恋って?
シャリシャリと髪を切る音が心地良い。髪を触ってもらうって、なんだか気持ちが良くって眠くなる。
結菜はコンクリートの上に足を投げ出して座り、その後ろに蓮が長い足を折り曲げ胡座をかいて座り髪を切っていた。
あまりにもまばらに切っていた髪を見て、とりあえず揃えようと蓮がどこからか工作用のハサミを調達してきた。
どうなっても知らないぞと言いながら、それでも結構大胆に切っている。
「話しは大体分かったけど、なんでお前は自分の髪を切ったんだ?」
後ろにいる蓮の声がすごく近くに感じる。
「なんでって……勢い?」
「呆れた奴だな。勢いで、これだけの長さを切るか?」
見れば30センチほどの長さの髪が、屋上の黒ずんだコンクリートの上に落ちていた。背中の辺まであった髪は、今は首にチクチクとあたって少し痛がゆい。
でも、髪なんてどうでもよかった。ただあの時は、間違いを間違いだって全身で言いたかったのかもしれない。愛美の強い想いに負けないように……
「私はね。人を好きになるってこんなにドロドロとしてるものだとは思わなかった。もっと純粋できれいで、周りが羨ましくなるほど二人には幸せが溢れてて……お互いは絶えず幸せそうに笑ってるって勝手に想像してた。なのに、どうしてだろうね。一緒にいることで傷つけ合ってしまう。全然幸せじゃないなんて……」
「上条が言ってることはきれい事だ。人を好きになることはきれいなことばかりじゃないよ」
「きれい事か……そうかもね。でも、好きになることがあんなに辛くて苦しいことなら、なんか恐いな……人を好きになることが……」
自分が自分でなくなるほど人を愛したら、私はどうなるのだろうか。やっぱり、愛美のように誰かを傷つけても一緒にいたいって思うのだろうか。
結菜の髪を切っていた蓮の手が止まった。
「あいつらの場合はさ。浅野の一方的な片思いでそれを省吾に押しつけているだけだろ。あんな状況だから余計辛くて苦しいんだ。両思いの恋愛とはまた違う……」
「……うん」
「俺が言いたいのは、幸せに感じるかどうかは自分次第ってこと。片思いだろうが、両思いだろうが、相手の幸せを一番に考えることができたら、お互いが幸せになれるんじゃないか。まあそれも、きれい事かもしれないけどな」
蓮は今までそうしてきたのだろうか。相手の幸せを想い、自分も相手から想われ、幸せな時を過ごしてきたのだろうか。もしかすると、今もそんな人がいるのかもしれない……
背中が熱い。
結菜は後ろにいる蓮の気配を感じながら鼻の奥からツンとこみ上げてくるものを押し殺した。
「あのさ……やっぱり、プロに切ってもらった方が……」
蓮のらしくない自信なさげな声が結菜を覗き込むように上から聞こえた。
「別にいいよ。これで」
結菜は切り終えた髪の確認もせず、上を向いて蓮と視線を合わせた。
良かった。泣いてなくて……
そこには申し訳なさそうな顔をしている蓮が見えた。
「いや……上条が良くっても、俺が良くないっていうか……」
「そんなに酷いの?」
鏡がないから確認もできず、手で触ってみる。
「左右の長さがどうしても合わない」
蓮の言葉に結菜はブッと吹き出すと慌てて口を押さえた。後ろを振り返ると、蓮は怒りたいけど怒れないといった複雑な顔をしていた。
「蓮くんて意外と不器用……」
「してもらっといてその言い草はなんだ」
蓮は歩きながら結菜を上から見下ろすと、ムッと口の端を下げた。
結菜はそんな蓮を見るとおかしくて、肩を振るわせて笑いを堪えていた。
通ったことのある交差点を渡り。曲がったことのあるパン屋の角を通過し、そして見覚えのある白く長い塀の横をひたすら歩く。
「ねえ。ここって蓮くんちだけど……」
カチャリと簡単に開く大きな鉄製の門。その向こうにはやっぱりゴージャスな白い洋館がでんと構えている。
それがどうしたと言わんばかりの視線を向けられ、結菜は仕方なく蓮の後に付いていく。
家の中に入ると、広いエントランスホールに出迎えられ、階段を上がるものとばかり思っていたのだが、螺旋階段の横を通過し、奥へ奥へと進んだ。
蓮は時々無口になる。よく喋ったかと思えば何かを考えているように全く何も喋らなくなる。前はそれが気まずくて、居心地も悪かったけど、こういうのにもいつの間にか慣れてしまっていた。
