徒花(あだばな)
「どうしたの?ユイ……」
ドアの反対側からアッキーの心配している声が聞こえた。
「うん。ちょっと気分が悪くて……食べ過ぎかな」
泣いていることを感じ取られないよう細心の注意を払いながら、語尾はなるべく明るい口調で答えた。
「結菜。大丈夫か?」
綾までがドアのすぐ向こうにいる。
このままここにいれば、みんなに心配させてしまう。そう思い鏡で自分の顔を見ると、この部屋から出て行く意気を失ってしまった。顔色は悪く、赤く充血した目に溜息混じりの息を吐く。
自分はいったい何をやっているのだ。別になんてことのない蓮の言葉に勝手に翻弄され、挙げ句の果てにはその蓮の部屋の一角に閉じ籠もっているなんて……
でも、今はどうしても蓮には会いたくない。このまま蓮に会わずに帰れるならすぐにでもそうするだろう。
『なんとも思ってねえよ』
だから、どうしたの。そんなこと分かっていたことじゃない。今更そんな言葉で落ち込むまでもない……あの場で、「こっちだってなんとも思ってないよ」って言ってやれば良かったのに。そしたらみんなは納得してこの話しは終わっていた。
結菜の頬にまた涙が伝わる。
どうして泣くの?
自分に問いかけようとしたが止めた。そんなこととっくに分かっている。ただ自分の身勝手でそれを認めたくないだけだ。
そう……
−私は蓮くんが好きだ……
あの気難しい雨宮蓮をいつの間にか好きになっていた。いつもの不機嫌そうな顔も、言い合いをして怒った顔も、たまに笑いかけてくれる優しい顔も、そして何かを語りたそうな悲しそうな瞳も……温かい大きな掌も……
いつも傍にいて何かあれば助けてくれる
心のどこかでは期待していたのかもしれない。
そんなことあるはずはないのに。だからかな。知らず知らずのうちに自分が蓮に傷つけられないように振る舞っていたのかもしれない。
傷つかないように自分の気持ちに蓋をして……
「ははははっ」
急に笑いがこみ上げてくる。
相手の気持ちが分かった後に自分の感情に気づくなんて……
「バカみたい……」
結菜は流れ出る涙を止めることが出来ず声を押し殺して泣いた。
「上条?」
「……!?」
蓮の声にこれ以上無いほどに心臓が飛び跳ねた。
ドアひとつ隔てた向こうから聞こえるくぐもった声。
「大丈夫か?」
「…………」
結菜はドアを見ながら後退りをすると、奥にあるバスルームのガラスに背中がぶつかった。もう奥には行くことができない。隠れる場所もない。結菜はその場にしゃがみ込むと膝を抱えて小さくなり泣いていた顔を隠した。
「開けるぞ」
ドアノブがゆっくりと下におりていくと、音もなく静かにドアが開けられた。足音で蓮が近づいて来るのが分かって俯いたまま顔を横に背けた。
今この顔を見られたくない……
蓮はすぐ傍まで近寄ると結菜に合わせてしゃがみ、結菜の頭を撫でた。
「どうせ、また無理したんだろ?森のおっさんがもうすぐ来るから診てもらえ」
「え!?」
結菜は蓮の言葉に驚いて顔を上げた。
−今なんて言った!?
「ひっでえ顔。そんなに調子が悪いんだったら遠慮せずに言えばいいのに」
「あ……」
結菜は慌ててまた顔を腕の中に埋めた。
以前、肩をぶつけた時お世話になった森先生。
医者まで呼ばれ、今更調子が悪いのは嘘だったなんて余計に言えなくなってしまった。
「取り敢えずここから出よう」
蓮に腕を掴まれるが、無言でそれを払いのけ、行かないという意味で顔を埋めたまま頭を横に何度か振った。
「大丈夫だ。部屋には誰もいないから」
「……みんなは?」
「帰ったよ。元気になったら連絡くれって」
あ……みんなに心配をかけてしまった。もう本当に自分は何をしているのか。
益々沈んでいく気持ちを抱えて、緩くなっている涙腺からまた涙が溢れてきた。
不意に蓮が更に近づくのを感じたかと思うと、自分の身体がふわりと空中に浮いた。慌てて辺りを見回し、すぐに蓮に抱きかかえられていると分かると結菜は蓮の腕の中で暴れた。
「ちょっと、降ろしてよ」
いくら暴れても蓮の腕はびくともせず、部屋に連れて行かれるとやっとソファーに降ろされた。
きっとこういうことを誰にでも平気でできるんだ……
蓮は目を細めると、結菜の頭に掌を乗せた。
「大人しく寝てろ」
そう言い髪を乱雑に掻き乱すと、おでこを押して結菜を強引にソファーへ寝かせた。
蓮は分かっていない。こういうことをされると大概の女の子は勘違いしてしまうことを……
「あの……先生」
部屋に森と二人きりになった結菜は本当のことを言うために口を開いた。
せっかく来てもらったのに、実は仮病でしたとはなかなか言いにくい。結菜が言葉を詰まらせていると森は優しく微笑んで結菜の隣に腰を下ろした。
「よければ、今日はあなたのお話を聞かせてくれませんか」
