喪失
遠くで目覚まし時計の音がする。
それは意識の中でどんどんと大きな音になる。
−もう朝?
結菜は目を開けるが辺りはまだ薄暗い。うるさく鳴っている目覚まし時計を止めようと手探りで探すが一向に見付からない。
「あーもう。うるさいな」
音の鳴る物はどうやら鞄の中から聞こえてくるようだ。それが携帯電話だと分かると相手も確かめずに耳にあてた。いったい何時だと思っているのか。相手が誰であろうと文句を言ってやるつもりだった。
『結菜?今どこにいる。何かあったんじゃないだろうな?』
何処と無く慌てたヒカルの声がした。
「は?何言ってるの」
どこって、家に決まっている。ヒカルは寝ぼけているのかと目を擦りながら辺りを見回した。
『何って……兎に角、今どこにいるんだ?すぐに迎えに行くから場所を言え』
「…………」
は?うそ……ここはどこ?
所々にある間接照明がオレンジ色に部屋の中を静かに照らしていた。その照らされたところにぼんやりと見える机やベッド。それは、明らかに自分の部屋では無いことを証明していた。
『おーい。結菜!聞いてるのか?』
一度ごくりと生唾を飲みこみ、膝の上まで離された掌の中にある携帯電話を耳元まで戻すと、結菜はヒカルに悟られないように平然を装って喋った。
「友達と話ししてたらいつの間にかこんな時間になっちゃって」
って今何時?
『そうなのか?もう遅いし迎えに行こうか?』
「いいよ。そんな。ヒカルだって疲れてるでしょ。もう少ししたら帰るから。ごめんね。心配させて。私は一人で帰れるから大丈夫だよ。それに、近くまで友達が送ってくれるって言ってるし。ホント心配しないでね」
よくもまあそんな出任せがすらすらと出てきたものだ。我ながら感心する。
『そうか?……それは本当……いや。それなら、気をつけて帰れよ』
なんとか納得してくれ、やっと電話が切れた。
ホッと安堵の息が漏れる。
それよりももっと大変なことがある。ここはいったいどこだろう。
ん?待てよ……自分はソファーの上にいる。制服を着たまま。足下には誰が掛けてくれたのかタオルケットが丸まっていた。
黒色のソファーに黒色のベッドカバー。この間、綾たちと来た部屋とは違うが……この雰囲気は見覚えがある。
ここは……蓮の部屋だ。
−なぜ私は蓮くんの部屋にいるの?
しかも寝ていた?……ありえない!!
冷静になって考えよう。まず、なぜここに来た?
結菜は頭を抱えた。
あ……髪を切ってもらったんだ。
髪に手を滑らせるといつもとは違う感触がした。背中まであった髪が今は触っても手の間をすぐにすり抜けてぱらぱらと定位置に戻っていく。
短くなったなと改めて思う。
それからどうしたのだろう……
『私は蓮くんのことは本気ですから!本気で好きですから!だから、政略結婚なんてさせません!!』
そうスキンヘッドの男に叫んだのだ。
またやってしまった……
結菜は顔を手で覆うと、自分のバカさ加減に呆れた。
現れた蓮は呆然としていた。それは当然の反応だろう。
そして、蓮はそのスキンヘッドの男と二人で話しがあるからと私をここに連れてきた。
すこしの間待っていてと言って……
ここは以前来たときの部屋とは違う。あんなに広くもないし、生活感が無いこともない。
中に入り両手を広げた程の通路を通ると、右に逆L字に切り取られた壁から部屋が一望できた。
通路の壁には、壁を刳り抜いて作られた飾り棚がいくつかあり、その中にはミニチュアのスポーツカーや小物などがセンス良く飾られていた。そこから一段下りて部屋になっている。金属パイプのフレームに革のクッションをはめ込んだ一人掛けの四角いソファーはテレビに向かって置いてあり、同じ形式の二人掛けのソファーがベッドに向かって置いてあった。今自分はその二人がけのソファーにいる。
