ぼくの妹
−あれは、夢……夢だったんだよ。きっとそうだ。目を開けると、おかあさんが側にいて笑ってくれる。なんにもなかったみたいに----
ヒカルは目を覚ますと辺りを見回した。そこには母の姿はなく、広くガランとした部屋に一人いることに気づくとまた落胆した。
もう何度目だろう。それでもまだ望みは捨てきれない。
ヒカルの母親は、仕事で何日も家を空けることが度々あった。その都度、幼いヒカルは、いろいろな所へ預けられていた。今回もそうに違いない。また迎えに来てくれる。
−おかあさん。ぼく、いい子で待ってるから、早く迎えに来て……
ヒカルのその望みは、すぐに打ち砕かれることになる----
***
「旦那様がお呼びです」
ヒカルは、女中に先導され、広い屋敷の中を縫うように移動した。
もう幾日もご飯が喉を通らず、身体が少しふらつく。
ヒカルがこの家に来てから、応接間と今寝起きをしている部屋しか知らないことに気づいた。
−この家ってこんなに広いんだ。
長い廊下から面して見える広い日本庭園を、足を止めてじっくりと見てみたい衝動にかられるが、そこをじっと堪え、重い足をひたすら前に進めた。
暫くして、前を歩いていた女中が、やっと一つのドアの前に立ち止まった。
「入れ」
女中がドアを叩くと、すぐに返事が返ってきた。
女中はドアを開け一礼すると、誘導するようにヒカルを部屋へと招き入れた。そしてまた一礼をしてドアの外へと消えていった。
暫く、閉まったドアを眺めてから、部屋の中へと視線を移した。
そこには、あの白髪交じりの男の人が机に向かって物書きをしている姿が見えるだけで、その他には誰もいなかった。
ヒカルに気づいていないのか、一向にこちらを見ようとしない。
重々しい空気が部屋の中に充満しているようで、ヒカルはその場から早くいなくなりたかった。
しきりにペンを走らす音と、紙の擦れる音が静かな部屋にやけに大きく聞こえる。
そもそも、なぜこの男は自分を呼んだのか、そんなに忙しいなら、呼ばなければいいのに……
ヒカルはこの男の人が苦手だと思った。きっと自分にとってなにかとてつもなく嫌なことを言われるに違いない。
−『今日から君のお父さんとお母さんは、ここにいる人達だ』
胸の奥の方へしまい込んだはずの言葉が、ふっと外に漏れてくる。
考えたくない。何も考えたくない。
出来るだけ頭の中を空っぽにしようと、足下の絨毯の模様を眺めた。
不意に視線を感じて顔を上げると、男と目が合った。ヒカルは慌てて背筋を伸ばした。
しかし、男はまた何かを書くために机に視線を落とした。
男と目が合っただっけで、ヒカルの心臓はバクバクと大きく脈を打っていた。
「お前はまだ現実を理解していないようだな」
「え?」
「儂は、子供だからといって、容赦はしない」
男はそう言うと、右手に持っていたペンを机の上に置いた。
そして、今度はゆっくりとヒカルの方へ視線を向けた。
蛇に睨まれた蛙----
ヒカルは身体の底から身震いした。
−いやだ。逃げたい。ここから、今すぐに……
男の声より、ペンを置く乾いた音が耳から離れない。
「お前の母親はもうお前を迎えにはこない」
「…………」
「母親からは、何も聞かされていなかったようだが……
しかし、お前は分かっているはずだ。そうだろう?」
確かにそうかもしれない。でも認めたくなかった。認めてしまえば、自分はどうなるのか?知らない場所で、たった一人……恐ろしい孤独感が押し寄せてくる。
目に熱いものを感じて、ぐっと力を入れる。
−泣いたら負ける。
何故だかそう思った。
そんな思いとは裏腹に、頬に熱いものが伝わる。次第に嗚咽が漏れ、涙で視界が曇っていった。ヒカルは手の甲で涙を拭うと、唇を噛み締めて男を見据えた。
男は、そんなヒカルを表情ひとつ変えず、黙って見ていた。
「おじいちゃま!ヒカルを泣かせたら、ゆいながゆるさないからっ!」
突然、後ろの扉が開くと、ヒカルより背の小さな女の子が、横を通り過ぎると男に近づきそう叫んだ。
怒っているのをアピールするように、腰に手を据えている。
「結菜には関係ないことだ。部屋から出て行きなさい」
「いやっ!おじいちゃま、またヒカルを泣かすでしょ?」
「結菜!言うことを聞きなさい!」
男は声を荒げた。
一瞬、女の子の身体がビクッと硬直したように見えた。しかし、怯んだ様子はなく、仁王立ちを貫いていた。
暫く対峙が続いていたが、男の溜息で空気が変わった。
「お前は、頑固だな。誰に似たのか」
そう言うと、男はまた溜息を付いた。
「おじいちゃま。ヒカルをつれていくから」
女の子は、踵を返してヒカルの側へやってきた。
ヒカルはその時初めて女の子の顔を見ることが出来た。
クリクリッとした目が印象的で、その瞳の色は離れいてもよく分かるほど茶色い。
肩までの髪は、歩くたびにふわふわと揺れる。そして、日焼けなどしたことがないであろう、白い肌。
ヒカルが、なにより驚いたのが、その女の子が移動すると、その場の空気も変わるような、不思議な感覚だった。
−こんな子、見たことない。
「ヒカル、いこっ」
不意に自分の手に暖かいものが触れた。
「結菜、待ちなさい。話はまだ終わってはいない。少しだけ、外にいてくれないか?」
結菜はヒカルの手をぎゅっと握りしめ、「でも……」と言いかけ、
「わかった。ヒカルを泣かさないでよ」
そう言い残し、一度ヒカルを見ると、名残惜しそうに部屋から出て行った。
結菜の暖かい手の温もりが、離れてもまだ残っている。
「あれは、君の妹の結菜だ。泣き虫なくせに頑固で困る」
今まで変化しなかった男の顔が、少しだけ緩んだ気がした。
−妹?ぼくの妹……突然そんなこと言われても……
妹、結菜の登場で、先程までの緊迫した空気とは違うものになっていた。
「ヒカル。お前は母親が憎いか?」
−にくい?きらいかってこと?
ヒカルは大きく頭を振った。
嫌いになんてなってない。でも……
「そうか……」
男は暫く黙った後に、再び口を開いた。
「では、母親のために、心も身体も強くなれ。強くなって……
母親を安心させてやれ」
でも……いつか恨む日が来るかもしれない。いつか、嫌いになる日が来るかもしれない。
その日ヒカルは母親と繋いでいた手を離し、代わりに小さく暖かい手を手に入れた。