涙のわけ
30分前―――
通勤、通学人が行き交う、大きな公園の道路脇に、一台の黒塗りの車が止まった。
車の中には男が二人乗っている。
助手席の男はダッシュボードの上に足を投げ出し、手には双眼鏡を持っている。
そして、ターゲットが近づいてくると気づかれないように頭を低くし、眼に双眼鏡をあてた。
運転席の男は、掛けていたサングラスを外すと、助手席側に身を乗り出してターゲットをまじまじと見た。
「重てーよ、つーかバレるだろ」
「だって。よく見えない」
助手席の男は運転席側の男を片手で押し戻すと、手に持っていた双眼鏡を渡した。
「それだと、そこからでも見えるだろ?」
助手席の男は、ターゲットから視線を外さないまま、ぶっきらぼうに言った。
「優しいのね……ヒカルちゃん!」
運転席の男は、助手席の男に抱きついた。
「は、離せよ!広海!気持ち悪りぃ!」
「ヒカルちゃん大好き」
「だから、離せって!結菜にばれたら……」
ヒカルが車の外に目を向けると、ランドセルを背負った小学生の集団が窓に張り付いて、中の様子を可笑しそうに眺めていた。
ヒカルと目が合うと、わぁ〜と一斉に小さな影が後方に散っていった。
「……やっぱり、返せ」
ヒカルはそう言うと広海の手の中から双眼鏡を奪った。
「やだぁ〜ヒカルちゃん、酷い」
酷いのはどっちだと言わんばかりに、ヒカルは広海を睨んだ。
***
神楠学園の入学式―――
ここ、神楠学園は、一学年12クラスというマンモス校。入学式の来場者は、新一年生とその保護者、そして先生方に来賓者が数人で、2,3年生は休校となる。
学園長の長く退屈な話の途中、遅れて保護者が二人入ってきた。それは、広海とヒカル……一番後ろの席へ静かに座った。
結菜は広海とヒカル、特にヒカルにはしつこいほど入学式には来るなと言っていた。
それは勿論、生徒達に見つかれば大騒ぎになるから。
だから二人は、入学式が始まるまで待って、そして誰にも気づかれないように席に着いた。
−何処にいるか、さっぱりわからん。
ヒカルは、何列にも並ぶ生徒達の後ろ姿を眺めながら、溜息をついた。
−結菜が高校生か……
初めて会ったのは、結菜が3歳の時だった。
あれから、12年。あんなに小さくて、泣き虫だった結菜が……
ヒカルは胸の奥に熱いものを感じた。
あの日のことは、心の中にこびり付いて落ちない染みのよう残っている。忘れたくても、その染みがある限り、忘れられない。
あれは、暑い夏の日だった……
「おかあさん、どこへいくの?」
4歳のヒカルは、小さな手で母親の手をしっかりと握り、これから何処へ行くのかワクワクしながら母親に尋ねた。その瞳は、嬉しさが溢れんばかりに輝いていた。
母親は、それに答えるように、白い日傘の下から優しい笑顔を返した。
「ヒカル。これから、大事な人に会いに行くから、いい子にしててね」
「うん!わかった」
ヒカルは嬉しそうに微笑んだ。
いつも忙しくて側にいない母親が、こうして手を繋いで自分に話しかけてくれる……
それだけで、充分だった。
暫く歩くと大きな門構えの家にたどり着いた。
「ここ?」
ヒカルは、足を止め、ハンカチで汗を拭っている母親を見上げた。
大きな門が開く。ギシギシと木の擦れる音が重々しい。
握っていた母親の手に力が入ったのが分かった。
広い応接間に通されると、そこには20代前半の男の人と女の人、そして少し白髪交じりの男の人が、ヒカルたち親子を待ち構えていた。
「君がヒカルくんだね。はじめまして」
まだ若い20代前半であろう男はヒカルに目線を会わせると、優しそうに微笑んだ。続いて女の人も側にやってくる。
ヒカルはどうしたらよいのか分からず母親の方を見た。
笑顔で頷く母親を確認すると、安心して挨拶を返した。
「ヒカルくんは、お利口さんだね」
そう言って男の人はヒカルの頭を撫でた。
−『いい子に……』
ヒカルは、母親に言われたことを思い出し、得意そうな笑顔を母親に向けた。
しかし、喜んでいるとばかり思っていた母親の眼からは幾つもの涙が流れていた。
「おかあさん…………」
−ぼくが何かいけないことをしたんだ!
「おかあさん、ごめんなさい。ぼく…………」
「ヒカルっ、謝らなければいけないのは、お母さんなの」
母親は手に持っていたハンカチを眼に当て、涙を拭おうとするが、後から後から流れ出る涙には追いつかない。
「ヒカルくん」
自分の母親がなぜ泣いているのか分からず、呆然としているヒカルに、先程までどっしりとソファーに座っていた白髪交じりの男の人が語りかけた。
「ヒカルくん。今日から君のお父さんとお母さんは、ここにいる人達だ」
「お父さん!もっと言い方というものが……」
「なに、遠回しに言ったところで事態は変わらんよ。時間の無駄だ」
−オトウサントオカアサンハコノヒトタチ……
−どういうこと……?
「ヒカル、ごめんね……本当にごめん……」
母親の声は震えていた。
4歳のヒカルは理解しようと必死だった。
すべては、母親のために。また、笑顔に戻ってもらいたい。そのために……
「元気でね……ヒカルっ」
母親は泣き崩れるように、ヒカルの小さい身体を包み込んだ。
「お……かあ……さん」
絞り出すようにやっと出た言葉。
どうして、おかあさんはぼくに謝るの?どうして、おかあさんは泣いてるの?どうして?ぼくの『おかあさん』は、おかあさんだよね?
どうして?どうして?どうして?……おかあさん。どうしてなの……?
ヒカルの瞳からもいつの間にか涙が溢れていた。
どうして?の中に辿り着いた答えは、幼いヒカルには残酷なものだった。
−嗚呼、そっか。ぼくはおかあさんに捨てられるんだ……
ヒカルは、母親の暖かい腕の中でそう思った。