携帯電話
純平の横に並んで歩く。蓮の時もそうだけど、廊下ですれ違う女子達の視線が痛いほど突き刺さる……お昼休みにこうやって純平や蓮と一緒に歩くなんてことは緊急を要す以外にはまずない。
……っていうか歩きたくない!!
お弁当や学食を食べ終わった今は特に最悪だ。教室外には人が溢れかえっているのだから……
「私。これ以上学校で敵を作りたくないよ……」
ぼそりと独り言を言うと純平が隣で暢気に笑った。
「結菜ちゃんって時々訳分からないこと言うよね」
「はい?純平くんは分からない?この周りの張りつめた空気が。
『そこの女。あたしの純平から離れなさいよ』って怨念混じりの心の声が聞こえてくる……」
「『あたしの純平』って、オレは誰のものでもないけど?」
「純平くんは、女心が分かっていないよ。そう思いたいもんなの」
へえ。そうなんだ。と大きな目を更に大きくして純平は頷いている。
本当に分かっているのか?と結菜は疑いの目で純平を見ていた。
「それよりもバツゲームのことだけど……」
「うん」
結菜はゴクリと唾を飲み込んだ。
何を言い出すのだろう。いくら自分に断る権限がないとしても、無理難題を言われても困ってしまう。でもこの無駄なドキドキを早く収めたい。
「再来週の土曜日だけど、結菜ちゃん何か用事ある?」
「再来週?特にないと思うけど。何?」
「その日、兄貴の誕生日なんだ。それで、結菜ちゃんにうちに来てもらいたくて……」
省吾とは夏休みが終わってからも会ってはいなかった。お昼休みにはよく教室に来ていたのに二学期になってからはそれすらもなくなっていた。
「私が行ってもいいのかな?省吾先輩が私に会いたくないんじゃないのかなって思うけど」
「結菜ちゃん。これってオレの命令だよ。断る権利はないよ」
そう言って純平は周りも気にせず大きな口を開けて笑っていたけど、本当に会いに行っても良いのか今の省吾を知らない分、判断はできない。
これは別の意味でのバツゲームかもしれない……
「言っとくけど、オレは蓮とのことを反対してる訳じゃないから。ただ、あまりにも兄貴がさ。かわいそうって言うか……
まあ結菜ちゃんも兄貴に会えば分かるよ」
純平は自動販売機から落ちたジュースを屈んで取り、それを結菜に手渡した。
「うん……」
自分だって省吾とは会わなければいけないのかなって少しは考えていた。今まできっかけが無かっただけで、これはこれで良い機会なのかもしれない。
純平が自分の分と教室にいる蓮と綾の分の飲み物も買うと帰ろうかと振り向いた。結菜はうんと答え自分も振り返ると、ふと一冊の開いた雑誌が目に付いた。その雑誌はよく十代の女の子が見るファッション雑誌で、学生達がにぎわっている食堂のテーブルの上に置かれおり女子が三人で話しをしながら一人が次のページを捲ろうとしていた。
「ちょっと……何?」
雑誌を捲ろうとしていた手を結菜が止めた。周りにいる友達も怪しげに結菜を見ている。でも結菜はそんなことは気にせず、じっと雑誌の開いたページを凝視していた。
「結菜ちゃん。どうしたの?」
「…………」
後から純平が話しかけるが、結菜からは一向に返事が返ってこない。
「結菜ちゃ」
純平がもう一度結菜の名前を呼ぼうとしたとき、結菜ははっと顔を上げた。
「これ。ちょっとだけ貸してもらえないかな?」
「え?」
「ほんの少しだけ」
「貸してって……これ今日買ったばかりだから……」
女の子はためらうように雑誌に視線を落とした。
「じゃあ。これ。置いていくから。いいでしょ」
結菜はそう言うと後にいた純平を自分の前に差し出した。
「結菜ちゃん……これって……」
