変化
結菜は後ろを振り返った。
教室中のみんなの視線も結菜と同じ人物を見ていた。
それは、隣にいた蓮も、後ろにいた綾も、その隣の純平も……
その人が歩いて結菜に近づく度に、目の動きがその人を追っていた。
くるりとカールした睫毛に大きな瞳。肉厚のぽたっとした唇は女から見ても魅力的。きれいにアイロンで巻いてある長い髪は歩く度にふわりと揺れ女らしさを強調するようだった。
どこをどう見ても可愛くて『男の人が好きそうな女の子』がそこにはいた。
−あ、浅野……愛美?どうしてここへ?
「何の用だ」
始めに言葉を発したのは意外にも純平だった。
結菜が席を立つと、隣に座っていた蓮が結菜の前に割って入り、視界を遮った。
「浅野…愛美…何をしに来た?」
今度は蓮が愛美に向かって言葉を発した。結菜は前方を見ようと蓮の横から身体を傾けると、その先にいる愛美と目が合った。愛美は綺麗な顔で結菜ににこりと意味深に微笑むと、その魅力的な唇が動いた。
「ちょっと上条さんとお話が」
「だめだ」
結菜の前に立ち塞がっている蓮が答えた。
「蓮くん。どいて。浅野さんは私に用があるんでしょ?」
「それなら、ここで話せばいい」
蓮は冷たくそう言い放つと結菜の前から退き二人を対面させた。
「想像以上に手強いわね」
愛美は手を口にあて、クスクスと余裕の笑みを浮かべている。
「あの……やっぱり出ましょうか?」
結菜が愛美に言うと
「だめだ」
と蓮が制する。
二人きりにならないように配慮してくれているのは分かっているつもりだ。
でも、これでは話しなんて出来やしない。
結菜は蓮に向かって溜息をついた。
「いいわよ。ここで」
ここで?みんながこんなに注目をしている中で、愛美はいったい何を言うつもりなのか。
教室中の生徒たちが固唾を呑んで見守っていた。
「で?話しってなんだ。今度は何を企んでいる」
また蓮が愛美に向かって攻撃的な態度で臨む。
「私に話しがあるんでしょ?なんで蓮くんが言ってんのよ」
「お前の変わりに聞いてやってるんだろ?ありがたく思え」
「は?何その言い方。むかつく」
「『むかつく』だと?どの口が言ってる」
「どの口って。この口よ!」
「ちょっとたんま。それじゃ一向に話しが進まないよ」
純平が二人の言い合いの中へ割って入った。
愛美を見ると、またクスクスと上品そうに笑っていた。
「あなた達って面白いわね。省吾がここに来たがるのも分かるわ」
「あの。話しって、省吾先輩のこと?」
「ええ。私……」
結菜に、みんなに緊張が走った。
屋外からの生暖かい風が窓から結菜たちの間をすり抜けていく。
「私、省吾から離れようと思うの」
「えっ?」
「だって、今が一番良いときなのよ。省吾一人に絞るのも……ねえ。
この私が勿体ないと思わない?」
離れるって……先輩から?そうよね。
愛美の顔はこの前とは違い穏やかな表情をしていた。
それだけ言いたかっただけだから。と驚愕する結菜たちを置き去り、愛美はすぐに教室から出て行ってしまった。
「浅野さん!」
結菜は愛美の後を追った。廊下に出てC棟に向かって歩いている愛美に声を掛けた。
「上条さん……」
「どうして……浅野さんはそれで良かったの?」
私は何を言っているんだと自分を諭した。省吾にとっても愛美にとっても良かったに決まっているのに……
目の前にいる愛美も驚いた顔をしていた。見開いて更に大きくなった目が徐々に戻ると、口端を上げてにこりと笑った。
「私はね。省吾を愛する気持ちは今でも誰にも負けないって思ってるの。勿論あなたにもね。でも、私は省吾のことを大切には出来なかった。あなたと話しをして分かったの」
「…………」
「今まで私の周りで『それは違うよ』って言ってくれる人はいなかったの。両親ですら私が自殺未遂をしてからは腫れ物を触るように接してきたわ。
だからね。あなたにガツンと言われて目が覚めたっていうか……」
−浅野さん……
「省吾にはもう言ってあるからお昼休みには来るんじゃないかしら」
「あ……あの」
「省吾のね……」
「え?」
「良く言えば優しいところ。悪く言えば気が弱いところ。そんな省吾が好きだったの……でも、上条さんたちの前で笑う省吾を見たときはショックだった。私の前ではあんな顔で笑ったことなんてないもの……」
愛美は結菜に素直な本当の気持ちを話してくれている。
言わないと、今言わなければきっと後悔する。
