久しぶりの感覚
省吾の運転する車が見知らぬマンションの地下に停車した。
外観はまだ新しそうな綺麗なマンション……
ここはどこなのか聞く暇もなく、省吾は慣れたようにマンションの一室に入っていった。
入った部屋はガランとしていて端には何個かの段ボールが重ねて置いてある。
真っ白い壁に薄色のフローリング。
ほんのりと香る木の臭いが新築だと思わせた。
「何もないけど適当に座って」
結菜は周りを見渡しながら何もない床に座った。
広いオープンキッチンが目立ったキッチンとリビングが一体化した空間。
「素敵なとこだね。あんなキッチンでお料理したら私の手料理も美味しく感じるんだろうな」
計算されたように填め込まれた大型の冷蔵庫から省吾は飲み物を取り出した。
「気に入った?」
「え?」
「僕たちが住む部屋だよ」
省吾はグラスに飲みものを注ぐと、一つを結菜に手渡した。
「住むって?」
「勝手に決めちゃってごめんね。家具とか必要な物は一緒に選ぼうね」
まだ話しの内容が分からない結菜は、床にあぐらを掻いて座った隣の省吾を不思議そうに見ていた。
「バルコニーから見る景色もいいんだよ。近くに公園もあるし。ここペット可だから、ソラちゃんが飼いたいって言えば犬でも飼おうか?」
「あの……省吾くん?ここ私とソラと住むために借りたの?」
「借りたんじゃないよ。買ったんだ。ほら、実家だと純平たちもいるし、そろそろ家を出たいと思ってたしね。丁度良かったんだ」
「買ったって……だってお金とか。こんなに広いマンションすぐに買える金額じゃないでしょ?」
急に心配になった。もしも自分が省吾のプロポーズを受け入れなかったらどうするつもりでいたのだろう。
「それは大丈夫……っていうか、小さい頃から貯めてた貯金があったから、それを頭金にして。もちろんローンも残ってるからこれから返さなきゃいけないけどね。そのお金のやりくりは結菜ちゃんに任せなきゃいけなくなるけど……」
怒られると思ったのか、後の方はもごもごと誤魔化すように口籠もらせた。
俯いて申し訳なさそうにチラリと見えた省吾の眼と合うと結菜は声を出して笑った。
「結菜ちゃん?」
「だって。省吾くんって堅実なのかと思ってたから、なんだか可笑しくって」
「け、堅実だよ」
慌てている様子に益々笑いが漏れた。
バルコニーに出ると、昼間より少しだけ気温が下がった空気に触れる。
下を見下ろすと、道路を挟んだすぐ傍には、木々に囲まれた公園の灯がオレンジ色の光をぼんやりと放っていた。
「髪伸びたね」
荷物の整理をしていた省吾も結菜のいるバルコニーに出てきた。
結菜は腰の辺りまで伸びた自分の髪を触った。
「カットしにいく時間なくてさぼってたらこんなに長くなってたよ」
長くても短くてもどっちでもいい。ヘアスタイルなんて気にしない。ヘアサロンに行く時間があるのなら、少しでも空と一緒にいたい。
「出会った頃も長かったよね。でも……僕の所為で短くなったんだ」
「あれは自分で切ったんだよ?ちょうど今ぐらいだったかな。ほら暑くなる前だったから」
「優しいんだね」
「違うよ。本当にそうだったんだよ。それに、長いのが好きって訳でもないし」
あれは屋上で愛美と対決したときのこと……
あんな昔のことを省吾は今でも気にしている。
「そっか……」
省吾はまた部屋の中に戻ろうとした。
結菜は省吾を呼び止めるように、夜の闇に包まれた景色を見ながら呟く。
「この髪の長さのぶん。省吾くんと一緒にいたんだね」
―――ソラの父親になりたいと本気で言ってくれた……
ソラが産まれたあの日。不安で一杯だった私の手をずっと握っていてくれた。
未熟児で産まれた小さなソラを不安そうな顔をして抱いた私に飛びっきりの笑顔で「おめでとう。よく頑張ったね」って言ってくれたのも省吾くんだった……
夜中にソラが熱を出しても、嫌な顔ひとつせず「大丈夫だよ」と診察してくれた。だからいつも安心できた。
挫けそうになるときにいつも温かい手を差し伸べてくれた。
ソラとの思い出の中にはいつも省吾くんがいる―――
マンションのバルコニーから見えるこの公園だって空のためにと考えて省吾がこの場所を選んでくれた。
相手の気持ちもまだわからないのに、省吾はどんな気持ちでここに一人で訪れていたのだろう……
そう思うと胸が苦しくなる。
部屋の中に入ろうとしていた省吾に後ろからふわりと抱きしめられた。
久しぶりの感覚に心臓が飛び出しそうになる。
