな。俺も綺麗な女の人だったら最高だな」
そう言いヒカルは口許を上げて笑った。
「ヒカルの笑った顔を見るのは久しぶりだよ」
ホッとして結菜も釣られて笑顔になった。
最近はこんな風に話しをすることをどちらともなく避けていた。本当はもっと早く向かい合うべきだったのに……
「それはこっちの台詞。俺は結菜を泣かせてばっかだったからな」
「私は泣いてないよ。いつまででも泣き虫だって思わないでよ」
頬を膨らませて口を尖らせた結菜を見てまたヒカルは笑っていた。
お互いが大人に近づくにつれてヒカルとの距離は開いていく。それは兄妹だったら当たり前かもしれない。でもヒカルとは兄妹以上のものがあるって心の奥では感じている。お互いがお互いを必要としていた幼い心が、大人になってもきっといつまでもその心はヒカルと自分の傍にあって離れないと……そう思っている。
「結菜」
目を細めて笑っていたヒカルから笑みが消えた。
「なに?」
嫌な予感がする……
「雨宮蓮のことだけど……」
「…………」
和やかだっただけに、こういう展開になると予想をする思考が飛んでしまっていた。
結菜はヒカルの後ろにある携帯電話を閉じようと決意し、座っていた膝を立てた。
もしかするともう蓮は電話を切っているかもしれない。もう眠っているのかもしれない。
でも、もし聞いていたら……?
「結菜」
「ヒカル。ちょっと待ってくれる?」
「いやもう充分待った。これ以上待てない」
結菜が立ち上がろうと机に手を乗せると、ヒカルはその手を掴んできた。冷たくなったヒカルの大きな手が自分の手を包み込む。
「そうじゃなくって。その……」
取れない。腕を伸ばせば掴めそうな、あの携帯電話をどうしても取ることができない……それはきっと蓮と繋がっているって言う後ろめたさがあるから。
「もうお互い誤魔化すのは止めようぜ。結菜。俺はお前の口から聞きたいんだ……
お前はどう思ってる?雨宮蓮のことを」
ヒカルは真剣な瞳で自分を見ている。自分も本気で答えなければいけないってその瞳に思わされる。
「私は……」
唇が震えた。
言える?自分はヒカルに蓮のことが好きだって言えるのか……?
「ヒカルは私が蓮くんのことが好きだって言ったらどうするの?蓮くんのことを殴りに行くの?」
「結菜。ちゃんと答えろよ!」
ヒカルの威圧するような声が結菜を追いつめる。自分の手を掴んでいるヒカルの手に力が入った。
「…………」
「結菜!」
「……好きだよ……」
「…………」
「ヒカルも蓮くんも好きだよ。大好きだよ。
だから。だから、二人が喧嘩するところなんか見たくない」
好きの種類は違うけど、それでもヒカルも蓮も自分にとって大事な人。
「ずるいな……」
ヒカルは握っていた手を結菜から離し、自分の髪をクシャッと掴んだ。
「ヒカル?」
「いや。俺は別に……俺は結菜が選んだ奴が悪い奴だなんて思いたくはない。
結菜を信じたいよ?でも……もしその目が曇るようなことがあったら……もし、あいつがお前を傷つけるようなことがあったら。その時は結菜に何を言われようが俺はあいつを殴りに行くから」
−ヒカル……
ヒカルは優しく微笑んで、そして結菜の頭に自分の大きな手を乗せた。
「その時は文句言うなよ」
顔を近づけてニッと笑うと、ヒカルは頭に乗せた手で結菜の髪をクシャクシャに乱した。
これって、都合良く解釈すると蓮とのことを応援してくれるってことだろうか……
「ヒカル……」
「一週間。俺がいなくて寂しいだろ?」
「……うん」
それは本当にそう思う。一週間は短いようで長い……
結菜は寂しそうに目を伏せた。
「土産、何がいい?」
お土産なんて何もいらない。
ただ……
「ヒカル……ヒカルが無事で帰ってくること。それだけでいいよ」
結菜は今できる限りの笑顔で答えた。
ヒカルが部屋を出て行ってから手にすることが出来なかった携帯電話を掴んだ。
このまま折りたたんでしまおうか、とズルイ考えも浮かんでくるがここは開き直って耳に当てた。
コホンと態とらしく咳などしてみる。
ここは明るく何も無かったように……
「蓮くん。もう寝た?あははっ寝たよね。それではおやす」
『ふざけるなよ』
やっぱり起きていた。てことは、聞いていたよね……
「あ。起きてた?ごめんね、遅くなって。だから掛け直すって言ったのに。でももう遅いからまた明日にしようよ。バツゲームの件は特例を認めてあげて明日でもいいよ。って私の都合だから仕方ないけどね。ははっ。そう言うことで、おやす」
『言いたいことは終わったか?』
「あ……だから明日に……」
『今から来い』
「は?」
何言ってんの?