「浅野さん。私ね。省吾先輩が好きだって言ったのは」
「分かってるわよ。私だってそんなにバカじゃないもの」
愛美は微笑むとじゃあねと言って結菜に背を向けて歩き出した。
そしてもう一度振り返り
「そのヘアスタイル似合ってるわ」
と極上の笑顔を残して去っていった。
「良かったな。これで一件落着だ」
教室の入り口に腕を組んで凭れている蓮の姿があった。横からはひょっこりと綾が顔を覗かせた。綾の後ろには純平が見える。
「あ……うん」
−本当に良かった。
これでもう省吾先輩も浅野さんも自由になれる。
「兄貴の奴。昼休みに来ると思うか?」
「え?来るんじゃない?今、浅野愛美だって言ってたじゃん」
「さすがにすぐには来ないんじゃないか?」
「そうか?あたしは来ると思うぞ?」
純平と綾が言い合っている。
「結菜はどう思う?」
綾に突然話しを振られみんなの視線が結菜に集まった。
「私は……」
私に『会いに来ないで』と言った手前、やっぱりすぐには来られないんじゃないかと思う。
でも、来てほしいと言うのが本音……
「私は、省吾先輩に来てほしい……かな」
「『来てほしい』か。結菜ちゃんらしいよ」
授業開始のベルが鳴り教室に入った。
お昼休みまであと二時限―――
「お腹空いたーっ」
退屈だった授業も終わり、やっとお昼休みになった。
「省吾さん来ないな」
綾はお弁当を食べながらドアの方を見た。
結菜もさっきからちらちらと綾と同じ方向を何度も見ていた。
−やっぱり。来ないのかな……
そう思い、牛肉の野菜巻きを箸で掴んだ。
「これ、ひとつもらいっ」
蓮の手が伸びてきて、お弁当箱の玉子焼きを掴むと自分の口に放り込んだ。
「あっ。私の玉子焼き!」
「ボーッとしてるから取られるんだよ」
「ちょ。返しなさいよ!」
今度は蓮のお弁当を狙うが、ひょいっと持ち上げられて手が届かない。
「上条はチビだな」
「あんたがでかいのよ!」
蓮との子供のやり取りが続き、またかと綾と純平は呆れて見ていた。
「あ……結菜ちゃん。あそこ」
純平が何かに気づき、目で合図をしながら声をひそめて言った。
半分喧嘩になりかけていた結菜と蓮も同じようにその視線を辿った。
視線の先には、教室の出入り口付近で入りづらそうに立っている省吾がいた。
「省吾先輩!」
結菜が省吾に近づくと、省吾は頭に手をやり面目なさそうな顔をしてみせた。
「結菜ちゃん……」
「先輩。もうお弁当食べたの?まだだったら一緒に食べよう」
省吾の手にはお弁当袋がぶら下がっていた。
それを確認すると急におかしくなって、ほら入ってと笑いながら結菜は省吾の後ろに回って背中を押した。
「でも……僕結菜ちゃんにあんなこと言ったし……」
「え?なんか言ったっけ?私、全然覚えてないよ」
ほらほらと省吾を純平達のいる窓際まで押して行った。
「……兄貴。来たのかよ」
純平はそう言うと残念そうな顔をして項垂れた。
「やっぱり来ない方が良かった……よね?」
省吾が後ろを振り向くと、その目は垂れ下がり既に泣きそうになっている。
「ちょっと純平くん!」
−なんてことを言うのよ!
「ああ。来ない方が良かったな」
蓮までがそんなことを言った。
−ちょっと?どうなってるの……
五人の間に重たい空気が流れた。
「やったね。あたしの一人勝ち!」
綾が笑顔で指をパチンと鳴らすと、純平と蓮がまた大きく項垂れた。
そして、二人は綾に鞄の中から取りだした財布から千円ずつ渡している。
「…………」
「あなたたち。いつの間に賭なんて……」
「兄貴が来るから負けちゃったじゃないか」
今月は赤字だと純平は財布を覗き込んでいる。
「お金じゃなくて。負けたことが悔しい」
蓮は髪を掻き上げながら悔しそうに目を固く閉じている。
「結菜。美味しい物でも食べに行こうね」
綾はニッと笑って千円札を二枚ヒラヒラと団扇代わりに扇いでいる。
「…………」
結菜は省吾の前に立つと、にこりと強引に笑顔を作って椅子を引いた。
「先輩!な〜んにも気にせず、お弁当を食べましょう」
「ねえ。結菜ちゃん。賭って?」
「さあ。食べましょう」
きょとんとしている省吾を無理矢理椅子に座らせ、手に持っていたお弁当袋を奪うと机の上に置いた。
「早く食べないとお昼休みが終わっちゃうよ」
このままずっとこういう関係が続けばいいのに……
その時、結菜の鞄の中で携帯電話が鳴っていることに誰も気づかずにいた。