結菜は雑誌を掴むとダッシュで食堂から出て行った。後から純平の叫び声が聞こえたような気がしたけどそんなことはこの際無視だ。
スカートが捲れるのなんてお構いなしに教室までの廊下を全速力で駆け抜けた。教室にたどり着き、ドアに手を掛けると上がった息で上下する肩を落ち着かせようと胸を掴んだ。手から伝わる心臓の音もバクバクとせわしく鼓動を鳴らしている。
「結菜。早かったな。あれ?純平は?」
ぜえぜえとまだ肩で息をしている結菜は綾のいる窓際に足を向ける。蓮も綾の声で後ろを振り返った。
「上条どうした……まさか……純平に何かされたんじゃないだろうな」
結菜のただならぬ雰囲気に蓮は心配そうに眉を顰めた。
違う。そうじゃない。と声を出そうと思っても上がった息が邪魔をしてなかなか声にならず、代わりに頭を横に振った。
息を整えながらゆっくりと結菜は綾のところまで行くと、手に持っていた雑誌を綾の机の上に置いた。
「……結菜。どうして?」
雑誌の表紙を見て綾の顔色が変わった。きっと結菜は雑誌など滅多に見ないからと思い安心していたのだろう。結菜はページを捲るとさっき自分が見たページを開いた。
「これ……あ…やちゃんだよね?」
そこには『オシャレな着回しアイテム一週間』と大きく書かれてあり、最新の冬服を着たいろんなポーズをした綾が載っている。ナチュラルメイクだけど、いつもは真っ直ぐな髪も巻いていたり、顔の表情もドキッとするほど大人っぽく感じた。
「佐久間。お前はモデルだったのか?」
結菜の後ろから蓮も雑誌を覗き込んでいた。
「もうアルバイトはしなくてもいいんじゃない?それに、こんなの聞いてないよ」
綾がヒカルとだぶって見える。
「悪い。これはまだお金が戻ってきてないときに撮ったやつだ。それに、雑誌に載るなんてあたしだって聞いてなかった」
「それじゃもうモデルはやらなくてもいいんだよね?」
「…………」
−綾ちゃん?
綾は開き掛けた口を閉じ、そして困った顔をして結菜を見た。
「私から広海さんに言うよ。綾ちゃんはもうモデルはやらないって」
「違うんだ。あたし……あたしがやりたいんだよ。モデルの仕事を」
「そんな……」
「向いてるかどうかは分かんないけど、頑張ってみようと思うんだ。分かってるつもりだよ。結菜の気持ちは。ヒカルさんのことで寂しい思いをしていることも、あたしがこの仕事をすることを反対する理由も分かってるつもりだよ。でも自分がどこまでやれるのか挑戦してみたいんだよ。結菜になんて言われても、広海さんに貰ったチャンスを無駄にしたくはないんだ」
真っ直ぐに結菜を見つめる綾の瞳は強い意志を感じる。本気だ。綾は本気でモデルの仕事をやろうとしている。それを自分の我が儘で奪うことは出来ない。
結菜はふっと肩の力を緩めた。
「分かったよ。綾ちゃん……でも、広海さんに遠慮しなくてもいいんだからね。辞めたくなったらいつでも辞めていいんだからね……」
「結菜……」
綾は結菜の言葉に安堵の表情を見せた。
綾がヒカルのように忙しくなったら……それは綾にとってはいいことだけど、自分にとっては嫌なこと……だってヒカルのように綾にもあまり会えなくなるっていうことを意味しているのだから。
また寂しさが一つ増えるのかもしれない。綾が遠い存在に思う時がくるのかもしれない。
分かったと綾に言っておきながら往生際が悪すぎる。でもそう言う気持ちになるのは仕方が無いじゃない……
結菜は知らず知らずのうちに唇を噛み締めていた。
「ところで純平は?」
蓮の一言で純平の叫び声を思い出した。
「あ……」
やばい。
「結菜ちゃん……ひどい〜酷すぎるよ〜」
