動き始めた心
「……覚えているのか?」
「何を?」
あ……眠っている時にでも自分が何かしたのかもしれない。歯ぎしり?いびき?それとも寝言?
「いや……なんでもない」
歯切れの悪い言いようをして、今度は蓮が視線を逸らした。
−絶対に何かある。
「もしかして、私寝言とか言った?」
恐る恐る聞いてみる。
「寝言?……そう言えば、『省吾先輩。省吾先輩』ってうるさ。いてっ」
にやけて言う蓮に結菜は制裁を加えた。
「ウソ言わないでよ。絶対にそんなこと言ってないっ」
「お。やっといつもの調子が出てきたか」
ニッと笑ってシチューを口に運ぶ蓮を結菜は訝しげに見ていた。
何か分からないけど、心のどこかに引っかかるものがある……なんだろう?何かとても大切なことだったような……
「んで、何が気まずいんだ?」
口角を上げながら、ちらりとこっちを見た蓮と目が合った。
その瞬間心臓の鼓動が大きくなった。
ドクドク。ドクドク。
身体のどこかがおかしくなったんじゃないかと心配するほどに……
結菜はバクバクと鳴っている胸に手を当て落ち着くよう深く息を吸い込んだ。
−これはいったいなんだろう?
「あ…いや。その…あの男の人に言ったこととか……ここで寝ちゃったこととか」
「なんだそんなこと?」
蓮はまた笑っている。
蓮にとっては自分の部屋で誰が寝ていようが、私が何を言おうがどうでもいいことなのかもしれない。
そう思うと今度は気持ちが一気に沈んでいった。
−私、なにかおかしい……
「進藤のことだけど……」
「進藤?」
「上条がヤクザと間違えた男」
あのスキンヘッドの男。その人と話をすると言って私はここで待っていたんだ。
「その人と何を話したの?」
「それがさ。進藤の奴、お前がこの前会った『上条結菜』だって全く気づいてなくて」
「え?」
やっぱり、おかしいと思った。
「俺もあの時は一瞬誰か分かんなかった。髪も違うし。化粧もしてたしな。あ。言い忘れてたけど、それ似合ってる」
優しそうに目を細めて笑う蓮に、結菜の心拍がまた早くなった。
「そ、それはどうも……」
明らかに顔が赤い。と思う。
「上条が寝てる間に、俺も髪切ったんだけどな」
「え?ホント?分かんないよ」
『寝ている間』は余計だが、言われてみれば少し短くなったような気がする。でも本当に分からないぐらいだった。
そうか?と蓮は自分の髪を指で摘むと残念そうに言った。
「あ。髪が顔に付いてるよ」
カットした後の髪が蓮の頬に落ちていた。
「どこ?」
そう言って蓮は顔を払うけど、違うところばかり触っている。
「違うってば。ここだよ」
結菜が蓮の頬にある髪を指で払うと、至近距離で視線が重なった。その距離片腕分……
あ…れ?この感じ。前にもどこかであったような……?
体育館の倉庫で蓮と隠れていた時だっただろうか。違う。もっと最近のような気がする……でも思い出せない。
「なに見とれてんだよ」
結菜はハッとして手と視線を蓮から離した。
「み、見とれてるわけないでしょ。それより、その進藤って人と何を話したの?」
「あぁ。話しね。それが、どうもおかしいんだ。何がおかしいかって今は説明できないけど……」
「はあ?なにそれ」
「……俺、会ってみようと思うんだ。その政略結婚の相手と」
今なんて言った?
会う?会うって言った?あんなに嫌がっていたのに?
「どうせ、写真でも見たんでしょ?美人だったから会う……とか?」
「いや。顔も名前も知らない。どういう奴かも教えてくれなかった」
「だったらどうして?」
「勘……かな。何かあるっていう」
それだけで会う気になったの……?
