それぞれの理由(いみ)
「ユイ〜!ホントにありがとね」
待ち合わせの喫茶店でマユは来る早々結菜に抱きついた。
今日はヒカルの主演する映画の初日で、結菜は広海に頼んでチケットをもう二枚用意してもらっていた。
「マユ。ちょっと、苦しいよ。それに、恥ずかしい」
映画館の近くにあるレトロで落ち着いた感じの喫茶店は、人もまばらで若い子も少ない。
それでも、マユの大声で数人の客がうるさそうにこちらを見ていた。
「マユ。落ち着いてよ。ユイから離れて」
アッキーはマユを自分の横に座らせると、他の客にすみませんと軽く頭を下げた。
「そんなに喜んでもらって、嬉しいよ」
「嬉しいのはあたし達の方だよ。ホントありがとね」
アッキーはそう言うとニコッと笑った。
「で、学校ではどう?あれから何かあった?」
頼んだアイスコーヒーが運ばれてきてすぐ、アッキーが口を開いた。
−きた。
待ち合わせを早い時間にしようと言われてから、聞かれるだろうと予想はしていた。
「何かあったような。なかったような……」
「あたし達に隠したって無駄よ。ユイに聞かなくたって、どこからでも情報は入ってくるんだから」
アッキーの言っていることが嘘じゃないから恐ろしい。
「分かったわよ」
結菜は観念してアッキーとマユに、この一週間の出来事を掻い摘んで話した。
「その、浅野愛美って知ってる?」
この二人なら何か知っていそうな気がする。
「知ってるも何も、有名だったよ。塚原省吾にまとわりついてる悪魔って……」
「悪魔?」
「そう。顔は可愛いんだけど。塚原省吾をどんな手を使っても自分のものにするっていう噂。その手段があくどくって」
マユはオレンジジュースをストローでかき混ぜながら結菜を見た。
「ユイがやられたことなんて、まだまだ序の口よ。ホントに気をつけた方がいいわ」
マユの言葉に自然と鳥肌が立つ。
序の口……今までの嫌がらせだって、この二人が助言した翌日から始まった。それを思えば、これはマユの脅しでないことは明確だ。
まだこれからってこと?
結菜はそれを思うと、急に気が重くなった。
「そんな暗い顔をしない。これから、我が命HIKARUの舞台挨拶でしょうが」
アッキーが発破を掛けるが結菜の気分は一向に上がらない。
「アッキー。我が命じゃなくって、我が兄なんですけど」
兄でテンションが上がる訳がない。
「ねえ。さっきから気になってるんだけど」
ここ。と言ってマユが自分の首を指さした。
結菜はマユの指さしている所を見る。
「私じゃなくて、ユイの首!」
あ……
すっかり忘れていた。首筋につけられたものを……
「それって、まさか。キスマーク?」
「違う!絶対に違う」
慌てて否定するが、きっと今、顔が真っ赤だ。
「相手は誰?塚原省吾?それとも、弟の方?」
「だから、違うってば!」
「もしかして……雨宮蓮?」
ボッとまた一気に顔が噴火する。
「雨宮蓮?まさか〜」 「「ないない」」
まるで打ち合わせでもしていたかのように、アッキーとマユが同じように顔の前で手を振った。
「大体さあ。なんでユイの周りは、イケメンだらけなのよ。ホント世の中不公平だわ」
「何言ってんのよ、マユ。あたしだって羨ましいとは思うけど、ユイは大変なことの方が多いのよ」
大変なことか……
考えなければいけないことがあるのに、全く考えが一定の場所から進まない。自分でもどうしたらいいのか分からなくなってきた。いっそ、この二人に聞いてみようか……
「あのさ。アッキーとマユは、自分が相手のことを好きかどうかって、どうしたら分かるの?」
飲み物を飲んでいた二人の動きが止まった。
「ユイって、初恋まだなんだ……」
ぼそりとアッキーが言うと、マユは嬉しそうに笑ったかと思えば、結菜の隣にささっと移動してきた。
「さては、誰か気になる人でもいるのかな?」
困った……
マユの目の奥には、明らかに怪しい光がらんらんと輝いている。
「それが、分からないから聞いてるんじゃない。ねえ?」
アッキーもそれに気づいたのか、やんわりとマユの陰謀を阻止しようと言葉を挟む。
「そんなに難しいことかな。分かった。ユイ目を瞑ってみて」
結菜は仕方なくマユに言われたまま目を閉じた。
「で、最初に誰の顔が浮かんだ?」
「…………」
「いいじゃん。教えてよ」
「…………」
どうして……どうしてあの人の顔が浮かぶの?
