バツゲーム
夏休みも終わり新学期が始まった。でもこうして学校へ来ても懐かしさはない。だって、補講やら何やらで夏休み中も幾度となく学校に来ていたから。八月の中頃までは復讐劇を演じていたのもあって文字通りあっという間に夏休みが過ぎていったことになる。
最後の一週間なんてそれはもう悲惨だった。全く手を付けていなかった課題の存在に気づき、受験勉強ですらこんなにした覚えがないほどに一心不乱に机に向かっていた。
だから、蓮のこともヒカルのことも何の進展もなくただ一日一日が過ぎていってしまった……
そしてもう一人気になるのが広海のこと。蓮の家に泊まった時にあんなに怒られると覚悟をして帰ったにも関わらず、自分と顔を合わせても何の反応も無かったのである。それからも奇怪な行動は収まらず、広海に話しかけても気づかないことがあり、ボーッとしていることが確実に増えていた。元々変わった人だけれども、それに輪を掛けておかしくなっている。
これは推測だが、もしかすると綾ママが言っていた『安西菜穂』に関して何かあったのではないかと思う。もうすぐ帰ってくると言っていた安西菜穂が帰ってきた……とか?そんなことを本人にもヒカルにも聞けずただ一人で想像していた。でも安西菜穂は有名人らしいから帰国すれば、いくら世間に関して疎い自分でも耳に入ると思うけど……
「おい!上条。夏休みボケか?」
ハッとして顔を上げると蓮が自分の机の前に立っていた。
「あ……蓮くん。おはよう」
「『蓮くん。おはよう』じゃねえよ。まったく。今度は何だ?何をそんなに悩んでる?」
上から不審そうに見下ろす蓮を結菜は下から見上げた。そしてあからさまに溜息をついた。
「女の子は悩みが多いのよ」
「お前なあ。冗談じゃなくて、今度は何を企んでる?」
「人聞きが悪いなあ。企んでるって……私がいつも何か事を起こしているみたいな言い方は止めてよね」
結菜はそう言うと口を尖らせた。
「よく言うよ。お前は自覚がないのか?俺は本気で呆れたぜ。大体いつも物事の根源はお前にあるだろ」
「うっ……そ、そんなことはないと思うけど!!」
「ないことはないだろ!頼むから自覚してくれ。それでもう何もするな。大人しくしてろ」
結菜はもう返す言葉はなく俯くしかなかった。それでも「蓮くんだってノリノリで一緒に計画したじゃない」と口先をモゴモゴと動かした。
「何か俺に言いたそうだけど?」
「いえ。別に何もございません」
そう言い返し再び目を伏せた。
今度は蓮が大袈裟に溜息を付くと、結菜の頭に手を乗せポンポンと二度軽く叩き自分の席に帰って行った。
結菜は隣に座った蓮を横目で見ると、喉まで出そうになった言葉を寸前のところで飲み込んだ。
『蓮くんとのことだって悩んでるんだから』
『蓮くんにとって私って何?』
『あの決められている婚約者とはどうなってるの?』
きっと一度口を開けば止めどなく溢れてくる言葉の数々。蓮が話してくれるまで待とうと決めていた。それでも、一度好きだと言われただけでそれからはそれらしい言葉なんてたぶんない……だから時々不安になる。まだ蓮に気持ちを伝えていない自分を棚に上げてそんなことばかり思ってしまう。
嫌だな……こんな自分……
前を見て強く生きるって本当に難しい。
***
暑かった夏も徐々に終わりを迎え秋めいてきたある日、ボールが弾む音と女子の歓声が響く体育館の中で、結菜は体操座りをしてオレンジ色のボールが弧を描きながら白い網の中に吸い込まれていくのをボーッと眺めていた。
「純平と蓮。大活躍だな」
そう言って綾が同じように自分の横に座った。
「この試合。全然面白くない。相手チームもそうだけど、味方もきっとそう思ってるよ」
また笛が鳴って得点が入ったことを知らせた。
試合が始まってからずっとこうだ。相手チームの誰がドリブルをしていても純平か蓮によって簡単に奪われ、そして難なくあのカゴの中に入れてしまう。
「でも、相手チームにはバスケ部がいるはずだけど」
綾は首を捻っている。
だとしたら、我が校はどれだけ弱いバスケ部なんだと呆れてしまう。
「ホント。つまらない」
体育の授業で男子がバスケをしているお蔭で女子はこうして見物しているだけでいいから楽だけど、それでも面白くない試合だ。他の女子を見ると目を輝かせて応援している。その応援している相手というのは勿論純平と蓮。
−応援しなくても点は入るって!
