ごめんね
『彼氏に泣かされるようなことがあったらいつでもおいで』
この人は冗談で言っているのか、からかっているのか、それとも……
「おい。いい加減にしろよ!俺たちは付き合ってるって言ってんだろ。なのになんで彼氏の俺の前でこいつを口説くんだよ」
蓮の苛立った声がそう広くない店内に響いた。
「……それは悪かったね。今日ここに来てくれたのも何かあるって自分の中で思っちゃって」
と、匡貴は照れたように頭を掻きながら言う。
「残念ながら何にもねえよ。俺はもう約束は守ったからな。上条行くぞ」
蓮は匡貴に差し出されたお菓子の入った袋を奪うように取るとさっさと店の外に出ようとした。しかし結菜はその蓮の背中を追いかけようとはせずその場に立ちつくしていた。
だって、自分はまだ小沢との約束を果たしていない。今ここから逃げ出す訳にはいかないのだ。
言わないと、今言わなければいけないと自分を奮い立たせる。
「あの……私。もうここへは来ません」
「え……?」
「蓮くんに泣かされても……たぶん泣かされると思うけど、それでも私は蓮くんのことが……好きなんです」
良かった。ちゃんと匡貴の顔を見て言えた。
「君が彼のことを好きなことは分かってるよ」
匡貴はまた優しい眼差しで結菜を見つめた。
「だから、そうじゃなくて……」
困った。本当に困った……
有線が最新の音楽を奏でているだけでお客の姿もなくこんな時に限って助けてくれる人もいない。でも、これは自分が言わなくてはいけないこと……
「別に困らせる為に言ったんじゃないよ」
「はい……」
「君はまだ高校一年生だろ?今の彼と別れることだってあるかもしれない。その時にでも僕のことを思い出してくれればいい」
胸が痛い。
この人は冗談でもなく、からかっているわけでもなく……本気だ。本気で言っている。
生半可なことを言ったところで諦めてくれそうもない。
時が止まったように二人は佇んでいた。
やがて結菜の口がゆっくりと開いた。
「私は……蓮くんと知り合った時、なんて嫌な奴だって思ったんです。口は悪いしいつも恐い顔をしてるし、なんて冷たい人だろうって……そう思ってた。でも蓮くんを知る度にどんどん自分の中の感情に気づいて……初めてだったんです。人を好きになったことが。蓮くん、本当は優しくて温かい人だった。傍にいたい。私が蓮くんを誰にも渡したくないんです。この先もずっと……
ごめんなさい……あなたの気持ちには答えられない」
静かに聞いていた匡貴がフッと微かに笑った。
「参ったな。完全に振られたかな」
「ごめんなさい」
「謝らないでよ。余計哀しくなる」
「ごめんな……あ」
「ほら。また謝った」
結菜と匡貴は顔を見合わすと同時に笑った。
「お待たせ」
暑いと文句を言っていた蓮も木陰に入ることなくコンビニのすぐ横で待ってくれていた。
「そんで?どうだった?」
「まあ。それなりに分かってくれたと思う」
「なんだよ。それなりにって」
蓮が、なんて言って納得させたんだよ。としつこく聞いてきたけど、それは企業秘密だと交わしていた。
あんなことを言ったなんて照れくさくて本人には絶対に言えない。
それに、あんなに想われる価値なんて自分にはないのに……
「よう。また会ったな」
「会ったなって、待ち伏せしてたくせに」
蓮が面白くなさそうに小沢の前を通過した。外光に照らされた小沢の茶色の髪が金髪に近い色に見える。
「今日、ここへ来る前に金を振り込んだから。そんでこれから静香さんに会って来るよ。会って全てを話してくる」
「全てって……」
「大丈夫。君たちのことは言わないから」
終わった……