森は診察を始める様子もなく、結菜の隣で笑みを見せた。
自分の嘘を簡単に見破られ、どうしようもない恥ずかしさが顔を赤らめた。
「わざわざ来てもらったのに、すみませんでした……」
「いいえ。私もあなたと話しがしたいと思っていたので呼んでもらって良かったですよ」
「私と?」
「ええ。以前私はあなたに余計なことを言ってしまったと反省をしていました。あなたにだって心というものがある。それなのに、蓮さんのことを押しつけるような無粋なことを言ってしまいました」
「…………」
「あれでは、あなたに蓮さんのことを好きになれと言っているようなものです」
森が蓮のことを心配して言った言葉……
−『蓮さんは、嬉しいことも悲しいこともすべて自分の中に溜め込んで今まで生きて来たんです。そういうことも含めて、蓮さん自身を見てほしい』
「あの。私は先生に言われたからじゃなく……その……蓮くんのことが好きです。でも、蓮くんには私のことはなんとも思ってないって言われてしまいました。先生のご期待に添えなくて……」
「あなたは自分の気持ちを蓮さんに伝えたのですか?」
「いいえ。でも、もういいんです。言ったところで蓮くんが迷惑するだけですから」
私はあなたのことが好きですと蓮に言えばきっと困った顔をするだろう。そして今までの関係も壊れてしまう。それだけはどうしても避けたい。
「たとえあなたがそう思われていても、私は納得しません。今日の蓮さんを見る限り、やはり私の誤解とは考えられない。あの時も言いましたよね。あの子は変わりました。それは結菜さん……あなたが変えたのです」
−私が蓮くんを……
自分の中の答えはNOだ。
自分の存在が蓮にとってそれほど大きいものとはとても思えない。
「私もあの時と同じ考えです。それは森先生の誤解です」
結菜の強情さに森は苦笑し、そして溜息を漏らした。
「私はまた余計なことを言ったようです」
そう言うと大きな黒い鞄を持って部屋の扉を開けた。
結菜は慌てて森を追いかけると、廊下の壁に蓮が寄りかかって立っているのが目に映った。
ドクドクと動悸が激しく打ち始める。
「せ、先生。あの、ありがとうございました」
蓮が体制を戻してこっちを見ている。森は足を止めて結菜の方へ振り返った。
「いいえ。何かあればいつでも呼んでください」
目尻を垂らして優しく笑う顔はいつもの森のように思える。
「上条は大丈夫なのか?」
蓮は森に診察結果を聞いている。結菜は森がどう答えるのか固唾を呑んで見ていた。
「心配いりませんよ。軽い食中りでしょう。少し休めばすぐに治りますよ」
「そうか……良かった」
ほっと力が抜けて安心する蓮の様子が垣間見えた。その姿を見ていた森は結菜に視線を移した。
「結菜さん。行動を起こさないと前には進めません。後悔しないように……」
森の言いたいことは分かっているつもりだ。
でも今は行動を起こせば自分はきっと後悔する。そう思うからこそ絶対に言えない。
結菜は自分の部屋のベッドに転がると手に持っていた携帯電話を開いた。家に帰ってきたことと元気になったことを伝えるために。
「マユ?ごめんね。心配させて。もう大丈夫だよ」
『ホントに心配したよ。でも良かった早く治って。今は家?』
「うん。そうだよ」
すぐに話しが続くと思っていたら、マユにしては珍しく沈黙が続いた。
もしかすると自分があんな態度をしたから蓮のことを好きだって気づいたのではないのかと思い息を呑んだ。
『帰りにさあ。綾にあのことを聞いてみたんだけど……』
蓮のことではなかったとホッとしたのもつかの間で、気になっていた綾の話しになり、ベッドから身体を起こすと携帯電話を握りなおした。
あのこととは、大学生の男との喧嘩のことを言っているのだろう。元々マユから聞いた話で、結菜はそんな話は嘘だと高を括っていた。
「それで?綾ちゃんはなんて?」
『綾は何も言わなかったよ。だから分かったんだけど……あれはやっぱ何かあるな』
何かある……その何かが分かるのはそれから数日後だった。
時刻は22時過ぎ――
結菜はお風呂に入りパジャマを着て、いつでも寝られるようにベッドに入り本を読んでいた。明日で一学期が終わる。明後日からは夏休みだと思うと、別に取り立てて夏休みの計画もないのだが、気分はうきうきしていた。
携帯電話のバイブが震える振動と音で、眠りかけて遠くに行こうとしている意識が舞い戻ってきた。こんな時間に誰だろうと画面を見た。
「あっ」
結菜は名前を見ると慌ててボタンを押した。
「綾ちゃん。どうしたの?」
遅くに綾から電話があるなんて初めてのことだった。
『…………』
電話の向こうは静まり返っている。
「綾ちゃん?」
様子がおかしい。
結菜はもう一度綾を呼んだ。
『……結菜。あたし……もう、限界……』
「綾ちゃん!?」
『ゆい…な…助けて……』