きっとさっき笑ったことを怒っているんだと思い、然程気にならない。
そして蓮に無言のまま部屋に通される。
結菜は自分が何故ここにいるのかもよく分からず、大理石の床を眺めながら蓮の後に続いて部屋に入った。
「ぶっ……ちょっと何?」
突然止まった蓮の背中に俯いて歩いていた結菜の顔がぶつかった。
「俺、ちょっと自分の部屋に行ってくるから、いいようにしてもらえ」
え?何?と結菜は益々訳が分からず、ぶつけた顔に手をあてながら蓮を見るが、蓮はさっさっとその部屋を出て行ってしまった。
本日二度目の髪を切る音が耳元でしている。
やっぱりプロは違う。髪を切る軽快な音に、見事なシザー捌き。
あっという間にきれいに整っていく髪を見ているのは凄く気分が良い。
いつの間にこんな準備をしてくれていたのだろうか。ずっと一緒にいたけれど、蓮が電話をかけた記憶はない。
−謎だ。
でも、髪を切るならサロンへ行けばいいと思うのだが、家に呼ぶという発想にはちょっとついていけない。
カットし終わり、鏡の中の自分を見る。こんなに短くしたのは初めてかもしれない。
ショートカットだけど、トップは長めで顔に沿ったラインも女の子らしくて、いつもは前に垂らしている前髪も斜めに流している。
なんだか、自分ではないみたいだ。
「やっぱり、短い方が似合うよ」
結菜からカットクロスを外しながら、美容師の男の人が鏡越しに結菜に話しかけた。
結菜は「ありがとうございました」と慌ててお礼を言うと、営業スマイルを返してくれた。
カットを終えても蓮がなかなかここへ帰って来ないので、どうせならメイクもしようと言われ、仕上げのグロスを塗ってもらっているところだった。
「失礼します」
その声に反応して結菜は後ろを振り返った。
「あ、あなたは……」
「お嬢さんは私を知っているのですか?」
知っているもなにも、今目の前にいるのは以前蓮と公園で会った時に結菜がヤクザと勘違いしたスキンヘッドに強面のあの男だった。
−あっ
思い出した。この人が蓮を政略結婚させようとしていたことを。
−でも、私のことを覚えていない?
「あの……」
「あなたは、蓮さんの新しい彼女ですね。でも、残念ですが蓮さんには既に決められた人がいます。それでもよろしければ……」
彼女と決めつけられ、ここは否定するべきか、それとも前のように彼女の振りをするべきか……
−どうしよう……どう言えばいいの。
蓮とこの男との間でどういう話しになっているのか分からない。ここは下手に喋らない方がいいのかもしれない。
「…………」
「気分を害したのなら申し訳ありません。しかし、蓮さんとこれからもお付き合いをされるのであれば尚更お伝えしておかなければなりません」
「あの……それは何を?」
これくらい聞いても大丈夫だろう。
「遊びならいくらでもお付き合い下さい。ただし、本気にはならない方がよろしいかと」
−それはどういう意味?蓮くんとは本気の恋愛はするな……と?
「私がもし本気だと言ったら……?」
「それは困りますね。もし本気でお付き合いをされていれば、私がどんな手を使っても別れさせます」
結菜の動揺する顔を見て男は、してやったりと口の端がわずかに上がった。
彼女ではない結菜に蓮とは本気になるなと言う。実際には彼女だと思いこんでいるのだけど。それでも、いい気はしない。
遊びならいいって?
本気にはなるなって?
別れさせるって?
冗談じゃない!!
「……たしは……」
結菜の聞き取れない声に男が反応する。
「何でしょう?」
男の勝ち誇った顔がまた憎たらしい。
結菜の中の何かが弾けた。
「私は……私は蓮くんのこと本気ですから!本気で好きですから!何があってもどんなことをされても別れません!だから、政略結婚なんてさせません!!」
男を睨み付けるような強い目で結菜は男に向かって叫んだ。
興奮して頭に血が上り、顔が熱くなっている。
走ったみたいに息が荒くなっている。
い、今私は何を口走った?
売り言葉に買い言葉?ええいそんなのどうだっていい!恋愛の間に大人の事情を挟み込むな!大人の勝手で引き裂いたりくっつけたり。そんなの絶対おかしい!
「か、上条?」
蓮が入り口あたりで呆然と立っていた。
「ちょっと、蓮くんも何か言ってやって!」
やっと戻ってきた蓮に、結菜は男を指さして叫んでいた。