ブレザーのボタンは引きちぎられ、髪はボサボサになり見るもむ無惨な状態で足をふらつかせながら純平が教室に帰ってきた。
「純平。お前何があった?」
蓮は……たぶん本気で心配している。
「何って……蓮。聞いてくれよ〜結菜ちゃんが……あっ逃げるなよ。結菜ちゃん」
そろりと後ろ向きに出口に向かっていたのを敢えなく純平に見付かってしまった。
「ひ、人聞きが悪いな。逃げてるんじゃないよ。早くこの雑誌を返しに行かなくちゃ」
そう言うと結菜はさっき走って戻ってきた廊下を再びダッシュで走り出した。
「結菜ちゃんの鬼ぃ!悪魔っ!」
後ろからまた純平の声が廊下に響いていた。
今日中にと言ったのに、蓮からはまだ指令を受けていなかった。もしかすると忘れているのかも?と期待しながらベッドに横になる。念のために携帯電話を枕元に置いた。
まてよ……何も律儀に待っていることはない。この携帯電話が通じなかったら蓮は連絡をしてこられない……
結菜はニヤッと笑うと携帯電話を開いた。勿論電源を切る為に……
電源ボタンを押さえようと目で確認すると、暗くなっていた画面が急に明るくなった。電話が掛かってきたと把握するまで数秒画面を見ていた気がする。
出ようかどうしようかと迷いながら結局携帯電話を耳に当てた。
『お前。今出ないつもりだっただろ』
蓮の低く少し怒ったような声が脳に直接届いた気がした。
「そ、そんなことないよ」
やっぱり電源を切らなくてよかった……
静かな部屋に携帯電話から蓮の息遣いが聞こえる。会っているときよりも電話の方が身近に感じるなんて不思議な感覚がした。
『上条……』
蓮が何か言いかけると階段を上がってくるヒカルの足音が聞こえた。
「ごめん、蓮くん。また後でかけ直すよ」
電話の向こう側ではどうした?と蓮が尋ねている声が聞こえるが、結菜の意識はもうドアの外にあった。
明かりが点いているからいつものようにこっそりと覗くことはないとは思うけど、それでも部屋に来る確率は高い。
結菜は耳を澄ませて足音の行方を確認した。
足音は部屋の前で止まった。躊躇うように暫く静寂が続き、そして遠慮がちな小さなノックの音が聞こえた。
「結菜。起きてるか?……」
「うん。起きてるよ」
結菜は携帯電話を耳から離し、話口を押さえるとそう答えた。
「ちょっといいか?」
ヒカルが入ってくる、今自分が持っている携帯電話は蓮と繋がっている……やっぱり電話は切った方がいい。
「あ。ちょっと待ってね」
結菜はそうヒカルに言うと携帯電話を再び耳に当てた。
「やっぱり、後でかけ直すよ」
『…………』
「蓮くん?」
『いいよ。このままで待ってる』
「え……でも」
『時間は気にするな。いつまででも待ってるから』
そう言われてもここで話しをすれば蓮にも聞かれてしまう。
「蓮く……」
「結菜?どうした?」
こうしてはいられない。
結菜は開いたままの携帯電話を枕元に置くとヒカルのいるドアに手を掛けた。
カチャリとドアが開くとそこにはいつもとは違うヒカルが立っていた。
髪には癖毛風のゆるいパーマがかかっている。そして自分を見る目は灰色に光っていた。
「ヒカル……その目」
「これ?ああ。これカラコン。撮影先からそのまま帰ってきたから……」
ヒカルは入っていい?と聞きながらすでに部屋のドアを閉めていた。
「そ、それで?」
話しってなんだろう。
俺の部屋とはえらい違いだな。とか言いながらヒカルはベッドの前にドカッと腰を下ろした。ヒカルのすぐ後ろには蓮と繋がっている携帯電話がころがっている。あの携帯電話をさり気なくこの手に掴む勇気はない……
結菜はヒカルと携帯電話を交互に見ながら固唾を呑むと、ことの成り行きを見守るしかなかった。