省吾からのプロポーズ
もしかして、あれはプロポーズ!?……
そう気づいたのは、ニューヨークに出張に行っていた広海が帰ってきた頃だった。
「広海さん。ちょっといいかな」
珍しく家にいる広海の部屋を訪れると、仕事をしていた広海は手を止めた。
「なあに?ソラちゃんのことかしら?もしかして、また幼稚園に行かないって言ってるの?」
「そうじゃないけど……あのね。分かったんだ。ソラがどうして幼稚園に行きたくないのか」
結菜は公園で空から聞いた父親の話をした。
「そう……で?結菜ちゃんはソラちゃんに父親のことを話すのかしら」
「それは……話さないけど……」
「ふうん。じゃ、ソラちゃんの望むように省吾くんにソラちゃんの父親になってもらうのかしら?」
広海は投げやりにそう言い、また資料に眼を落とした。
「そうしようかどうか……迷ってるの」
だから相談しにきたの。と言う前に、広海の絶叫が耳に突き刺さる。
思わず顔が歪み、耳に手が行く。
「あなたっ!自分が何言ってるのか分かってるの!?それってあなたと省吾くんが一緒になるってことよ!!結婚するってことよっ!!!」
広海の大きな声で耳が痛い……
相談する相手を間違えたのかも……
「そんなこと改めて言われなくったって分かってるよ」
「第一、結菜ちゃんがよくっても、省吾くんの気持ちだってあることでしょ」
「たぶん、プロポーズされた……」
「………………ええええええっ!!!!―――――」
相変わらず賑やかな人だ。
結菜は冷静に広海の絶叫が終わるまで両手で耳を塞いでいた。
少し冷静さを取り戻した広海にまた話し始める。
「広海さんは初めて聞くことだから驚くだろうけど、ずっと考えてたんだ。ソラにとってもちろん自分にとって一番良い選択なんじゃないのかって」
「選択って……」
「ソラのことも可愛がってくれるし、私のこともよく分かってくれてるのは省吾くんなんだよ。絶対に私たちのことを大切にしてくれるっていう自信がある」
「そう……結局は結菜ちゃんが決めることだから私がとやかく言えないけどね。でも、一つだけ言っておくわよ。省吾くんと一緒になるのは別に構わない。ただ。あなた、蓮くんのことはどうするの?このままでいいわけないわよ。蓮くんにちゃんと伝えなきゃいけないことがあるんじゃない?」
「…………」
そうしないと前には進めない……?
このまま、何も言わなくて済むのならそうしたい。
蓮に逢うのは怖い。何度も自分に向けてくれたあの優しい蓮の思い出だけ大切に残していたいのに……
自分のことを裏切った女がのこのこやってきて『実はあなたの子供を産みました』と言われたら不快なだけだろう。
でも、そうすることが空の為になるのなら、そうするしか進む道がないのなら……
結菜は部屋の引き出しの奥深くにしまってあった指輪を取り出した。
そしてヒカルからもらった通帳を開く。
ロスまでの往復チケットとパスポート代……
このお金には空を産むときでさえ手を付けなかったけれど、今の貯金だけではどう考えてもロスまで行けない。
結菜は指輪を光にあてて眺めた。
指輪は角度を変える度に反射して色んな色を生み出している。
指輪を蓮に返すという口実で会いに行こう。勝手な口実だけれど、他に何かがなければ会いに行く勇気もない。
結菜は事務所に向かうと無理を言って一週間の休みを取った。村井にはブツブツと小言を言われたが、最後には「一週間分の仕事を残しておくから覚悟しておきなさいよ」とぶっきら棒に言われた。
休みが明けるのが少し不安になる……
そして、肝心な空には仕事の出張ということにしておくことにした。
寂しそうな顔をした空。これまで長い期間離れたことがないのだから仕方ない……
そして、もう一つしておかなければいけないことがある。
結菜は省吾に連絡して会う約束を交わした。
蓮に会いに行く前に自分の気持ちを伝えるために―――
迎えに来てくれた省吾の車の助手席に乗った。