『聞こえなかったか?今すぐにここに来い!』
「ここにって?蓮くんち?」
『そうだ』
それって、ふざけてる?
「今からって……今何時だか蓮くん知ってる?」
『0時五分前だ』
「か弱い乙女が出歩く時間じゃないんですけど」
『か弱い乙女?男を投げ飛ばすし、ぶん殴るし、足蹴りは食らわすし……そんな女のどこがか弱いか説明してみろ』
う……何も言えない。
「あ、明日じゃだめ?朝一で行くから」
『このまま電話を繋いで家を出ろ。今すぐに。これが俺からのバツゲームの命令だ』
「そんな……」
結菜は溜息を付くと反抗するのを諦め、着替えるために電話を置いた。
玄関を出ると吐く息が白くなった。昼間はまだ温かい日が続いているけど夜はやっぱり寒い。今日は一段と冷えるじゃないかと思うぐらい肌に当たる空気が冷たかった。
坂を下りる自分の足音だけが響いていた。耳に当てた携帯電話も冷たくなって耳にひんやりと伝わる。
「今。家を出たよ」
『…………』
蓮からの応答がない……もしかして自分で呼んでおいて眠ってしまったのだろうか。
「蓮くん?」
もう一度呼ぶが蓮の声はやっぱり返ってはこなかった。
でも代わりに何かカサコソと音がする。何かが擦れているような……そんな音が。
取り敢えず家に行ってみよう。そう思い歩く足を速めた。
『今どこにいる?』
大きな通りに出たところでそのまま耳に当てていた携帯電話からやっと蓮の声が聞こえた。
「もう。何やってたのよ」
通りにはいつも目にするような賑やかさはなく、人もまばらに行き交っていた。前には家路に向かっているであろうバーコード頭のサラリーマンが酔って足をふらつかせながら歩いている。いつもとは違う光景に少し怖くなり身を縮めて歩いた。
『悪い……で、どこ?』
「んと。今は……」
目印になるような建物や表示を探すために上を見上げた。
あ……星が出ている。久しぶりに夜の空を見た気がした。
−きれい……
大小様々な満天の星が夜空に光り輝いている。
『上条?』
「空がきれいだよ。蓮くん」
『空?……ああ。綺麗だな』
結菜は足を止めその輝いている星に見入っていた。じっと空を眺めていると星が降ってきそうな感覚に囚われる。
あまりにも星が綺麗で、なんだか訳もなく涙が出そうになった。
「蓮くん」
『ん?』
「蓮くん」
『何?』
「大好き……」
自分でも分からない。なぜ今そんなことを言ったのか――
でも自然とその言葉が口をついて出てきたのは確かで……
もう自分でも限界だったのかもしれない。いろんな不安が胸を締め付けた。こんな時に胸の奥に隠している本当の自分が出てきそうになる。弱くて醜くて汚い自分の心が出てきそうになる……それをまた胸の奥底に押し込めた。
誰も知らない自分を……自分でも目を逸らしている本当の私―――
「そんなことは会ってから言えよな」
振り返るとそこには携帯電話を握り白い息を吐いている蓮が立っていた。