と心の中でその女子達に悪態をつきながら結菜はトイレに行くために立ち上がった。この状態だと一人くらい抜けても誰にも気づかれないだろう。
きゃあきゃあと言う黄色い歓声を背に、結菜は体育館を出て行った。
「つまらなさそうな顔して」
トイレから帰ってくると体育館の入り口に蓮が凭れて立っていた。
「そりゃ。あんなに点が入れば蓮くんと純平くんは面白いでしょうね」
「なんだよ。その嫌みな言い方……普通。彼氏が活躍してたら喜ばないか?応援も無しかよ」
まったく……と蓮は呆れた顔をしている。
「普通、普通って言うけど、普通って何?何を基準にして普通って言ってんの?だいたい……え?今……なんて言った……?」
か、彼氏って聞こえたような気がしたけど……
「あそこのコートが空いてるだろ?純平がさ、対決しよう言ってんだけど。上条も参加するだろ?純平と佐久間VS俺と上条で」
なんか誤魔化された気がする。
「綾ちゃんはバスケ上手だけど、私、球技が苦手だって知らないでしょ。絶対に負けるから……だから嫌だよ」
バスケなんてと結菜はツンと顔を横に向けた。バスケの対決をすることが嫌なんじゃない。ちゃんと答えてくれなかった蓮に対して腹が立っていた。
「仕方ねえな。だったらフリースローは?それなら出来るだろ?なあ」
どうしても対決がしたいらしい。
蓮は機嫌を取るように少し甘えた声で言ってくるからドキッと胸の鼓動が動いてしまった。自分は今怒っているのだ。目の前にいる蓮に……それをきっと蓮も分かっている。分かっていてそうしているのだ。
−からかわれてる……?
しかもそう言って顔を近づけてきたから顔まで反応して赤くなってしまう。
「ちょっと顔近すぎ。分かったから。やればいいんでしょ」
私って単純だ。そうだと分かっていても簡単に許してしまう。
「やった」
蓮は子供のような顔をして笑った。
「えーっ。フリースローかよ」
と純平は不満そうに言った。
「だったら私しない。誰か他の人を……」
「だーっ。ダメだ!純平いいだろ?じゃないとあのこともナシだぞ?」
蓮にそう言われて純平の眉がピクピクと動いた。
「仕方ないな。蓮にお願いされたら。じゃあフリースローで」
簡単に納得し、純平は立ち上がると何も付いていない体操ズボンの後を手で払った。そして、それじゃ。行きますかと蓮と意気揚々とコートに足を向けた。
「ちょっと待った!」
「何?結菜ちゃん。心変わりしてくれたの?」
純平はかわいい顔に笑顔をつけて振り返った。
「『あのこともナシ』ってなんのこと?」
「あ……」
純平の顔が笑顔のままで固まった。
「ねえ。あのことって何?」
結菜は蓮にも向かっても聞いてみた。
「あれ?俺。上条に言ってなかった?」
惚けちゃって……
「聞いてないよ。綾ちゃん知ってる?」
「えっと……」
どうやら綾も知っているらしい。
「私だけ除け者にして……だったら」
いじけてやる。ひねくれてやる。そしてごねてやる!
