逃避
ここは何処だろう。
結菜は濃い霧の中を彷徨っていた。
「結菜……」
振り返ると後ろには、まるで煙幕を張られたように、もくもくとした白いものが現れていた。
声はその中から聞こえる。
自分を呼ぶ優しい声……懐かしい声……
−ママ?
「結菜……」
声が反響する。
「ママ?ママなのね……」
霧状だった周りの白いものが今は綿飴のようになっていた。結菜はふわふわの白いものの間をかき分け手探りで進んでいった。
「結菜」
−パパ?
今度は同じ場所から父親の声が聞こえた。
「パパ!ママ!」
必死で進もうとするが次第に固くなっていく白いものに行く手を遮られる。
いくらもがいても邪魔をされ、結菜は前に進むことが出来なくなってしまった。
「パパ、ママどこにいるの?私はここよ!ここにいるの!」
結菜の叫び声も届いているのかどうか分からない。
お願い。顔をみせて。会いたい……パパとママに会いたいよ……
「結菜……パパたちはここで結菜のことを見守っているから」
「私も行く!パパとママのところへ行くから!」
だから、早くここまで迎えに来て……
「それは、できない。結菜、生きろ。強く生きろ」
いや!パパ、私を置いていかないで!また独りにしないで……
「結菜は独りじゃないよ。ヒカルがいる。友達がいる。結菜のことを想ってくれている人がたくさんいる。その人たちのためにも、自分のためにも、強く生きるんだよ」
パパ……
「結菜。がむしゃらに前へ進むだけが強いんじゃない。立ち止まって遠くから見守ることも時には必要だよ」
「結菜。ママもずっとあなたの傍にいるから……そんなに悲しい顔をしないで……」
「ママ!」
やだ!行かないで!もう離れるのは嫌だよ。寂しいのはいや。嫌なの……
結菜は泣きじゃくりながら前方を塞いでいる白いものを拳で何度も叩いた。風船のように弾力があるそれは、結菜を嘲笑うかのように拳を跳ね返す。
思い出してはいけない……そう思えば思うほど頭の中に映像が浮かぶ。
眠っているように横になっている冷たくなった父親と母親……
『車の事故だって聞いたけど、死んだなんて思えないぐらい二人ともきれいな顔をして……』
どこからか聞こえるその声も結菜は心の中で否定する。
−ウソだ!パパとママが死ぬはずがない。
10歳という年齢は人の死というものは理解ができた。でも、父と母の死をすんなりと受け入れることはできない。結菜は、もう二度と開かれることのないその目を、何も言わずただじっと見ていた。
「パパ!ママ!」
何度叫んでも、白い壁の中からはもう父親と母親の声は返ってはこなかった。
結菜はその場に蹲ると、小さい子がするように声をあげて泣いた。こんなにも泣いたことがないほどに……
また置いていかれた。あの時と同じように何の前触れもなく。
いつかいなくなった父親と母親が自分のところへ帰って来てくれるのではないのかと期待していた。今は何か事情があってどこか遠くにいて会いにも来られないのだと……
バカみたいにそう思って、死というものから逃げていた。現実から逃げていた。
『あなたに私の気持ちなんて分からないわよ。省吾に愛されているあなたになんて……わかる訳がないのよ』
結菜の弱った心に追い打ちを掛けるように、愛美の声が霧の中で反響した。
涙と霧でぼやける視界を見回すと、遠くから黒い影が結菜に近づいて来ていた。
誰……?
