蓮 Side 5
「考えておいてね。約束よ……」
女は俺の弱みを握ったかのように不敵な笑みを浮かべると俺の前から去っていった。
俺にとって致命的な言葉を残して――――
何のためにこれまでやってきたのだろう。
あいつを取り戻すために死に物狂いでやってきたことは何だったのだろう……
すぐそこに見えていた光り輝くゴールが、薄暗い闇にかかる霧の中に消えていった気がした。
それは辻会長主催のパーティーに出席した時のこと……
挨拶にと辻のじいさんに近づくと、それを阻止するように俺の前に立った一人の女―――
「私のこと覚えてる?」
綺麗に纏められた長い黒髪。大きくて少しきつそうな瞳が、オレンジ色に光る唇が弧を描くと同時に細まった。
俺は女を無視すると横を通り過ぎようとした。
「素っ気ないのね」
余裕な笑みを向けると、女は再び俺の前に立つ。
「俺に何の用がある?」
目の前の女が邪魔でしょうがない。俺はおまえじゃなく辻のじいさんに用事があるんだ。
不機嫌な顔を女に向けると、向けた相手はフフっと笑った。
「それは残念ね。私、辻会長の秘書なの。会長はあなたと話す気はないって。お帰りになってくれるかしら」
「…………」
「何も言えなくなったのかしら。それとも、自分のしたことを後悔してる?それとも……私のこと覚えてないのかしら?」
俺にしては珍しく覚えている。どこで知り合ったかも、誰だかも分からずに寝た女。
その女の後ろでは、辻のじいさんがリストに載っていた会社の重役と話している。じいさんは相変わらずの気難しい顔を崩さず、ヘラヘラとご機嫌を取っている重役の相手をしていた。
こっちには気づきもしない。
入れ替わるようにまた新たな会社の経営者が握手を交わす。
俺は女に視線を戻した。
「覚えてますよ」
ニコリと笑顔を向けると、女は一瞬戸惑った表情をした。
「あ、あなたの噂は聞いてるわ。若くしてあの雨宮グループの社長……それも、やり手なんですってね。その社長さんが辻会長の親族に手を出したとなれば会長は黙ってないわ」
「親族……」
「ええそうよ。私のお婆様は辻会長の妹ですもの」
勝ち誇ったように女の声が太くなる。
だから?
辻のじいさんが仕事にそんな私情を挟むとこの女は思っているのだろうか。
ばかばかしい。
「会長の息子夫婦が事故で亡くなって、今一番大事にされてるのはこの私。だから、あなたとのことを話せば、あなたの会社との契約もなくなるわ」
「俺のこと脅してるのか?」
「そうとられても仕方ないわ。ねえ。取引しない?大事にされてる私があなたと一緒になれば、契約どころか辻の会社そのものがあなたのものになる―――悪い話じゃないでしょ?」
ばかばかし過ぎて話にならない。
しかし、この女が秘書でいる限り、辻のじいさんに近づけない。
「考えとくよ」
「そう言うと思ったわ。上条さんだったかしら。もうあの子のことは忘れられたのかしら」
「な……」
どうして知っている!?俺はきっとそんな顔をしていたのだろう。
女は口元に手を当てるとくすくすと笑みを漏らす。
「そんな顔するとは思わなかったわ。あなたって意外に純情なのね。ますます気に入ったわ。大丈夫よ。私が忘れさせてあげる……」
上目使いで俺を誘惑しようというのか。
女は余程自信があるのか顔を近づけてきた。
「やめろ」
「そんなに良かったのね。上条結菜さんだったかしら。でも、あの人って確か、他の人と結婚してるし子供だっているのに……」
「子供……」
子供と聞いて目の前が真っ暗になる。ハンマーで殴られたように頭の奥で音がした。
それは何かが崩れ落ちていく音―――
子供……
省吾との子供なのか!?
どんなに上条の周りが変わっていたとしても、必ずあいつを取り戻そうと決めていた。
結婚して子供がいることも想像できたのに、俺はそれを避けていた。
いや。考えたくもなかった……
俺は勝手に期待していたのかもしれない。
省吾との関係は嘘で、上条は今でもずっと俺のことを想ってくれているんじゃないのかって……
もしかすると、俺の帰りを待っていてくれているんじゃないのかって……
何年も離れていると自分の都合のいいようにあいつの気持ちを創って想像していた。
「まさか知らなかったの?ごめんなさいね。てっきりご存じとばかり思ってましたわ」
あいつの話になるといつものポーカーフェィスを保てない。
今俺はどんな顔をしているのか、そんなことも考える余裕も無かった。
女がもう何を言っているのかさえ聞こえない。
気品漂う人々の中。女は俺の腕に自分の腕を絡ませると囁いた。
「考えておいてね。約束よ…」
仕事?
もうどうだっていい。
これまでやってきたことはいったいなんだったんだろう……
自分の部屋に帰るでもなく俺は街を彷徨っていた。
気づくと会社の社長室にたどり着いている。
誰もいない真っ暗な社長室の椅子に座り、何時間もその場を動けない。
そうか……
結局俺には仕事しかない。
帰る場所も最初からなかったんだ。
いくらあいつのことを想ったとしても、進藤を超えたとしても、俺と上条は一緒にはなれない運命……
「ここにいたんだ」
急に明るくなった室内にケイがいた。
「何だよ。浮かない顔して。明日地球が滅亡でもすんのかよ」
滅亡か……
「それもいいかもな……」
全てがなくなればこんな思いをすることもなくなる。あいつと省吾とのことを想像して嫉妬することもなくなる。
「な~に言ってんだよ。会長にあしらわれるのはいつものことだろ?それとも何か?『ヘタレ蓮くん』の登場~じゃないだろうな」
「だったら?」
「ホントにそうなのか?……だったら笑ってやるよ。はははははっつ。ってな」
ケイはいつも楽しそうだ。時々羨ましくなる。
自分もそんな風に生きることが出来たらどんなに楽だろう。
「ケイは知ってたのか?上条が結婚してたこと」
「何だそれ?新しいギャグか?」
「…………」
「ギャグじゃなさそうだな……」
ヘラヘラ笑っていたケイから笑顔が消えていく。
やっぱりケイは知っていた。知っていて俺をけし掛け、会社を立て直そうとした……?
何のために……?
進藤にでも頼まれたか。
誰も俺の味方はいない……
「子供もいるって……それもケイは知ってたんだろっ」
「それは……」
「知ってて何が『やってやろう』だよ。平気な顔して何年も俺を騙してた、なんてな」
それを見破れなかった自分が情けなさ過ぎて笑いが出てくる。
ケイだけは上条のことも俺のことも分かってくれるんじゃないのかって思ってたのに……
「蓮。オレはただ……」
「もういい。俺はもう何にも希望を持たない。社長も辞める。これ以上、進藤の思うようには動かない。ケイ……お前の思うようにも、な」
ケイだけは違うと思っていた。
傍にいて鬱陶しいこともあったけど、いつも俺のことを弟のように思ってくれていると、そう感じていたのに。
もう。誰も信じられない……