これで綾は母親の元に帰れる。もう寂しい思いをしなくてもいい。
「それにしても、上条結菜って言ったっけ?沙織とはえらい違いだよな。オレとしては沙織の方が好みだけど」
女って恐い。と小沢は言い放ち、それでも会心の笑みを浮かべ去って行った。
夜になり広海が家に帰ってくると結菜と綾をリビングに呼んだ。
「さっき綾ちゃんの母親から電話があって、今晩迎えに来るそうよ」
「今日って……それは急だけど。良かったね。綾ちゃん」
綾は少し驚き、そして嬉しそうに笑った。
「なあ。結菜」
綾は荷物をまとめる為に結菜の部屋に戻ってきた。結菜もそれを手伝うためにここにいる。
「なあに?綾ちゃん」
「あたし、ここの家好きだなっていつも思ってた。この木の造りも。その中に住んでる家族も……なんかあったかいって言うの?うちはお母ちゃんと二人だから余計感じるんだと思うけど。家に帰っても『お帰り』って行ってくれる人が今までいなかったから、なんかくすぐったかったけど嬉しかったんだ。結菜とも一緒に居られて楽しかったよ」
「綾ちゃん……」
そんなこと言わないでよ。なんだかこれでお別れみたいじゃない……
「あのさ。一つ聞いていいか?お金のことなんだけど。結菜だろ?結菜が取り返してくれたんだろ?」
「え?何言って……」
いつ何処でばれたんだろうと頭をフル回転させるが思い当たる節がない。
「いいんだよ。嘘つかなくっても。純平から聞いたんだ」
「聞いたの?ホントに?……もう!純平くんのお喋り!」
結菜が純平に対して怒りを露わにしていると、綾が肩を振るわせそのうち吹き出したかと思うと大声で笑い出した。
「ちょっと。綾ちゃん?」
「はははっ。悪い。まさか本当に結菜が取り返してくれたなんて思わなかったからさあ」
「……それって」
「純平に聞いたなんか。嘘だよ。鎌を掛けてみたら……ははっ。純平に悪いことしたな」
結菜は笑い転げている綾を半分呆れながら見ていた。
「でも、私だけじゃないよ。みんなが協力してくれたんだよ」
「ああ。お礼言わないとな。結菜もありがと」
綾は笑いすぎて溜まった涙を拭うと、服をボストンバッグに詰めていった。
綾の荷物が無くなると、普段通りに戻っただけなのに、なんだか部屋の中が広く感じる。
「綾ちゃんがいなくなったら寂しくなるよ。またいつでも泊まりに来てね」
「ああ……」
綾が両手に荷物を持ち結菜が部屋のドアを開けた。
「どうしようか迷ったんだけど。やっぱり聞いとくよ……結菜は蓮とどうなってんの?」
「え?」
急に蓮のことを聞かれて結菜は動揺した。しかもそれが綾からだから尚更だ。
「ヒカルさんがさ。最近元気ないんだよな。付き合うにしろ、そうじゃないにしろ、ちゃんと話した方がいいとあたしは思うんだけど……まあ。余計なお世話だな」
綾は笑顔を作ると開いていたドアから先に出て行った。
分かってる。分かってるよ……自分はヒカルから逃げている。綾のことを理由にしてヒカルのことを後回しにしていた。綾に言われなかったら、きっとこのままヒカルから逃げたままだった……
綾が静香と家に帰ってから結菜はまだ仕事から帰ってこないヒカルをリビングで待っていた。
カチャっと玄関の扉が音がし、人が入ってくる気配がした。
ヒカルが帰ってきたと思い、横になってテレビを見ていた身体を起こして姿勢を正す。しかし、その足音はリビングではなく階段を上っている。結菜が廊下に出ると、ヒカルの部屋のドアが閉まる音が聞こえた。
仕事で疲れているのだから今日でなくても……と弱気な思考に切り替わる。
「ダメよ。今言わないと!」
そう気合いを入れ直して、ヒカルの部屋の前まで一歩一歩階段を上っていった。
