現在と過去の呪縛
『ゆい…な…助けて……』
−綾ちゃん!?
結菜はハンガーに掛かっていたパーカーを剥ぎ取ると、階段を駆け下りながらパジャマの上からそれを着た。
「それで?」
広海は綾に訪ねた。
「ねえ。どうして広海さんがいるの?」
ここは上条家。広海の家である。結菜と綾、その前に広海とヒカルが座り、綾の話しを聞く体制が整った。
綾からの電話があってから、結菜はすぐ綾の家に駆けつけた。それは一人でではなく、ヒカルと二人で。結菜が慌てて玄関を出たところで、帰ってきたヒカルに遭遇し一緒に行く羽目になってしまったから。
それから、すぐに綾をうちに連れて帰ったのだが、結菜たちが話しを聞く前にいつの間にか広海も参加し、そしてなぜか一番になって綾に質疑している。
「家の電気はどうして止められたの?」
「お金を払ってないから……」
そう。綾をここに連れてきたのだって、訪ねたマンションの部屋は照明の明かりも点かず真っ暗だったからだ。
「母親は?」
「最近帰ってきてない……」
広海の眉がピクピクと動いた。
「な、何を考えているの!あの女は!」
「ちょっと広海さん、綾ちゃんの前で……」
結菜は暴走しそうな広海を落ち着かせようと席を立ち、コーヒーを淹れにキッチンに向かった。対面のキッチンから、綾の背中を見た。いつもはしゃんとしている真っ直ぐな背中も今は少し猫背になっている。寂しそうな背中……
「家賃も払っていないから……もうすぐ……出て行かないといけないかもしれない……」
俯いたままぽつりぽつりと今の自分の状況を話す綾は今にも泣き出しそうだった。
「綾。お金のことは心配するな。明日にでも電気を通すようにするから」
「ヒカルさんにそんな迷惑かけれない」
「何言ってんだよ。お前は結菜と一緒で俺の妹だと思ってる。迷惑だなんて思うな。それに、お金ならホントに心配いらないから。これでも、一応人気タレントだからな」
「ヒカルさん……あたし、バイトして必ず返すから」
コーヒーの良い香りとコポコポとお湯が沸く音が、深夜の静寂な空気を変えてくれるような気がした。
「それで?どうしてあなたの母親は帰って来ないの?」
「たぶん……」
綾は広海の問いに言葉を詰まらせてた。
「たぶん?」
みんなの視線が綾に集まる。
「……男のところ」
「なんですって!?娘を放ったらかしにして男のところ!?」
怒り心頭の広海に結菜は落ち着けとばかりに淹れたてのコーヒーを差し出す。
「ねえ。綾ちゃん。暫くここにいれば?綾ちゃんママが帰って来るまで。いいでしょ広海さん?」
「私はいいけど……あんな女でも一応は綾ちゃんの保護者だから、許可を取ってからね」
広海はついでに文句の三つや四つ言ってやるわ、とぶつぶつ言いながら電話をかけに席を立った。
「本当に言いそうだよ。文句……」
結菜はちらりと綾を見た。綾は何か考えるように机上の一点をじっと見ている。いつもの調子ではない綾に戸惑いながらも結菜は励ますように綾に向かって笑って見せた。
「綾。まだ何かあるんじゃないか?」
ヒカルの言葉に綾が顔を上げた。そして再びヒカルから視線を逸らした。
「広海さんの前じゃ言えなかったけど……お母ちゃんその男に貢いでるみたいなんだ。貯金も全額引き出して……まったくいい歳して何やってんだか。いくらコンビニのバイトをしても追いつきゃしない」
だから、綾はバイトをしていたのか。そんな訳があるとも知らずに浮かれて遊びに行くからなんて言ってた自分が恥ずかしい。
「コンビニのバイトじゃあねぇ」
「広海さん!」
電話を終わらせた広海が知らない間にリビングに戻ってきていた。
「綾ちゃん。あなたの母親、今から来るって言うから呼んだわよ。そう言うことなら私からもガツンと言ってあげるから安心しなさい」
「どうせ。また喧嘩になるんじゃないのか?入学式の時みたいに。いや。それより酷いかもな」
広海と綾ママは仲が悪い。それはどうして……?もしも本当に綾ママと広海が昔付き合っていた仲だとしたら。広海は今このことをどう思っているのだろうか。
時計の針が時を刻む音がやけに耳に付く。
カシャンと陶器のぶつかる音が静かなリビングに響いた。綾の母親、静香はコーヒカップに付いた口紅を指で拭き取った。
「あなたたちは上に行ってなさい」
広海は静香と二人で話しをしようとするが、誰もその場から動こうとはしなかった。
「久しぶりね。綾」
綾を見て静香は、大きな目を細めた。それは懐かしがっている瞳ではなく、どこかに憎悪が潜んでいるように見えた。
「あなたたち、今日も学校でしょ?もう寝なさい」
「大丈夫。もう一日行けば夏休みだから」
広海はふうと息を吐いて、しょうがないわねえと言うと静香に視線を向けた。
「まどろっこしいのは嫌だから単刀直入に言うけど、あなたは娘を放っていったい何をやっているの?説明してみなさいよ!」
ほとんど喧嘩腰である。もう少し言い方があると思うのだが、これが広海だから仕方がない。
「綾。帰るわよ」
静香は綾の腕を掴むと無理矢理立たそうとした。
「ちょっと、待ちなさいよ。今帰せるはずがないでしょ?」
「私たち親子のことはあなたには関係ないでしょ!それこそ放っておいてよ!」
荒々しい静香の声に広海は黙り込んだ。結菜とヒカルは為す術もなくただことの成り行きを見守った。
「いいから。座りなさい。話し次第じゃ私にだって何か出来るかもしれないでしょ?」
喧嘩腰では話しは聞けないと思い直したのか、広海は落ち着き、静香を椅子に座らせた。
「年下の彼がね……」