「そう……」
「今すぐじゃないと思うんだけど」
蓮が結婚するかもしれない相手……
嫌だ。会ってほしくない。
そんなことを言ったところで、きっと何も変わらない。
今度は胸の奥がちくちくする。
やっぱり今日の私はなんか変だ……
「せっかく私が頑張ったのにね」
わざと嫌みっぽく言ってやる。
「おお。わりいな。ご苦労」
きっとこんな関係がいいのかもしれない。仲の良いクラスメイト。気軽に話の出来る男友達。時には真面目な話しをしたりして。
蓮とはこんな風にずっといられたらいいのに……
「私、そろそろ帰らないと」
「送っていくよ」
そう言って蓮は同じように立ち上がった。
「あ。いいよ。一人で帰るから」
「でも、こんな時間だし。ここかからの帰りに襲われたりしたら俺の夢見が悪いだろ?」
「大丈夫よ。私、男一人ぐらいだったら投げ飛ばすから」
立ち上がった結菜は、テーブルの上に置いてある食器を重ねながら話しをしていた。ふと蓮の動きが止まっていることに気づき顔を上げると、蓮は顔だけで笑っていた。
「気持ち悪いな。笑うんだったら声を出しなさいよ」
「だって、『投げ飛ばす』って上条の場合は冗談じゃないから……」
「だから?何?」
「おかしいけど、笑ったら悪いかなって思って……」
そう言うと蓮は声に出して笑った。
「『悪いかな』なんて思ってないじゃない」
こういう空気ってなんかいい。
蓮にとって私はだだの仲の良い友達で……友達と思ってくれてれば良い方か。最悪クラスメイトってところかな。それでもこうして笑っていると、なんか嬉しい。こっちまで自然と笑顔になる。
うん。やっぱりこういうのって嫌じゃない。
本当に大丈夫だからと一人で雨宮家を出た。こんなに遅く帰るのは初めてかもしれない。
昼間とは違った街の景色を眺めながら夜風にあたる。
ヒカルより私の方が遅いことなんて滅多にない。きっと心配しているんだろうな。
そう思うと家路に帰る足が自然と早く進んだ。
***
数日が過ぎたある日の朝。いつものように綾と学校の門を潜ると、偶然前を歩く省吾を見かけた。
−『もう会いに来ないで』
省吾の言葉通り、結菜はあれから省吾と会ってはいなかった。
そして、結菜が自ら髪を切った時に愛美が言った言葉……
−『やめて。分かったからやめて』
あれはどういう意味のある「分かった」だったのだろうか。ずっと考えていた。
自分はこれ以上二人の間に入らない方がいいのではないだろうか。
もしも少しでも浅野愛美が変わってくれていたら、二人できちっと話しをするのではないのかという期待もあった。
「結菜。最近省吾さん元気ないね」
省吾の哀愁が漂う後ろ姿を見ながら、綾が心配そうに言った。
「そうだね…」
もう自分には何も出来ないのかもしれない。
「あ。結菜に言ってなかったんだけどさ。あたしバイト始めたんだよね」
綾が話しを逸らすように結菜に言った。
「綾ちゃんがバイト?どこで?いつから?なんで?」
「ちょっと。質問多すぎ。んと。実は先月からコンビニで」
「先月?って五月から?五月のいつ?」
「中頃ぐらい……かな?」
今は六月の終わり……もう一ヶ月以上経っている。
「全然気づかなかった」
放心状態の結菜に綾は笑いながら言った。
「ごめん、ごめん。結菜は気づかないよ。バイトには家に帰ってから行ってたから。それに、結菜もいろいろと大変みたいだったからさ。言いにくかったっていうか」
「どこのコンビニ?」
結菜は綾からバイト先を教えてもらうと、絶対遊びに行くからと言って綾にまた笑われた。
「買い物をしに来いよ」
そう綾につっこまれながら、靴を履き替えた。
休み時間になるとさっきまでの静寂さが嘘のように途端ににぎやかになる。前の授業が学校で一番怖いと噂のある先生だったから余計にそう思うのかもしれない。その先生の時には誰もお喋りなんてしない。したらどうなるのだろう?そう思うが、誰も試した人はいないのだ。みんな結構真面目だったりする。
もう外は夏の陽気だ。日差しが熱い。真夏になればこんなものじゃないけれど、今年の梅雨は雨があまり降らず、過ごしやすい天気が続いている。
結菜は机に頬杖を付いて外の景色を眺めていた。
「上条結菜さん」
後ろから聞こえた透き通った綺麗な声。
それはまた突然で……
そして―――
また何かが起きる予感がした。