覚悟
涙が止まらない……
会場が明るくなると、至る所ですすり泣く声が聞こえた。
今までの自分はなんて小さい場所に閉じこもっていたのだろうか。
あれほどまでに人を純粋に信じ続け、人は人で変わるということをまざまざと見せつけられた。その為に必要なのは、どんなことがあっても曲げない信念と、それに立ち向かえる勇気。
人々に、勇気や希望そして感動を与える……
これがヒカルのいる世界―――
ヒカルが遠くに感じるなんて微塵も思わなかった。寂しいだなんてとんでもない。
ヒカルは「陸」という違う人間になっていた。それも、完璧に。
初めてテレビの中のヒカルを観た時の、危なっかしい演技とは比べものにならない。
−凄い。凄すぎる……
「結菜ちゃん……」
結菜は溢れ出る涙を拭いながら隣にいる広海を見た。右隣にはもうヒカルの気配は感じられなかった。
陸を演じたヒカルや、ユウを演じた男の人、その他の出演者が登場すると拍手や歓声が上がった。
さっきまで隣にいたのにと、さすがにこの時ばかりはこの数十メートルがとても遠くに感じた。
司会者が出演者達にいろいろと質問をしている。
「役作りで大変なことはありましたか?」という問いにヒカルが答えた。
「『陸』の生い立ちと自分が重なって見える部分もあったので……思いが入りすぎて、泣いたらいけないシーンなのに自然と涙がでて、よくNGを出してしまいました」……と。
−ヒカル……
それは、きっと素直なヒカルの気持ちだ。
ヒカルは自分の両親も含めて、二度親を無くしている。
一度目は上条家に連れてこられた日に母を無くし。そして、二度目は事故で父と母を亡くした。
私は、ヒカルがどういう思いでその悲しみを乗り越えてきたのか知らない。ヒカルは私の心配ばかりで自分のそういう気持ちを表には出さなかったから……でも、きっと私が思っている以上に悲しくて苦しい思いをしてきたのかもしれない。
そして、ヒカルへの最後の質問―――
それは陸が言った言葉……
「HIKARUさんの生きる意味はなんですか?」
「それは……家族の笑顔を守り続けることです。それが、僕の生きる意味であり、生きる理由です」
優しくて、力強いヒカルの目は真っ直ぐ結菜に向けられていた。
***
映画の中の「陸」から勇気をもらい、よし明日からもがんばるぞ。と気合いが入った。
人は人で良くも悪くもなる……
私は省吾先輩のために何が出来るのだろうか。何をしたらいいのだろうか。
改めてそんなことを考えながら、それでも時間だけが刻々と過ぎていった。
まだまだこれからと覚悟をしていたものの、拍子抜けするほどに何も起こらない平和な日々。
とりあえず様子をみようと一週間が過ぎ、姿を見せない省吾を気に掛けながら更に一週間。そして、いつの間にか制服のブレザーを着ていなくても違和感がない季節になってしまうほどの時間が経過してしまっていた。
もうすぐ梅雨に入りそうな六月のある日。教室から眺めた空はどんよりとしていて、今にも雨が降りそうな気配がしていた。
蓮はあれからよく「省吾とはどうなっている」と聞いてくるが、そんなのこっちが聞きたい。
それに、「はっきとするまでは電話をしてくるな」と言ったのは蓮なのに……
未だに連絡もないし、顔も見せないというのは、まだはっきりとしていないからという解釈もできるが、それにしても周りが静かすぎるのだ。
もやもやとしたこの気持ちも気色悪い。このもやもやを、すっきりとしたい。じっと大人しく待つのももう限界……
−よし、決めた。
結菜はHRが終わると鞄を持って一番に教室から飛び出した。
向かったのは三年生の下駄箱のある昇降口。ここで省吾が来るのを待ち伏せする。
一年生がいるのは珍しいのか、結菜の横を通り過ぎる三年生たちの視線が痛い。