結菜に近づく影の周りの霧がすっと晴れた。
「あっ……」
そこには寂しそうに笑っている省吾が立っていた。
「省吾先輩……」
泣き腫らした顔も忘れ、今度は結菜の方から省吾に近づいた。
「もう僕に構わないで」
「浅野愛美……ね。あの人が先輩を苦しめていたんでしょ?」
もういいんだよ……
「僕は愛美を選んだんだ。君じゃない」
「違うの。先輩はもう嘘をつかなくてもいいの……」
「うそ?」
省吾の顔は今までに見たことのないような悪相に変わった。目の前にいるのはあの優しい省吾なのに、こうして対面していることが身震いするほどに怖くて恐ろしい。
「先輩……」
やっとの思い出でた声は、自分でも驚くほどか細かった。
「嘘を言っているのは君のほうだよ。僕のことを好きだと言ったり、蓮くんのことを本気だと言ったり……」
「…………」
本当だ。嘘を言っているのは私だ。こんな私は省吾先輩に何もいう資格はない。何かを言ったところですべて言い訳に聞こえてしまう。
「君は最低の人間だね」
省吾は吐き捨てるように言うと、いつの間にか隣にいた愛美の肩を抱いて霧の中へと消えていった。
「ごめんね……省吾先輩……ごめんなさい」
結菜は霧の中に消えていった省吾に何度も何度も詫びていた。
もう自分ではどうしようもないほどに、ぼろぼろになった心がぎゅっと結菜を締め付ける。
「……じょう。」
「ごめん…な…さい」
誰かに身体を揺さぶられている。
「大丈夫か?」
霧の中にあった自分の身体が、一瞬どこか違う場所にある気がした。
身体が重い。
誰だか確かめようとするのに瞼が持ち上がらない。もしかすると目は開いていて、今は暗闇にいるのかもしれない。でもそれももうどうでもいいような気にさえなっていた。
−だれ?そこにいるのは誰なの?
自分の意識に逆らって、確かめようとしているもう一人の自分がいる。
「省吾……先輩?」
「…………」
呼んでみるが返事は帰ってはこない。
先輩のわけはないか。私は嫌われて、完璧に愛想を尽かされた。余計なことをした自分がいけなかったのだ。
そう思うと涙がぽろぽろと頬に雨粒のようにこぼれた。
「上条……」
自分のものではない優しい手が涙を拭うように頬に触れている。
苦しい……誰か助けて……
父親と母親、そして省吾も自分のもとから去っていってしまった。この寂しさと苦しみを取り除いてほしい。
結菜は助けを求め、手を伸ばした。
苦しみから逃れたい。
温かくて大きな手が、結菜の心を包み込むように手を握ってくれた。
−あったかい……
その手に触れているとほっと肩の力が抜けるように安心した。
そして……自分はこの優しい手を知っている。
重かった瞼が少しずつ開く。
はっきりとしない意識と、溢れ出る涙で視界がぼやけている。
定まらない焦点でうっすらと見えたのは、心配そうに自分を見ている蓮の顔だった。
『ユイ。目を瞑って』
『今浮かんでいる人がユイの気になってる人だよ』
あの時に浮かんだ蓮の顔。
あんなことを言われたから気になっているのだろうか。
いや。違う気がする。傍にいて知らず知らずのうちに私を守ってくれていた。
いつもは怖い顔をして、無慈悲で冷酷そうに振る舞っているけれど、本当は人のことを誰よりもよく分かっている心の優しい人。
結菜はもう片方の手を伸ばし、確かめるように蓮の頬を触った。
触った感触が凄くリアルで……自分が夢の中にいるのか、現実にいるのか分からなくなる。
「上条?」
蓮の声までもがリアルで、そして今度は、はっきりと聞こえた。
「蓮…くん」
叶うことならこの手を離したくないと思った。どこにも行かないでほしい。みんな自分のまえから消えていってしまう。水や砂が手の隙間から簡単にこぼれ落ちるように、いつか自分の周りには誰もいなくなるのではないのかという不安が押し寄せてくる。
蓮は結菜を見て、困惑そうな顔をしたが、すぐに優しい顔で微笑んだ。
そして、蓮の頬にある結菜の手の上に自分の手を重ねると、そのまま結菜に顔を近づけ……
―――蓮と結菜の唇が重なった……
蓮くん……
唇に蓮の温かく柔らかい感触が夢の中とは思えないほど現実的に感じた。
結菜が目を閉じると、安堵感でいっぱいになった身体は再び深い深い夢の中へと落ちていった。