ヒカルの気持ち
ドアが閉まり結菜が部屋から出て行った。ヒカルは更に深く溜息を付くと、そのままベッドに仰向けになった。
自分は今、何をどうしたいのかが分からない。結菜のことだって雨宮蓮とのことを考えるとどうしようもなく苛立ってしてしまう。さっきはあのまま話しをしていたらきっと結菜を泣かせていただろう……
不意にドアの外に人がいる気配がした。そういえば、結菜が隣の部屋へ入った音がまだしていない。ドアの前にまだいるのだろうか。扉の方へ目を向けるとガタッと扉が動いた。
「ヒカルはいい兄貴だよ。いつだって私のことを考えてくれる。最高の兄貴だよ」
結菜のくぐもった声がドアの向こうから聞こえた。何か言おうとしても何も言葉が出てこない。そのうち結菜は「おやすみなさい」と言って自分の部屋へ入っていった。
「俺……何やってるんだろうな……」
自分に問いかけるように言うと、ヒカルは瞼を閉じた。
そこには瞳を潤ませた結菜が映っていた。初めて会った時と変わらないその綺麗な瞳が自分を見ている。結菜がいるだけでその場の空気が変わるような錯覚は今でも変わらず起こっていた。これはいったいなんだろうと時々思う事がある。よく大物の芸能人とかで、オーラがあるという言い方をするのとは少し違う気がする。実際そんな人達と仕事をすることがあるのだから同じなら分かるはずだ。
ヒカルはフッと笑って手の甲を目に押し当てた。
今きっと自分は不安な事だらけだ。結菜のこと。仕事のこと。学校のこと。そして……広海のこと。今一番大きな不安は広海のことかもしれない。もし綾の母親が言っていた事が本当なら広海に子供がいることになる。そしたら自分はここにいて良いのだろうかと嫌でも考えさせられる。その子供は結菜の従兄弟であり、そして上条家の跡取りになるかもしれない人物。そんな人間が現れたら自分はやっぱりこの家にはいられない……
育ての両親が亡くなった時、上条の親戚からは「その子は上条の子ではないから施設に預ければいいじゃない」と話していたのを聞いてしまった。その時、自分の後ろで同じように聞いていた結菜がそう発言したおばさんの前に立ち「ヒカルが施設に行くなら私も行くから!」ときっぱりと言い切った。そして本当の兄妹じゃないと分かっても何も変わらず接してくれた。
そのことが嬉しくもあり、時々哀しく感じることもある。
今のこの仕事をしているのだって、元々は早く自立がしたかったからというのと、結菜と自分の生活費ぐらいは誰にも面倒を見て貰わなくてもいいようにしたかったから。中学生で堂々とお金を稼げる仕事なんてこれ以外に思いつかなかった。そして広海が事務所の社長だったというのも大きな要因の一つだった。
でも、この業界はそんなに甘くはなかった。顔にはそれなりに自信があった。そして顔さえ良ければ誰でも簡単にできるとなめていたのだ。だから、オーデションは受ける度に悉く落ちていた。
また今日もだめだったといい加減うんざりしていた時、声を掛けてくれたのが、後に『生きる理由』の映画を監督する長瀬和人だった。その時のことは今でも鮮明に覚えている。
「君の目は死んでいる。その目を見てこいつを使いたいっていう奴はまずいない。君はなぜこの仕事がしたいのかもう一度考え直すべきだ」
長瀬は中学生だった自分にきつい言葉を浴びせた。今から考えるとそんなにきつい言いようではなかったが、その時はその言葉を聞いて嫌な奴だと本気で思った。でもそのことがきっかけになったのは確かで、それから自分は本当にこの仕事をやっていきたいのか本気で悩んだ。そして悩んだ結果、自分が生きていくにはこれしかないという答えに辿り着いたのだった。遠回りはしたけれど、今自分はこの仕事が好きだし、言ってくれた長瀬にも感謝している。
