ソラと省吾
「ママ……?」
自分を呼んで何も言わない母親を不思議がるように下から見上げている空。
結菜は冷静さを取り戻すと、空の目線と重なるように腰を落とした。
「暗くなる前に帰ろっか」
「え?もう帰るの?ソラもうちょっとここにいたいよ」
まだ遊び足りないのか、空は結菜の手をギュッと握る。
「でも。菜穂ちゃんが心配するし……」
「そっか。そうだよね。お星さま見たかったけど……」
そう言って、夕焼け色の空を見上げた。結菜もつられて頭上を見上げる。
一段と大きく見える太陽は、最後の力を振り絞るかのようにオレンジ色に入道雲を照らしていた。
「それじゃ。菜穂ちゃんに電話しておかないとね」
「うん!」
嬉しそうな空の顔。
一気に幸せな気分にさせてくれる。
空の笑顔は何もかも忘れさせてくれた。
「ママ~っ。お空見てぇ~」
滑り台のてっぺんから空の声が聞こえると、下で待ち構えていた結菜も顔を上げた。
すっかり暗くなった空にはいくつかの星が輝き始め、太陽の代わりに出てきた月が辺りを静かに照らしている。
「ママも上っておいでよ。ここの方が絶対キレイに見えるよ」
空の言うように結菜も滑り台の階段を登っていった。
「ホントだ。お空が近く感じるね」
「そうでしょ~」
暫くの間、二人は黙って星を眺めていた。
今、すごく幸せな時間を過ごしている。
そう……
この幸せを壊したくはない。
これ以上何かを求めてはいけない……
-ヒカル。私はすっごく幸せだよ。
だから、心配しないでね。
空の上で見守ってくれているヒカルにそう心の中で語りかけた。
「キラキラひかる~お空の星よ~
まばたきしては~みんなを見てる~
キラキラひかる~お空の星よ~」
静かな暗闇で空の歌声だけが聞こえる。
「このお歌。幼稚園で習ったんだ」
「上手に歌えるね」
「ねえ。ヒカルお兄ちゃんと、ソラのお歌みたいじゃない?」
「あ……ほんとだね」
暗闇の中で笑った空の顔が見えた。
高い場所から地上を見下ろしているヒカルは、瞬きをしながらみんなのことを眺めているのだろうか。
一番輝く星を見ながらヒカルのことを思い出していた。
「ねえ。ママ……ヒカルお兄ちゃんみたいにもう会えないのかな……」
「え?誰かに会えなくなるの?」
ボソリと言った空の言葉は、てっきり幼稚園の友達のことかと思っていた。
「ソラのパパに……」
一瞬間が開き、呟いた空の言葉で時が止まった。
まだ心の準備が出来ていない。でもそれはただ子供の成長に自分がついていけていないというだけ……
いつかは話さなければいけないこと。
それが少し早まっただけのこと……
そう頭では冷静に解析出来るのに、何も言葉が出てこない。
空に嘘は付きたくはない。
でも、現実には本当のことは言えない―――
「省吾くんがソラのパパなの?だってね。みんな『あんな格好いいパパいいな』って言うんだよ。だからね、ソラ、言ったんだ……『そうだよ。いいでしょ』って……」
「ソラ……」
空の気持ちが痛いほど伝わってくる。
「省吾くんにも『ソラのパパになってくれる?』って聞いたんだよ。そしたらね。ママがいいって言ったらソラのパパになってくれるって言ったんだよ。ねえ。ママは省吾くんがソラのパパじゃダメ……?」
小さな二つの手で結菜の腕を掴みながら訴えてくる。
心が張り裂けそうだった。
空は友達に嘘をついてしまったことを本当にしようとしている。
省吾が自分の父親になってほしいと思っているのも嘘ではないのだろう。
結菜は掴んでいる空の手の上に自分の手を重ねると、そのまま空を抱きしめた。
「ごめんね。ソラ……」
空に父親がいないことで寂しい思いをさせ、そして嘘まで付かせてしまった。
「ママも省吾くんのこと好きでしょ……?キライ……?」
結菜の胸の中で空は母親の答えを待っていた。
「やっぱりここに居た」
「あ。省吾くん!!」
省吾の声に空は結菜から離れると、滑り台を滑り省吾の元に走り寄った。
タイミングが良いのか悪いのか、複雑な思いで結菜も階段を下りる。
「携帯出ないから、家に電話したんだ。そしたら寄り道して帰るって言ってたって聞いたから、もしかしたらここかなって思って」
慣れたように軽々と空を抱き上げると、省吾は結菜の傍に近づいてきた。
「もうそろそろ帰らなきゃいけないって思ってたの」
省吾の登場で、父親のことを話さなくてもよくなったことに、正直ホッとしていた。
家まで省吾の車で送ってもらい、空を家の中に入れると、少し離れた場所に駐車した車まで省吾を見送る。
「ご飯食べてけばよかったのに。菜穂さんも先輩がうちに来ると喜ぶんだよ」
歩きながら冗談交じりに話しをする。
「そろそろやめない?その……『先輩』っていうの」
「え?」
「ほら。僕のことそう呼ぶの結菜ちゃんだけだから嬉しいんだけど、なんか距離を感じるっていうか……くすぐったいっていうか……」
省吾の申し訳なさそうな顔が街灯の下でぼんやりと見えた。
「それじゃ。『省吾さん』?」
「ソラちゃんと同じでいいよ」
その時、街灯の灯りが省吾の真下を照らし、眩しくて結菜は眼を細めた。
「しょ、省吾くん……」
空と話している時にはいつもそう呼ぶのに、いざ本人を目の前にするとなんだか恥ずかしい。
省吾が歩いている足を止めた。
「実は……さっきソラちゃんと話しをしてるの少しだけ聞いちゃったんだ」
話しというのは公園でのこと……?
「…………」
「僕がソラちゃんに言ったことは嘘じゃないから」
「先輩……」
省吾はクスッと笑ってこう言った。
「『省吾くん』」
そして、結菜が口籠もっていると省吾はまた歩き出し、車のドアを開けた。
「ここまで待ったんだ。返事はいつでもいいから」
省吾の乗った白い車が走り去るのを見送ると、結菜は溜息をついた。
ずっと傍にいてくれたから省吾の良さは誰よりも分かっているつもりだ。
だからこそ、どうして自分なのだろう?と思ってしまう。
省吾は病院の跡継ぎでもあるし、女の人に不自由している訳でもなさそうだし……
なのに、どうして省吾は何も無い自分に固執するのだろう。
蓮との間の子供までいるというのに……
いくら考えても分からないものは分からない。
結菜はベッドの中でぐっすりと眠っている空の頭を撫でた。