「ありがとう……」
お礼を言いたいのはこっちの方なのに、省吾の腕の中があまりにも温かくて何も言えなくなった。
車の中でも抱きつかれたけれど、あれは犬がじゃれつくようなもの。だけど、今は違う。
背中に感じる省吾は、いつもは感じないほどに男の人を思わせる。
華奢に見えるのにTシャツから出ている腕に程よく付いている筋肉。その腕で抱きしめられている……
「良かった。諦めないで……」
首元に省吾の息がかかると、慌ただしかった鼓動が一段と暴れ出した。
あまりにも緊張しすぎてどうしたらいいのか分からず、そのまま時が過ぎていく。
「会いに……行くんだよね」
不意に囁かれた省吾の言葉に、違う意味でドキリとさせられた。
「うん……」
「そうだよね。僕が結菜ちゃんでもきっとそうしてると思うよ」
物わかりのいい省吾に自然と聞いてしまう。
「不安じゃない?」
発してしまってからしまったと思った。
省吾の身体がさらに密着する。
「不安じゃないっていえば、ウソになるけど。僕は結菜ちゃんを信じてるから大丈夫だよ」
そう言って省吾は頬を結菜の後髪に擦り寄せた。
「うん……」
大丈夫……
それは省吾が自分に言い聞かせているようで辛くなる。
不安なのは自分……
蓮に会うとどういう感情に襲われるのか想像もつかないから。
「もう少しだけ一緒にいて」
背中に感じる省吾の身体が震えていた。
このまま帰ることも出来ない。
「うん……じゃ、ソラに電話してくるよ。待ってるだろうから」
「そうだね……」
省吾の腕が緩むと部屋の方へ向きを変えられる。
心の中を見透かされそうで向かい合っても省吾の顔をまともに見られない。
「一緒にいたいっていう意味分かってる?」
「え?」
顔を上げると優しい省吾と眼が合う。
「分かってない……よね」
省吾の顔が近づいてきた瞬間、言葉の意味を理解して思わず後退りしてしまった。
「やっぱり……」
「ご、ゴメン。そういうことじゃなくって……」
プロポーズを受けたばかりだし、心構えなど出来ていなかったというか……
つい最近まで友達として接していた省吾とこういう雰囲気になることすら想像していなかったというか……
結菜は頭の中で何度も言い訳をした。
拒否してしまったことに省吾はショックを受けている。
そう思っていたのに、目の前にいる省吾はニコリと可愛らしく笑った。
「こういうこと、したことないわけじゃないから安心して」
「は……え?」
笑顔の省吾に頭の中が混乱する。
「結菜ちゃんのこと何度も諦めようと思って、違う女の子と付き合ったりしたんだ。でも僕は結菜ちゃんじゃなきゃダメなんだって思い知らされただけだった」
省吾がモテるのもよく分かる。
この容姿に性格の良さ。それに加え医者で大病院の跡取り。
アプローチしてくる女の人はこれまで沢山いたのだろう。
それにしても……
「私にわざわざ報告しなくてもいいのに」
包み隠さず正直すぎるというのも少々困る。
でも、そういうところは省吾らしい。
「え?でも、女の人ってそういうの慣れてる方がいいって」
「誰が言ったの?」
だいたい想像がつくが、敢えて聞いてみた。
省吾は言いづらそうに小さく答えた。
「マユちゃん……」
――やっぱり!
というか、マユしかいない。
結菜は、ハアと溜息を付く。
「これからいろいろと心配だよ」
「もしかして、嫌いになった!?」
「そういうんじゃなくて。とにかく、マユの言うことに惑わされないように!」
釘を刺しておかないと危なっかしくて仕方ない。
「なんとなく分かった。でも、僕のこと全部知っててほしくて。結菜ちゃんは知りたいって思わない?」
「知りたいって思うよ。でも過去のことまで無理に知ろうとは思わないかな」
探られれば痛いのは自分の方だから……
「僕は結菜ちゃんの全てが知りたいよ。産まれてから今までのことや、これからの未来。でも、一番知りたいのは今の気持ちかな」
「今の?」
「そう。どれだけ僕のことを好きなのか……とか」
そう言うと再び省吾の顔が近づいてくる。
二度目の拒否権はない。
結菜の唇に合わさるように顔を傾けた省吾の綺麗な唇がもう少しで重なりそうになった。
その時―――
開いていた二重窓の向こうで、携帯電話の着信音が鳴った。
自然と閉じていた眼を開くと、間近で同じように開いた省吾の眼と合う。
気まずい雰囲気を残して、省吾は部屋の中に戻ると、携帯電話を耳に当て話し始めた。