「おかえり。ちょっといい?」
「今、着替え中」
「そう……ならまた後で来るよ」
結菜はそう言うと息を一つ吐き自分の部屋に入ろうとすると、後ろからドアの開く音とヒカルの声が聞こえた。
「着替え、終わったから入れば?」
いつになく冷たく感じるヒカルの言いようとその表情に気が塞ぎそうになる。
おじゃましますと小さな声で呟き、その部屋を見回した。ヒカルの部屋は相変わらず片づいていない。今日はまた一段と物が溢れ出ているような気がする。
「で。なんの話し?」
「うん……この前。マユが言ってた蓮くんのことだけど……」
蓮と名前が出るとヒカルの顔つきが険しくなった。
「それで?」
「この前は付き合っていないって言ってたんだけど……」
「あ?お前。まさか付き合ってんのか?」
「そうじゃないんだけど……」
「…………」
「ヒカル?」
「ああああっ。もう。訳わかんねえよ!俺の知ってる雨宮蓮は最低な奴だ。でもこの前綾に聞いたらそんな筈はないって言うし。まったく。どっちなんだよ。どっちがホントの雨宮なんだよ!」
ヒカルは怒りに任せて自分の横の壁を殴った。ドスッと音がしてからは静寂な時が続き、どちらからも話しを再開することがなかなか出来ず、気まずい空気が流れていた。
立っている身体が少し揺れただけでも服の擦れる音がやけに大きく聞こえる。
ヒカルが怒るのも尤もだと思う。反対の立場だったら自分だってヒカルのことを心配して交際を反対するだろう。そんな簡単なことにも気づかずに、うるさく言うヒカルだけを責めていた自分に呆れた。
「ヒカル……」
ヒカルに届かないぐらい掠れた小さな声は自分の口元だけで消えていった。
「ごめんね」
「なんでお前が謝る。大体。お前は雨宮蓮に上手く騙されてんじゃないか?人はそうそう簡単には変われねえよ」
「ヒカル。そんなこと言わないでよ。あの映画でヒカルが演じた『陸』の言ったことを思い出してよ。私はあの映画を観て凄く感動したんだよ。人は人で変わるって陸から教わったんだよ」
涙が溢れそうになる目にぐっと力を込める。
泣かない。絶対に泣かない。
「あれは作り物の世界の話しだろ。いちいちマジに受け取るなよ」
「ヒカル。本気で言ってるの?」
「…………」
また沈黙が続いた。ヒカルが乱暴にベッドに座ると後頭を掻きむしるように手を擦った。そして大きく息を吐いた。
「悪りい。今日は疲れててなんか苛々してんだ。結菜のいい兄貴にはなれそうもないから、話しの続きはまた今度にしてくれ」
そう言って見せた顔は本当に疲れているようで、こんな時にヒカルを責めていることをまた後悔した。
結菜は分かったと一度ヒカルの部屋から出てドアを閉めたが、そのドアの前からなかなか動けずにいた。それは、自分がここに来たことで疲れて帰ってきたヒカルに更に追い打ちをかけて自分が疲れさせてしまったという申し訳なさがあったからだと思う。
結菜はドアに手を当てて瞼を閉じた。
ヒカルは自分にとってただの兄貴ではない。上手くは言えないけれど、家族以上の家族……
両親を亡くしてからはずっとヒカルに支えられて生きてきた。それは大袈裟ではなく、素直に心からそう思える。なのに、こんな風に歯車が狂いだしたのはいつからだろう。いつの間にこんな風になってしまったのか分からない。
我慢していた涙が頬を伝わった。
−ごめんね。ヒカル……
「ヒカルはいい兄貴だよ。いつだって私のことを考えてくれる。最高の兄貴だよ」
もう寝てしまったのか中にいるヒカルからは返事はない。
「おやすみなさい……」
涙を拭いながら結菜はヒカルの部屋を後にした。