この仕事をしているお蔭で結菜の大学資金も貯まった。毎月の生活費も支払える。それは自分だけの力だけではなく自分を支えてくれている人達のお蔭でもあることも感じている。
でも……
もうここにはいられないかもしれない。その時結菜はまた反対してくれるだろうか。口うるさい兄貴がいなくなって清々するのかもしれない。
−だったら、それこそ哀しいな……
ヒカルは疲れた身体を起こす気にはなれず、そのまま眠りについた。
それを聞いたのは撮影が一段落した休憩時間だった。
「それホントか?」
マネージャーの早見が深刻に首を縦に動かした。
「もうすぐ週刊誌にも載るらしい。そう今日会社で騒ぎになっていたから……」
「それで広海はなんて言ってた?」
「社長は週刊誌の記者とも話しをしていたみたいだけど、どういう話しになったのかまでは知らないな。でも週刊誌に載るってことは、交渉は決裂したってことじゃないの?」
そうか……とヒカルは呟き、そして、いよいよかと身構える。
早見が持ってきた情報は、広海の昔の恋人のこと。
その人の名前は安西菜穂。その菜穂が帰国することが正式に決定した。
そして広海の事務所に入る体制を整えているらしい。広海としては昔の恋人が自分の事務所に入ることは複雑だろう。でもどこから情報が漏れたのか分からないが、安西菜穂が広海の恋人だったことを週刊誌が嗅ぎつけ早速記事になるらしい。菜穂の帰国が注目されている今、菜穂にとってはその記事が有利になるのか分からないが、菜穂が事務所と契約を交わすということは事務所としても大きな活力になるだろう。
同じ事務所になれば菜穂と話しをするチャンスだってあるかもしれない。その時にでも子供のことを上手く聞き出せれば。とヒカルは考えていた。
「ヒカルちゃん。あなた最近太ったんじゃない?」
家のリビングのソファーに転がっていると帰ってきた広海が開口一番にそう言った。
「最近。撮影で消え物が多くてさあ。食事制限しないとやっぱダメかなあ」
お腹を押さえてみる。ちょっと腹筋も落ちている気がする。
「ヒカルちゃんは撮影中に欲張って食べ過ぎなのよ。太りやすい体質なんだから気を付けてよね」
消え物とは撮影中に食べる食べ物のことを言う。でもその消え物の所為だけではないと自覚している。考えているときについつい何か食べてしまうことが最近増えていたのだ。これはストレス太りだろうか……
「なあ。広海。安西菜穂が事務所に入るって本当か?」
「もうヒカルちゃんの耳にも入ったの?」
「それで?安西菜穂と会ったのか?」
早く確信に触れて楽になりたかった。二人の間に子供がいるならいるで自分は覚悟を決めなければいけない。
「まだ帰国してないわよ。ヒカルちゃんが心配することじゃないから……」
「心配することじゃない?なんだよ。大いに関係あるだろ。広海に子供がいるなら俺はここへはいられない……そうだろ?」
そう言葉を投げつけると広海は驚いたように目を見開いていた。
「ヒカルちゃん……あなたそんなこと考えてたの……?やあね」
広海はそう言うとヒカルの隣に座った。
「だって……だってそうだろっ。俺は必要なくなる。
今だってここにいていいのか不安なのに、もし……もしそうなら」
広海はヒカルの頭に片手を乗せて自分の方へ引き寄せた。
「そんなこと言ったら結菜ちゃんが暴れるわよ。それはもう恐ろしいぐらいに。知ってるでしょ?結菜ちゃんがどれだけあなたのことを頼りにしているのか。私だってそうよ。ヒカルちゃんがいないこの家なんて想像も出来ないわ。たとえ菜穂との間に子供がいたとしても、私は今までと変わらない。ずっと……あなたが死ぬまでここにいていいのよ」
「広海……」
広海の肩の温もりが自分の頬に伝わってくる。自然と目の奥が熱くなった。そしてじわりと涙が滲んで静かなリビングにぽとりと音がし、スーツの肩の部分に染みを作った。