「仕事大丈夫だった?」
「うん。大丈夫だよ」
どことなく緊張感のある顔で省吾は答えた。
そしてすぐ後に「どこ行く?ご飯食べに行こうか?」と笑顔に変わった。
決心が揺るがないように自分の気持ちを省吾に伝えよう。
そして、蓮に会いに行く……
「あのね。この前の話しなんだけど」
「あ、あのさ。考えてみれば結菜ちゃんにきちんと言ってないと思って」
ハザードを点滅させ省吾は道路脇に車を停めた。
サイドブレーキを引くと省吾は結菜と眼を合わせる。
「省吾くん……?」
「全然ロマンティックな場所じゃないけど、でも僕らしくていいよね」
フッと微笑した省吾の綺麗すぎる表情に見とれていた……
「結菜ちゃん。僕と結婚してください」
真っ直ぐで真剣な省吾の瞳に圧倒されそうになる。
優しすぎて時々弱そうに見えてしまうこともある。でも、そこがこの人の良いところだと知っている。
目標に向かって人一倍努力するところ。
出会ったときから変わらない爽やかな笑顔。
困った顔は凄く可愛くてもっと虐めたくなる。
省吾と一緒にいる空の嬉しさが溢れ出た表情を見る度に、凍り付いた心の奥の方が少しずつ溶けていく気がした。
この人となら一緒に生きていける。
大丈夫……何もかも受け止めてくれる。
空も自分も幸せにしてくれる……
結菜は省吾の透き通った瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
「はい……」
それを省吾も望んでくれるのなら……
これが一番良い選択なら……
プロポーズの返事をした結菜を省吾はキョトンとした顔で見ている。
「省吾くん?」
車の中に居るとはいえ、すぐ脇では外の騒音が行き交っている。その所為で聞こえていなかったのかもと気づいても、もう一度言うのもなんだか照れる。
「今……『はい』って聞こえたような気がするんだけど、き、気のせいなのかな。それとも、夢とか……?」
「気のせいでも夢でもないよ」
良かった。聞こえてたんだ……と結菜は安堵して、放心状態の省吾を安心させようと笑顔を見せた。
「本当に?いや、あの。疑ってる訳じゃないんだけど、なんだか信じられなくて……本当……なんだよね?」
結菜の気持ちを確かめるように省吾はまた不安そうな顔をする。
「ホントの本当だよ。不束者ですがソラ共々宜しくお願いします」
狭い車の中で結菜は深々と頭を下げた。
その瞬間、運転席から省吾の手が伸びてきて、その両腕で苦しいくらい抱きしめられた。
「や、やった……」
ぎゅうっと更に力と省吾の体重が加わる。
「省吾……くん……」
「あ。ごめん。嬉しくてつい」
慌てて助手席に乗り込んでいた自分の身体を運転席まで戻すと、省吾はにやけた顔で運転を再開した。
「婚約祝いにデートしよ」
初デートだね。と嬉しそうに話す省吾に伝えなければいけないことがまだある。
「それが……明日から暫くソラと会えなくなるから、今日は早く帰らなくちゃいけないの」
「あ……そうなんだ。いいよ。それなら、帰ったら改めてデートだね。それより先にお互いの家族に挨拶したほうがいいかな。暫くっていつまで?仕事……だよね」
言葉の一つ一つが踊るように楽しそうに話す省吾に、徐々に言いにくくなってくる。それでも、省吾に黙って行くわけにはいかない。
「い、いや。仕事じゃないの」
「それじゃ。旅行か~いいな。仕事が落ち着いたら僕たちもソラちゃんと三人でどこか行こうよ」
「うん……でも。旅行じゃないの」
「そうなんだ」
「あのね。省吾くん……私」
目の前の信号が黄色から赤に変わった。車が静かに停車する。
つい先程まで口許が緩んでいた省吾の顔から笑みが消えていった。
「結菜ちゃん。今日はソラちゃんより僕を選んでくれない?今日だけでいいから。これから先はこんなこと二度と言わない」
「どうしてそんなこと……」
見つめた省吾の瞳の中が不安定に揺れていた。