結菜は教えてくれるまでやらないとその場に座った。
「だから結菜にも言った方がいいって言ったのに」
「蓮があんなこと言うからだよ。結菜ちゃんが負けてもなんとか誤魔化そうと思ったのに」
「でも上条が負けたらそれこそうるさいぞ」
「だから、こっちは言ったことにしようって言わなかった?結菜ちゃんが負けても関係ないよ」
「……さっきから聞いてれば。私が負ける負けるって!やってみないと誰が負けるなんて分からないでしょ!隠してることをさっさと吐いて早く対決をしようよ。私。絶対に負けないんだから!」
自分を除け者にした上に負けると見下げてられて……冗談じゃない!
「さあ吐け。吐かないと授業が終わっちゃうよ」
と脅し気味に言うと蓮と純平は目を見合わせた。
「分かったよ。……本当は2対2の対決で負けた方の二人が勝った方の二人の言うことを一つずつ聞くってことだったんだけど。フリースローになったから、一番入らなかった奴が三人の言うことを一つずつ聞くってことを隠してたんだ。言ったら『そんな賭なんて』とか言って上条反対するだろ?」
なんだ、そんなことを隠していたのか……別に隠すようなことじゃないのに。
「それ面白そう……早くしないと本当に授業が終わるよ」
結菜はそう言うと一人コートの中へ入っていった。
「顔がいい上に運動神経もいいなんて……なんて嫌みな人達なのよ……」
「なんだよそれ。まあ。そう落ち込まないでよ。さあ。何を命令しようかな〜」
フリースローの結果は案の定、結菜の惨敗で終わった。
「純平くん。お願いだから、水着を着て逆立ちで校内一周とかやめてよね」
結菜は机に伏せながら自分の不甲斐なさを反省した。
「まさか。結菜ちゃんが勝ってたら、そのことを命令するつもりだったの?」
「定番じゃない?私は他には何も浮かばないもん」
「勝って良かった……」
純平はホッと胸を撫で下ろしていた。
「あたしはもう決めたよ」
「あ。待って。一つルールを加えてもいい?」
綾が言いそうになると純平がそれを遮るように言葉を挟んだ。
「えー。ルールって何?」
また何か余計なことを加えるつもりなのか。
「みんなそれぞれの命令は内緒にしようよ。結菜ちゃんとその人だけしか知らないようにしない?」
「それ。却下。佐久間は別にいいとして、純平の命令が内緒なんか危険すぎる」
結菜もうんうんと首を縦に振っていた。
「蓮はオレのこと信用してないんだ。そんな無茶なことは言わないって約束しても?それに、そういうルールにしたら蓮の方が有利だと思うけど……」
蓮は純平の言葉に暫く上を向いて考えると視線を戻しニッと笑った。
「ちょっと、変な命令だったら聞かないから」
「それじゃバツゲームにならないよ」
結菜は純平を見て、やっぱり余計なことを言ったと抗議の目を向けた。
いくら自分が反対しても負けた弱みで全く相手にされず、結局純平の案でバツゲームを遂行することとなった。
「結菜。喜べ。あたしのは簡単だぞ」
休み時間に蓮と純平が席を離れたのを見計らって綾は後から結菜の耳元で囁いた。
「それで。何?」
なんだろうとドキドキしながら綾の命令とやらに聞き入る。
「課題一ヶ月分と言いたいとこだけど、おおまけにまけて課題一週間分でどう?」
「どう?て聞かれても私はイヤだって言えないんでしょ?」
「まあな」
よろしく。と綾は機嫌良く笑っていた。
課題一週間か……まあ。どうせ自分の課題もしなければいけないのだ。それを写すだけでいいのだから簡単といえば簡単だ。
問題はあの二人の命令。
いったい何を言ってくるのか……途轍もなく不安だった。
「結菜ちゃん。一緒に飲み物でも買いに行かない?」
それはお昼休みのことだった。珍しく純平が自分を誘っている。
−キタ!
瞬間的にそう思った。
あれから結菜も負けじとルールを追加した。それは『今日中に命令の内容を言い渡す』というルール。だから今純平が二人きりになるために自分を誘っているのだと悟っていた。
「うん。いいよ」
気楽に言ったつもりだが内心は心臓がバクバクと音を奏でている。蓮も綾も気付いているはずなのに、行っておいでと何事もないように送り出してくれた。