蓮 Side 1
つっ――――
割れるような頭の痛みで目が覚めた。
連日の暴酒が祟ってか、二日酔いが酷い……
時計の針は二つともてっぺんを示し、開け放たれているカーテンからは昇りきった太陽が、自分への嫌味のように爽やかな光を降り注いでいた。
見覚えのある家具の配置に、自分が今滞在しているホテルだと認識する。
重い身体を持ち上げてベッドから起きあがると、隣で眠る知らない女が寝返りをうった。
長い黒髪が肩からシーツにかけて伸びている。
黒髪……アジア系か?
俺はそんなことを思いながら、床に脱ぎ捨てられている服にも構わず、シャワーを浴びるためにバスルームに入っていった。
何日もこんな生活を続けている。
記憶が無くなるまで飲んで飲んで、気が付くとこうしてどこの誰だか分からない女が隣で寝ているなど珍しくない。
忘れることが出来るのなら忘れたい……何もかも……
蛇口を回すと熱いお湯がベタついた身体を綺麗に洗い流してくれる。
こんな風に、全てをこの排水溝の中に流し込められればいいのに……
こんな一瞬だけの記憶喪失ではなく、全てのことを忘れ去りたかった。
頭の中にいつもある。あの忌々しい映像が……
空港にいる俺は抱きしめた上条の甘い香りを離したくなくて、このまま誰も知らないところへ連れ去ろうかと考えていた。自分を押し殺し、進藤の言う通りにすることは、俺らしくもない。
俺と一緒に来るか?
そう言えばあいつはきっと首を横に振る。
そして泣きながら言うんだ。
私は蓮くんとは一緒にいられない―――
濁りきった俺のとは違う澄んだ瞳を潤ませながらきっとそう言う。
泣かせることしか出来ない俺より、省吾の方があいつに似合ってることぐらい分かってる。
けど……
なんでだ?
どうして俺の前で省吾と―――
上条も俺も、お互いが納得して離ればなれになったんじゃないのか?
なのにどうして……
バスルームから出ると、目を覚ました女がベッドの上で煙草を吸っていた。
「昨日のこと覚えてるの?」
ありきたりなことを聞いてくる。でもそれは流暢な日本語だった。
俺は女を無視すると、バスローブを脱ぎ捨て着替えを始めた。
長い黒髪の女は、大きく少し吊り上がった眼で俺の方をじっと見ている。
「出て行けよ」
「…………いやよ」
「それじゃ、俺が出て行く」
このホテルには3日間の滞在だった。こんな事を繰り返して何になるのだろう……
「私あなたのこと知ってるわ」
「だから?」
出て行こうとする俺を引き留めようと言ったのだろうか。
くだらない。
冷たく言い放つと女は言葉を詰まらせた。俺は次の言葉を聞くことなく、ホテルの部屋を後にした。
「俺の荷物、次のホテルに移しといて」
ホテルから出るとすぐに電話をかける。
電話の相手は、俺の秘書という進藤が勝手に決めた中年のアメリカ人。
『ワカリマシタ。シンドーさんからレンラクするようにとキイテいます』
おばさん秘書のおかしな日本語が余計に苛つかせる。
留学という表向きでここまで来たけど、勉強はもちろん仕事も何もせずただふらふらするだけの毎日。
それでも進藤は何も言わない。
ただ上条と離れさせるのが目的だったのか。進藤は俺に期待もしていなければ、頼ることもない。実際頼れるだけの男でもないのだろうけど……
なんのプランもなく道沿いのカフェで珈琲を飲む。
そこで眼の青い女に声を掛けられるが、俺は英語を喋れないフリをした。
どこにいても女は鬱陶しい。
平気で男を裏切る……
俺はただあいつに笑って欲しかっただけだった。自分が離れることで少しでも本当の笑顔が取り戻せるなら、それだけで良かったのに。
出会った頃の上条はよく笑っていた。笑って怒ってまた笑って。泣くこともあったけど、またすぐに笑顔に変わった。
俺と出会わなければ、今でもきっと、あの頃に見ていた百面相のようにコロコロと変わる表情をしていたのだろう。
どうして俺はあんなに人を好きになってしまったんだろう……
自分のことはどうでもいいと思えるほど、あいつを好きになったんだろう……
異国の誰も自分のことなど知らない小さなカフェで、本を読むフリをしながら、あの頃のことを思い出していた。
教室の窓際に座っている上条の茶色いサラサラの髪が、机に広げたノートについている。下を向き、懸命にノートをとっているのかと思ったら、そのノートを隣にいる俺に向けてきた。そこに描かれていたのはたぶん俺の似顔絵。眉の間の縦の線は眉間のシワらしい。
吹き出しそうになるのを我慢して、俺は一層眉間にシワを寄せてやった。
がっかりした上条の顔。
俺を笑わせたいらしいが、そんな子供じみたことで笑ってなんかやるもんか。
俺は上条とは違う。幸せそうに笑う顔。俺にあんな笑顔は一生できないだろう……
初めて女に投げ飛ばされたあの日。俺の目の前であいつは省吾に告られた。
真っ赤になった顔。男として完璧な省吾の告白を断る女はいないだろう。
悩んでるフリをしているだけだろ?
そんなに焦らさなくても、そんなに疑わなくても、省吾はおまえを大切にしてくれるよ。お互いおこちゃま同士でお似合いだ。
でも、なんでだろう。
省吾と上条が仲良くしているのが気にくわない。
省吾のせいで、上条が暗い顔をしているのが気になってしょうがない。
なのに、あいつに日に日に増えていく身体の傷をただ黙って見ているしかなかった。
昼休みの教室で突然消えたあいつを捜す。なんでこんなこと……そう呟きながら、本当は心配で仕方なかった。二階の廊下から飛び降りてきたあいつはボロボロで、こんなことをした奴を殺してやりたいと醜い感情が沸き出てきたほど……
俺とあいつは違い過ぎる。あいつは人のために自分を犠牲にすることを何とも思わない。何も考えず思ったまま行動する。まるで、そうすることで自分の生きている意味があるかのように。
そんなあいつを放っておけなかった。
屋上で、短くバラバラの髪をした上条が最高の笑顔を俺に向けたとき、初めて芽生えた感情……
―――こいつを守ってやりたい。
自分の何もかもを投げ出してでも、上条のその笑顔を曇らせたくなかった。
付き合ってきた女達も、悪友も、全てを断ち切った。
これから自分とは全く違う上条と向き合っていきたい。省吾ではなく、他の誰かでもなく、俺のことだけを見て欲しい。
上条と一緒にいると自分が押さえきれないほど欲張りになっていく。
ただ見守っていたかっただけなのに、いつの間にか自分だけのものにしたいという独占欲が沸いてくる。
雨宮グループも関係なく俺のことを一人の男として接してくれる無邪気に笑う上条に、いつしか苦しいほどの想いが生まれていた。
そうだよな。そうやって俺はあいつを好きになった。
想ってもこっちを向いてくれるかどうかも分からない相手。
そんな女などこの世の中にいないとまで自負していた自分が恥ずかしく思える。
あいつには自尊心を悉く打ち砕かれた。
それでも、上条と一緒にいると自分が自分でいられる。
無理に大人にならなくてもいい。一人で過ごすどこまでも続く暗闇の寂しさもない。
つまらなかったモノクロの日常が、あいつの周りでは鮮やかに鮮明な色を放っていた。