目撃者
携帯電話で話をしている省吾を見ていた。
まだ心臓がバクバク言っている。
実際にキスをしたわけじゃないのに、それ以上のことをしたような感覚だった。
―――なんでだろう。
まるで高校生。いや、中学生のような胸の高鳴りを自分なりに分析してみる。
これは、つまり。空を産んでから、母親としてしか過ごしていなかったからだろう。
女という部分は見てみないふりをしてきた。だから、こういう感覚は忘れ去られていた。
うんうん。きっとそうに違いない。
分析が終わったころに省吾が話しを終え戻ってきた。
「電話。病院からだった。急患だから、これから戻らなきゃ……一緒にいたいって僕の方から言い出したのにごめんね」
申し訳なさそうに言うと結菜は「ううん」と頭を振った。
送っていくと言ってくれたけれど、少しでも早く病院に戻った方がいいと思い断った。
明日、日本を発つ。
それまでに、省吾にはもう会えないだろう。
部屋を出ると、駐車場まで肩を並べて歩いた。
「それじゃ」
家では帰りを待っている空がいる。
「結菜ちゃん」
省吾に呼び止められると、結菜は振り返った。
「ここで……三人でスタートするこの場所で、結菜ちゃんの帰りを待ってるから」
薄暗い駐車場の中、省吾の顔はよく見えなかったけれど、それは臆する声ではなかった。
「うん」
必ずここに戻ってくる。
そう決意して結菜は笑顔で答えた。
家に帰ると、パジャマ姿の空が眼を擦りながら待っていてくれた。
リビングにいた広海は何か言いたそうにこっちを見ている。
「話してきたから」
「そう……」
そんな会話だけで空を連れて自室に入った。
「ママ。今日は一緒に寝ようね」
いつもは大人ぶって自分の部屋で眠る空も、今日ばかりは甘えてくる。
「ママ、お仕事早く終わらせて帰ってくるからね」
「うん。お仕事頑張ってね。あ、そうだ。明日幼稚園お休みでしょ?ヒロくんが飛行機あるとこまで迎えに来てくれるから、ソラ、ママと一緒に行ってもいいって」
言いたいことだけ言うと、空の寝息が聞こえてきた。
省吾のことは空には話さなかった。
全ては帰国したとき―――
「忘れ物なあい?」
「大丈夫よ」
空と二人タクシーに乗り込むと、菜穂の見送りで空港に向かった。
朝早く昨日会った省吾が尋ねてきた。
昨日と同じ服に疲れた顔。朝まで病院にいたのだろう。
そして、手渡された婚約指輪が左手の薬指に嵌っている―――
「ママ。もう時間ない?」
タクシーの中。外の景色を眺めていた空が伺う。
「少しだったらあるけど、どうしたの?」
「近くだよね。あの公園に寄ってもいい?」
空と結菜は高台にある公園に寄り道した。
空はどうしてここに来たいと言ったのだろう……
空と並んでブランコに乗る。
日差しが強くなったからか、小さい子供連れの母親が我が子の手を引いたり、ベビーカーを押したりしながら、公園を後にしている姿を、ブランコを揺らしながら眺めていた。
「ママが帰って来たらソラのお誕生日でしょ?省吾くんも呼んでみんなでお誕生会しようって菜穂ちゃんが言ってた」
「楽しそうね」
「歩くんも呼んでもいい?」
「いいよ。じゃ、ママから歩ママに連絡しておくね」
空の誕生日まで10日ある。
それまでには向こうで蓮に会い、話しをすることが出来るだろう。
空の誕生日……
6年前のあの日、大きなお腹を抱えてこの場所に立っていた。
蓮と約束したこの場所で――――
7月7日。
それが娘の空の誕生日……
そして、空の父親が18歳になった日。
切迫早産で安静にと言われていたのに、あの時この場所にどうしても来たくて無理をして訪れた。
公園で遊んでいる子供達を見ながら、来るはずのない蓮を何時間も待っていた。
そして、突然襲ってきた腹部の痛み……
空が未熟児で産まれたのは母親である自分のせい……
「楽しみ~」
嬉しそうにブランコの板の上に乗った空は、小さく細い足で漕ぎ出した。
この子の望むようにしてやりたい。お誕生日会もそう。省吾を父親にということも……
「ママね。省吾くんと―――」