「その人が今ユイの気になってる人だよ」
瞼を開けると優しく微笑んでいるアッキーが、結菜の潤んだ瞳に映った。
***
映画館に来たのはいつ以来だろうか。きっともう覚えていないぐらい遠い昔……
結菜は大きくて白いスクリーンを見上げ、跳ね上がった椅子を押し戻すとその上に座った。
アッキーとマユとは席が離れている。こればかりは、無理を言って広海からチケットを貰ったのだから文句なんて言えない。
結菜は気持ちを切り替えようと大きく深呼吸をした。
兎に角、今はこれから始まる映画に集中しよう。他のことは見終わってから考えればいい。
それから、嫌と言うほど考えるから……
人がどんどん増えてくる。そして、会場の照明が暗くなった。
広海が結菜の隣へ座ったのは、映画の予告が始まってからだった。
「ねえ。隣も空いてるんだけど、誰が来るの?」
結菜の隣が一席だけ空いていた。ぽかんと空いているその場所に違和感があった。
広海は「さあ」と首を傾げると、映画のパンフレットを結菜の膝上に載せた。
見ろと言うことらしい。
結菜は広海に視線を移すが、メガネを掛けたその目は既に真っ直ぐスクリーンに向いていた。
ぱらぱらっと捲るが、手元は暗くてよく見えない。
そう言えば、自分はこの映画のタイトルも、ストーリーも知らないことに気がついた。
『生きる理由』―――?
理由と書いて意味と読む。それが映画のタイトル。
−ラブストーリーだったらどうしよう。
一抹の不安がよぎる。映画も嫌々なのに、その上、ヒカルのラブシーンなど絶対に見たくはない。
やっぱり、来なければよかった……
この期に及んでうじうじと考えていると急に周りの空気が変わった。
始まる……
そう思ったのと同時に隣に人の座る気配がした。
−えっヒカル?
帽子を深く被り、伊達メガネを掛けたヒカルがそこにいる。
「どうしてここにいるのよ」
と小声で話すが、ヒカルは「黙って観ろ」と仕草で語った。
結構ばれないものなのね。と感心しつつ、結菜はやっとスクリーンに集中した。
始まった映画は、想像していた『甘いラブストーリー』なんてとんでもなかった。まだその方が良かったのかもしれないと思えるほどの内容だった。
それは、ヒカル演じる「陸」が生活をしている施設の男の子たちから暴行を受けているシーンから始まった。
映画の内容を何も知らない結菜は最初から衝撃的な光景に唖然としていた。
−ヒカルが殴られてるっ
そう思い、隣にいるヒカルを見ては「これはお芝居よ」と現実に自分を引き戻す。
今のヒカルより、髪の短いヒカルが、同年代の男の子五人に囲まれて殴る蹴るを繰り返されていた。
演技だけど……迫力がありすぎる。
自分の手が知らない間に隣にいるヒカルの腕を掴んでいた。
次第に結菜は音と映像の世界へと引き込まれていく――
視界いっぱいに広がった映像は目で観ているのではなく脳に直接感じるような感覚。巨大なスピーカーから聞こえる音は耳ではなく身体全体で感じているような……まるで、今この場所には自分しかいない。そんな錯覚さえしてしまう。
そしてなにより驚いたのが、ヒカルがヒカルではなく、「陸」という一人の人物に思えてしまうことだった。
そして結菜は、完全に物語の中へと吸い込まれていった。
陸は父親と二人で貧しいけれど笑顔の絶えない幸せな生活をしていた。しかし、父親が病死し、身寄りのない陸は施設に行くことになる。
施設の殆どの子供達は、親や大人達、そして人間そのものに憎しみを抱いていた。
その中で、人を信じ続け、幸せそうに笑う陸は施設では浮いた存在となっていた。
けれど、一人、また一人と陸の心に賛同してくれる友達が増えてくる。
それを気に入らない施設のリーダー的存在のユウが仲間と陸に暴行を加えた。
それが冒頭のシーンへと繋がる。
陸は殴られながら、死んでしまった父親の言葉を思い出す。
「お前は人に裏切られても、決して人を裏切るな。人を信じろ」
その暴行事件後も陸は人を信じ続けた。その気持ちに打たれ、ユウの仲間達は陸のことを認め始める。
独りになってしまったユウは施設から突然いなくなってしまった。
時が過ぎ、15歳だった陸も18歳になり施設から出て働き始める。
そこで知り合った女性と付き合うようになり、陸は幸せな時間を過ごしていた。
ある日。夜の繁華街で陸はユウと再会する。
幸せそうな陸を見て、ユウはその幸せを壊してやろうと画策するが、悉く失敗に終わってしまう。
陸はユウが荒んだ生活を送り、理不尽な借金の取り立てにあっていることを知ると、自分の命も投げだして助けようとする。
そんな真っ直ぐで純粋な陸の気持ちに触れ、頑なだったユウの心は少しずつ動かされていく。
そして、陸の命が危険にさらされた時、身を挺して助けたのはユウだった。
ユウは言った。こんな自分に生きる意味なんてあったのだろうかと。
陸が答えた。ユウがいなかったら僕は死んでいた……と……
―――これからもずっと生きる意味がきっとある。
エンドロールが流れると画面の端に文字が浮かび上がる。
『人は生きる意味を持ってこの世に生まれてくる』
『意味さえ気づかない者。必死で探す者。意味などないと諦めている者』
『人生の中で自分が生きる意味を見つけ出せた者は幸福なのかもしれない』
そして暗黒の中で陸の声だけが響き渡った。
「あなたの生きる理由はなんですか?」