「だって。この家はヒカルちゃんと結菜ちゃんの為に建てたんだもの。いてもらわなくっちゃ困るわ」
「広海。俺……本当にここにいていいのか?」
声が震えた。
「しつこいわよ。そんなこと悩んでいたなんて。仕様もないことを考えないで少しは勉強しなさいよ」
広海の素っ気ないけど優しい言葉にヒカルの涙腺が更に緩んだ。
−ありがとう……
心の中でそう呟いた。
「お帰りなさいませ」
タキがリビングに入ってきた。
「あ……し、失礼しました」
タキはヒカルと広海を見て一瞬固まり、そしてあわてて部屋から出て行った。
ヒカルはハッとしてそのままの状態で今の状況を整理する。自分は今広海の肩に凭れている。そして、広海はその状態で自分の頭を撫でていた……
ヒカルはタキが見た光景を想像してバッと頭を持ち上げ涙で濡れている目を腕で擦った。
「もしかして、タキさんなんか勘違いしたんじゃ……」
「どうやらそのようね……」
「なんでそんなに余裕ぶっこいてんだよ」
「大丈夫。誤解なんて何れ解けるものよ」
広海はそう言うと片目を瞑りウインクをした。
広海のそういう寛大な考えは素直に凄いと思う。さすがだと……
「そんなことよりももっと大きな問題があるのよ……」
「なんだ?仕事のことか?」
はあ……と溜息を付いている。広海はヒカルを見るとまた息を吐いた。
「何だよ。気になるだろ」
「結菜ちゃんがね……」
「結菜がなんだ」
「…………」
聞いてもただ虚ろな目をしているだけで今度は一向に答えてくれなかった。
「結菜になにか。あったのか?」
「いいえ。違うわ。仕事の事よ。仕事でちょっとあってね」
「仕事って。今結菜って言っただろ。誤魔化すなよ」
一つの不安が消えかけていたのに、またすぐに違う不安が浮上してくる。
「本当ヒカルちゃんには敵わないわね。いえね。最近結菜ちゃんの話をちゃんと聞いてやってないなって思って……ただそれだけよ」
ふふっと笑う広海をヒカルは訝しげに見ていた。
本当にそれだけだろうか……
ヒカルは広海が慌てて言葉を取り繕った気がしていた。結菜に何があるというのだろうか……
ヒカルはいつものように結菜の部屋のドアをそっと開けた。自分が遅く帰ってきたときにはもう恒例になっているその行為。尤も、最近まで綾が一緒に寝ていたから久しぶりに覗いたことになる。
いつもならベッドの上で眠っている結菜だったが、今夜は違っていた。ヒカルは結菜の部屋に入り、机に伏せて眠っている結菜の肩に上着を掛けてやると、自然と机の上に視線がいった。そこには数学の勉強をしていたのだろう教科書とノートが開きっぱなしになっていた。夏休み中だというのによくやるなと感心する。こういう結菜の頑張っている姿を見ると、がむしゃらに仕事をしている自分が慰められるような気さえしてくる。
眠っている結菜を見つめる。透き通るような白い肌に赤く色づいた唇が浮きだっていてなんだか色っぽく感じた。閉じている瞳に多すぎる程の睫毛がキレイに並んでいる。その瞼が開くと驚くほどに綺麗で純粋でそして真っ直ぐに見つめるその瞳に自分はどのように映っているのだろうか……
すうすうと気持ちよさそうに眠っている結菜を見ていると、こういうのは兄貴としての特権だとこの時ばかりはそう思う。兄貴だからこんなに近くにいられる。兄貴だからいつも一日の終わりには結菜の顔を見ることが出来る。喧嘩をしたって気まずくなったって、他人なら疎遠になってしまうこともあるかもしれない、でも、家族なら何れ必ず縺れた糸は解けると安心していられる。
−俺は結菜の兄貴で良かったよ……
揺らいでいる自分の心にそう言い聞かせ、結菜の髪にそっと触れた。
「おやすみ。結菜」
そう囁くとヒカルは結菜の部屋を後にした。