話しかけると携帯電話が鳴った。知らない番号が表示されている。
結菜はブランコから離れ、通話ボタンを押した。
『結菜か?』
聞き覚えのある懐かしい声。
「もしかして、ケイ?」
『おお。そう。久しぶりだな』
蓮の様子を見に行くとロスに行ったっきりで、何年も連絡すらなかった。
「今。どこにいるの?」
聞きたいことがいっぱいある。
『それが、やばいことになっちゃってるみたいでさ。結菜は今、外か?』
「うん……」
『だったら、今すぐ家に帰れ』
「あのね。それが、今から蓮くんに会いにロスに行こうと思って」
話せば長い。ケイにどういう風に伝えればいいのか。
『蓮だったら明日、日本に帰る。オレも一緒に帰るんだけどな。いいか。よく聞いてくれ。今、進藤が日本にいるみたいだ。結菜とお前の子供がヤバイ。だから』
「きゃっっっっっ!!ママっ!!」
空の叫び声に驚いて振り返ると、そこには黒スーツを着た男一人が、暴れる空を軽々と抱えていた。体格のいい男はあと4人いる。
「ソラ……!?」
『結菜っ!!どうした!?』
耳から離れた携帯電話から、ケイの叫んだような声が小さく漏れていた。
結菜は男達に向かっていく。
けれど、出した拳は軽々と避けられ、素早く切り返した蹴りも、受けた男にはまったく効いていない。
「ママっママ!!」と助けを求める空が、男に抱えられながらだんだんと自分から離れていく。
「ソラをどこに連れてく気よぉぉぉぉ!!!」
男が振りかざした腕が腹部に当たると、結菜はその場に蹲った。
息が出来ないほど痛い……でも、このまま空を連れて行かせはしない。
結菜は地面の砂を両手に掴むと、よろよろと起きあがってまた男達に向かっていった。
男が結菜の攻撃を避けるとその方向に掴んでいた砂を投げつける。砂で視界が遮られた一瞬に男の中心を力一杯蹴り上げた。
結菜の反撃に今度は黒スーツの男が蹲る。
そして、またすぐに違う男が結菜を攻撃してきた。
きりがない―――
空が連れて行かれた方を見ると、公園の入り口に止めてある黒塗りの車に空が放り込まれているところだった。
結菜はその車に向かって走った。すぐに男達が追ってくる。
「ソラぁぁぁぁぁっ――――」
車が走り出した時、黒スーツの男に腕を掴まれると行く手を阻止された。
「ソラ……ソラぁぁぁ」
涙が次々と流れ、目の前にいる男達がぼやけて見える。
「私はどうなったっていいから……お願いだから、ソラだけには何もしないで。あの子はまだ小さいのよ……お願いだからソラを連れていかないで……」
空を連れて行くのが男達の目的だったのだろう。目的を果たした男達は、攻撃態勢を解除した。
「お願い……お願いだから……」
さっきまで誕生日会の話しをして笑顔を見せてくれた空がいない。
楽しみだと言って笑っていたのに……
結菜は俯いて顔を手で覆った。
「お久しぶりです。結菜さん」
顔を上げるとそこにいたのは進藤……
男達と格闘しているときから気づいていた。これは進藤が仕掛けてきたことだと。
ううん。ケイの忠告がなくても、いつかこうなることを予測していた。
「ソラをどうするつもり!」
「怖い顔ですね。久しぶりの再会だというのに」
黒髪を全て後ろに流し綺麗にまとまった髪に高そうなスーツを纏った進藤がニヤリと笑った。
「今すぐソラを返して!」
「そういう訳にもいかないのですよ。まあお返ししないこともないのですが……」
「私の娘よ!今すぐここに連れて来なさい!!」
憎たらしい進藤と話していると頭に血が上る。
冷静さを無くしそうになる。
「おかしいですね。あなただけの娘ではないでしょ?言わなくてもお分かりかと」
「こんなことしてただじゃすまないわよ!あなた達がソラを誘拐したって目撃者だっている。警察に言ったら困るのはあなたでしょ!?」
何事かと公園の入り口に人集りが出来ていた。人々は遠巻きに見るだけで、誰も助けようとはしてくれない。
「そうですね。あまり騒ぎにならないように、あなたにも車に乗ってもらいましょうか」