惑わす心
鼻を擽る服に染み付いた煙の臭い。遠くで聞こえるセミの鳴き声……
結菜を抱きしめている省吾の腕に更に力が入った。
「しょ、省吾……先輩……?」
自分たちの周りだけ時間がゆっくりと進んでいる気がした。
どれくらいそうしていただろう。少しずつ省吾の力が緩められると、また肩を掴まれ身体が離された。
俯いていた結菜は、動く気配のない省吾を見上げた。
自分を見る省吾の潤んだ瞳に恍惚しそうになり目を背けようとするが、その瞳から目が離せない。
まるで結菜を試すように徐々に迫ってくる省吾の顔を、他人事のように見つめていた。
こうしてじっくりと見る省吾の顔は非の打ち所がないほど整っている。
そして、その汚れを知らないような綺麗な瞳で見つめられると、まるで頭の中を見透かされているようで恥ずかしくなってしまう。
「ゆい……な……」
自分の肩にある省吾の手が小刻みに震えていた。
省吾とならきっと笑顔でいられる。こんなにも自分のことを想ってくれるこの人となら……
このまま気持ちを受け止めてもいいかもしれない……
そう思いかけた時だった。
「上条――っ」
身体が動くのが先か、蓮の叫び声が先か分からないけれど、さっきまで岩のように固まっていたとは思えないほど身体が軽快に動いた。
一度身を退き、肩に置かれた省吾の右腕を取ると、結菜は自分の身体を省吾の懐に滑り込ませた。そして、無防備な省吾の身体がぐるりと回転し、あっという間に床に叩き付けられていた。
微妙な空気が二人の間に流れた。
−あ……
「ご、ごめんなさい!あの……せ、先輩?大丈夫?」
自分に何が起こったのか理解出来ない省吾は、空を見たまま視点が定まらずにいた。
「いてててて」
「まさか省吾を投げ飛ばすとはな」
痛がる省吾の腰に湿布を貼りながら蓮は溜息混じりに呟いた。
「は、反省しています」
結菜は省吾が横になっているソファーとは反対側のソファーに座り、抱えていたクッションで顔を隠した。
「兄貴。これで分かっただろ。結菜ちゃんは脈なしだよ」
「あたしもそう思うぞ」
純平と綾は省吾に諦めるよう説得を始めた。
「でもさ。夕日がこう逆光になってて。二人が抱き合ってるところなんかはドラマを観てるみたいだった」
「…………」
結菜の右隣のスプリングが沈みアッキーが座ったのが分かった。
「そうそう。二人が見つめ合ってキスをするシーンなんかはホントにキレイだった……」
「…………」
今度は左隣にマユが座った。
「なのに……どうして邪魔をするかな。雨宮蓮」
「ねえ。ちょっと、もしかして……二人とも見てたの?」
結菜は持っていたクッションを膝の上に置くと、両隣にいる二人を交互に見た。
「二人ともっていうか、みんなというか……」
「…………」
−え、え、え―――っ!?
みんなって……っ。いやだ。考えたくもない。
あの場面を見られていた!?恥ずかしい。恥ずかしすぎるよ。
それに、キ、キスなんてしていない!
「勿体ないよね。塚原省吾を振るなんて」
「そうね。マユだったら速攻OKだよね」
「あ、あのね。べっ別に振ってなんか……」
「アッキー聞いた?この期に及んでまだそんなことを言うか」
省吾を投げ飛ばしたのは事実なわけで……
結菜はもうその場で小さくなるしかなかった。
「僕が焦ってあんなことしたから……結菜ちゃん。僕は大丈夫だからそんな顔しないで。僕の方こそごめんね」
「先輩……」
優しく微笑んでくれる省吾に申し訳ない気持ちで一杯だった。
「甘いわね!大体。雨宮蓮がユイに声を掛けなかったら、今頃二人はうまくいってたかもしれないんじゃない?どうしてあの時に声を出したの?ねえ!これは絶対に答えてもらうから」
マユは自分のことのように真剣な眼差しで蓮に詰め寄った。
「あ?どうしてお前に答えなくちゃいけない?」
蓮の目つきが変わった。
あ、ちょっとやばいかもしれない……
最近はあまり見なくなったその顔つきは、誰もが圧倒されるほどに恐怖を感じた。
マユも身の危険を感じたのか先程までの勢いはすぐになくなってしまった。
部屋の空気が重く、誰もが何も言えない。
マユも蓮も口を噤み黙り込んでいる。
自分のせいで楽しいはずの休日を台無しにしてしまった。
ここは何か言ってこの空気を変えないと。と思い言葉を選んでいた。
「あの……それって。ユイのことが好きだから?」
まるで、この重苦しい空気を更に重くするようなことをアッキーはさらりと言った。
「は?」
蓮の眉間にしわが濃く入っている。
−蓮くんが私のことを好き?
そんなわけはない。嫌いであっても好きなわけはない。
怒るのも当然だ。
「やだな。蓮くんが私を?そんなことあるはずないよ。だって、蓮くんには彼女だっているだろうし……ねえ?」
そうだと賛同してもらおうと蓮に話しを振った。
「いや。今彼女はいない」
−いないの?
「そうなの?そう……でも私は蓮くんのタイプじゃないから問題外よ」
「ああ。確かに蓮は年上が好みだもんな」
純平が結菜を後押しする。
「誰が年上好きだって?別に好きで付き合ってたわけじゃねえよ」
「…………」
もう。誰のためにフォローをしていると思っているのよ……
「それは、ユイを好きだって言ってるの?」
また逆戻りじゃない!
「あのね。それは絶対にないって!それに、蓮くんには既に決められた人がいるらしいし」
「「「「「えっ!?」」」」」
「お前なあ……」
それからは、重苦しい空気だったのが嘘のように、蓮に対しての質問攻めが続いた。
「だから、決められた人はいるけど、雨宮蓮は結婚する気はないと……そういうことよね。
だったら何も問題ないじゃない」
マユは話しの内容を要約し、そしてご丁寧にもまた振り出しへと戻してしまった。
「言っておくけど、私が、その……省吾先輩を投げ飛ばしたのは、蓮くんに声を掛けられたからじゃなくて、その前に身体が勝手に動いたからで……」
「ユイは黙ってて!今はそんなことはどうでもいいの。その投げ飛ばされた塚原省吾のためにもこういうことははっきりとさせたほうがいいのよ」
こうなったら後へは引けないと、マユは懲りもせず蓮を見据えた。
蓮はしょうがないと言ったように息を深く吐き、口を開いた。
「別になんとも思ってねえよ」
『なんとも思ってねえよ』
蓮の感情のない無機質な言葉が何度も頭の中で連呼する。
その度に、結菜の全部が掻き乱されるように苦しくなる。
締め付けられた胸が苦しい。そんな感情が湧き出てきたことにも自分自身が一番驚いていた。蓮のたった一言で自分に歯止めが効かないほどの悲しみが溢れてくる。
「ちょ…と…ごめ……」
結菜は混乱する自分の心を静めようとみんなから離れ、部屋の奥にあるパウダールームに入りドアを閉めた。
洗面室とバスルームが一緒になった普通の部屋ほどある広い空間に独り身を沈めた。
ひんやりと冷たい床に温かい涙がぽたりぽたりと落ちていく。
ああ。自分は泣いているんだ。と床に落ちた雫を見てやっと悟った。