10分近く待ってようやく省吾の姿が見え、結菜はホッと息を吐いた。
「結菜ちゃん……」
結菜を見付けた省吾は、驚いたように目を大きくした。
久しぶりに見た省吾は頬の辺りが少し痩せたような気がした。こっちを見て笑っているけれど、無理に笑顔を作っているような痛々しい表情。以前の省吾の印象とはまるで違う。
「久しぶり。省吾先輩」
結菜はなるべく元気な声で話しかけた。そうしないと、目の前の変わってしまった省吾の前で泣いてしまいそうだったから……
「ここにいたらだめだよ」
省吾ははっとして辺りを見回し、結菜を階段の下へ隠すように追いやった。
「先輩。私、先輩と話しがしたい。学校がだめなら他の場所で。ね?ちょっとだけ時間をつくって」
結菜は省吾の腕を掴みながら、固唾を呑んでその答えを待った。
省吾は困ったようにぎこちなく笑うと結菜が掴んでいた腕を優しく引き離した。
「だめだよ。話しなんてできない」
「どうして。なんか先輩おかしいよ。何があったの?」
省吾は寂しそうに笑うと首を振った。
「何もないよ。ただ……結菜ちゃんのことはもう好きじゃない。だから、こんなことをされたら迷惑だ。自分から言っておいて勝手だけど、これが僕の本心だから……」
「先輩……?」
「もう会いに来ないで」
そう言うと省吾は、小雨が降り出した校舎の外へと静かに去っていった。
「もっと上手に嘘ついてよ……」
結菜は遠ざかる省吾の寂しそうな背中を見つめながらそう呟いた。
「上条さん。廊下のところで男子が呼んでるよ」
それは、省吾に会いに行った次の日のお昼休みのことだった。
同じクラスの男の子が、廊下側を親指で指し、窓際に座っている結菜に叫んだ。
結菜のことを訪ねてくる人は珍しい。こうやって教室の外に呼び出されるのは初めてのことだった。純平や綾は度々呼び出されては告白というものをされているみたいだけれど……
自分にはそういう告白なんてものには縁がないと思う。唯でさえ、ややこしい私を相手に選ぶ人はそうそういない。もしかすると、以前追いかけられた男子の内の一人かもしれない。
結菜は誰だろうと警戒しながら廊下を覗いた。
そこには見たことのない大人しそうな男の子が立っていた。
「あの……」
私に何の用だろう?
結菜は男の子に近づくと、その子は二つ折りにした一枚の紙を差し出した。
「これを読んで」
「えっ」
男の子の手が震えている。
それは、恥ずかしいからとか、緊張しているからとかいうのとは少し違って見えた。
−怯えてる?
結菜は言われたまま紙を受け取ると広げて一通り目を通した。
「…………!?」
「笑顔で『ごめんなさい』って言って、その紙を返して下さい」
結菜だけ聞こえるように男の子は震える声でそう言った。
結菜は横の窓から教室の中を見た。そこには睨むようにこっちを見ている蓮の姿が見える。
そして、結菜と目が合うと蓮は席を立った。
「早く渡して」
男の子は蓮がこっちへ来ると分かると、焦ったように結菜を急かした。
−この人は私にではなくて蓮くんに怯えていたんだ。
結菜は一連のことに合点がいくと、手に持っていた紙を男の子に渡した。
「ありがとう。でも、ごめんなさい」
精一杯の笑顔を作って……
「誰だ。あれ?」
「さあ。私も知らない。でも、告られちゃった」
「はあ?変わった奴だな」
「何よその言い方」
背の高い蓮を睨むように下から見上げると、蓮は結菜から視線を逸らした。
「でも、断ったんだな……」
「……うん」
そっかと言って蓮は教室へ入っていった。
きっと大丈夫、疑ってない。
これが……これが、あの女のやり方なんだ……
−浅野愛美
誰にも気づかれず、そしてそれを結菜は誰にも言わないことを浅野愛美は知っている。
完全に見透かされている?
−まだまだ序の口よ。
マユの言葉を思い出し、結菜は覚悟を決めた。