きっと蓮は、いつもはこの部屋を使っているのだろう。この部屋に入った時、ベッドの上に無造作に置いてあった脱いだままになっている制服がそう思わせた。
結菜は携帯電話を開くと時計を確認した。
20時56分……
ここへ来たのはたぶん5時頃。それから髪を切ってもらったりして6時半過ぎ。この部屋に来て二時間弱……?単純に考えてもそれだけ眠っていたことになる。
ありえない……そもそも、この眠気を誘うような座り心地の良いこのソファーがいけない。
とソファーのせいにしてみる。
結菜は溜息をついた。
ここ最近省吾のことで眠れなかったのも大きな要因の一つだ。
まあ、今、蓮がこの部屋にいないだけ良しとしよう。
結菜は頭の中の整理がつくと、蓮が戻ってくる前に帰ろうと足下にあるタオルケットを畳んだ。
蓮が戻ってくると何を言われるか分かったものではない。でも、一応お世話になったのだから、置き手紙はしていこう。そう思い鞄の中からノートとペンを取り出し薄暗い中で手紙を書いていた。
音もなくぱっと視界が開けた。
「やっと起きたのか」
ソファーの前にあるガラスのテーブルから顔が上げられない。凄く気まずい。なぜもう少し早く起きなかったのかと自分で自分を恨んだ。
「えっと……あの」
こういう場合はなんと言えばいいのか。言葉が見付からない。
「お腹空いてないか?」
蓮は何か持ってこようかと一人掛けのソファーに座った。
「え、あ、いいよ。食欲ないし……それに、すぐ帰るから」
結菜はガラステーブルの上に広げたノートやペンを鞄の中に慌ててしまった。
スキンヘッドの男に叫んだことが気まずく、そして、図々しくも蓮の部屋で眠ってしまったことが恥ずかしくて蓮の方を向けずにいた。
「帰るんだったら、その寝癖を直してからの方がいいんじゃないか?」
「寝癖?」
慌てて髪を触るとさっきは気づかなかった後ろの方が乱れていた。はねているというよりも絡み合っている。
「お前、目擦っただろ?凄い顔になってる……」
今度は顔?
結菜は自分の目の周りを触ると、手にマスカラが黒く線を引くように付いた。
髪をカットしてもらった時にメイクもしてもらっていたことを思い出す。
蓮が顔を横から覗き込んでくる気配がしたが、結菜は恥ずかしさと気まずさで顔を逸らしてしまった。
今、蓮はどんな気持ちでいるのか声からは感じ取れない。怒っているのかそれとも呆れているのか……どう思われているのか知るのが怖い。
「顔を洗ってこいよ」
蓮に言われるまま、結菜は部屋の奥にある扉のドアを開け中に入ると身体が一気に脱落した。洗面ボウルに手をつきなんとか身体を支える。鏡を見ると蓮に言われたように酷い顔をしていた。
暫く自分の顔を眺めると、
−ここで落ち込んでいても仕方が無いじゃない。
そう思い直し顔を洗った。
髪も整え、ドアの向こうにある蓮のいる部屋へと戻る。
平常心。平常心。
心の中で何度も呟きながら、ドアを開けた。
「帰る前に少し付き合え」
ガラスのテーブルに温かそうに湯気が上がっているシチューとパンが二人分置いてあった。
「え、あの……」
「さっきからそればっかりだな。食欲なくてもこれぐらいなら食べられるだろ?いいから座れ。」
蓮はクスッと笑うとソファーをぽんぽんと叩いた。
「うん。ありがと」
怒ってないのかな?
結菜はソファーに座ると、蓮の方をちらちら見ながらちぎったパンを口に放り込んだ。
「言いたいことがあるなら言え」
「え?」
思わず口の中にあるパンが違うところに入りそうになる。
「それとも……なんか怒ってる?」
結菜はつかえそうになった胸の上を叩きながら、パンをごくりと飲み込んだ。
「怒ってなんかないよ」
「じゃあなんで目を合わせようとしない?」
「それは……その……なんか気まずくて」
「あ……覚えてるのか?」
覚えている?何を?
結菜は蓮の言った意味が分からず首を傾け蓮の方に目を向けた。蓮は思ってもみなかった真剣な眼差しで結菜を見ていた。