暫く沈黙していた静香は堰を切ったように喋りだした。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「最初、実家からの仕送りが止められたって私にお金を借りに来たの。その次は、仕送りが止められたのは母親が病気で入院してて、入院費がかかるって言ってきた……私は年上だし、少しでも彼に頼りになるって思われたくって、それでお金を何度か渡したの」
「それって完全に騙されてる」
ヒカルの発言に広海は手で黙ってという仕草をした。
「騙されてる?いいえ。違うわ。彼は私を愛してくいれているし大事にもしてくれた。綾があんなことをするまでは……」
「お母ちゃん……あたしはお母ちゃんのことが心配で……」
静香の目は娘を見る眼差しではなく、嫉妬に狂った女の目をしていた。結菜はこの目を知っている。浅野愛美……屋上に呼び出されたときに愛美が自分を見た目と同じだ。ゾクッと背中に悪寒が走った。
「あなたが彼に『お金を返して』なんて言いに行くから……あんなに優しかった彼が、あれから機嫌が悪くて私に冷たく当たるようになってしまったわ」
−『お金がどうとかって』
あ……マユが教えてくれた。綾と男との喧嘩はこのことが原因だったんだ。
「あなたは本当にそう思っているの?彼が冷たくなったのは綾ちゃんの所為じゃなくて、それはあなたにお金が無くなってしまったからだって思わなかったの?」
「…………」
広海の言葉に静香は唇を固く閉ざし泣くのを堪えているようだった。自分でももしかしたらそうかもしれないと思っていたのかもしれない。それを認めたくなくて綾の所為にしていた……静香は人を好きになったことで、自分を見失いそして母親を放棄し、ひとりの女になってしまっていた。
人はどうして人を好きになるのだろう。相手も自分のことを好きになる確率ってどれくらいなのだろうか。それって凄く低いような気がする。お互い相思相愛になって結婚したとしても今の世の中って数秒に一組離婚するというぐらいだから、お互いがずっと一人の人を想い続けるなんて奇跡に近いことなのかもしれない。それなのに、人は人を好きになるのを止めない。たとえそれが苦しいだけでも……
ふっと蓮の顔が浮かんだ。
蓮に対する自分の想いも苦しいままで終わってしまうかもしれない。
傍にいられるだけでいい……か。それは省吾が言った言葉。それって今なら分かる。省吾が自分に言ってくれたことは今すべて身にしみて敏感に感じる。省吾は自分に、自分は蓮に……全く上手くいかない。
結菜は隣に座っている綾を見た。
綾は覇気を失ったような顔をしていた。今は蓮のことではなく、綾のことを一番に考えなければいけない。
自分より男を選んだ母親に、和解策はあるのか。広海はどうでるのだろう。
「ひとつ、提案があるんだけど。綾ちゃんを私の事務所で預からせてくれない?始めはそんなに稼げないとは思うけど。ずっと思ってたのよね。この子ならきっとものになるんじゃないかって」
広海は驚いている綾に向かってウインクをした。綾だけではない発言した広海以外全員が驚き入っていた。
「あなたはその『年下の彼』との清算を早くすることね」
人の気持ちはそんなに簡単ではない。一度とことん愛した人なら尚更難しい。
それでも静香は分かったと頷き綾に少し微笑んでみせた。
広海の言動で静香の気持ちが少しでも前向きに変わってくれればいい……
もう遅いから早く寝なさいと広海に言われながら、時計を見ると既に夜中の二時を回っていた。通りでさっきから瞬きの閉じて開くまでの時間が長くなっているはずだ。
結菜は綾に二階に行こうと誘い席を立とうとすると、静香がとんでもないことを話し出した。結菜もヒカルも綾もその場からまた動くことができなくなってしまった。
「広海さん……あなたに話しておかないといけないことがあるの……菜穂さんのこと……」
静香の口から菜穂という名前を聞いた広海の顔色が一瞬で変わった。
「今更。昔のことなんて話さなくっていいわ。もうとうの昔に忘れたことよ」
「いいえ。聞いてもらうわ」
静香は菜穂に口止めをされていて、広海にずっと言えなかったと呟いた。
これはもう眠気なんてぶっ飛んでしまう話。
それは広海の過去のこと……
大学に通っていた広海は菜穂という女性と付き合っていた。誰もが羨む美男美女で憧れの的だった。菜穂は容姿端麗を生かしモデルの仕事をしながら、女優をめざし、そのためには努力も惜しまず奮闘する毎日だった。広海はその菜穂を陰で支えるべく芸能事務所を開くことを目標に寝る間も惜しんで勉学に励んでいた。そんな夢を追いかける二人は周りからもきらきらと輝いて見えていた。同じ大学に通っていた静香も二人は憧れの存在だった。
その菜穂がある日広海の前から忽然と姿を消したのだ。
誰から見ても順調な二人がどうして……?
「私は菜穂さんに可愛がってもらっていたわ。スタイリストになったのだって菜穂さんの影響があったから……だから、いなくなった時はショックだったし私なりに思い当たるところを探したけど見付からなかった。それから半年ほどして実家に帰っているって噂を聞いたの。私はすぐに菜穂さんの実家に行ったわ」
広海は静香の話しを黙って聞いている。
「噂だと思っていたら、本当に実家に帰っていたの。半年ぶりに見た菜穂さんは変わっていた……お腹がね……大きかったの」
「え……」
広海は驚きのあまり目を見開き、呼吸をするのも忘れているようだった。
「広海さん。菜穂さんとあなたの子供よ」