人の優しさ
張り付くような喉の乾きで眼が覚めた。
いつもなら切って眠るエアコンをつけっぱなしにしていたのが原因のようだ。
泣きながら眠った所為で、瞼が重い。
結菜は飲み物を貰おうと、ベッドから起きあがり、リビングに向かった。
転ばないように気をつけながら、真っ暗な廊下を壁伝いに歩く。
辿り着いたリビングには格子状のドアから明かりが漏れていた。
まだケイが起きているのかと思い、ドアノブに手を掛けたその時、中から話し声が聞こえてきた。
「オレ。省吾の気持ち何となく分かる。なんで蓮なんだろうなってさ。時々思うよ。お前となら何の障害もねえのに」
結菜は掴んでいたドアノブから手を離した。
「僕。どうしようもないときに、結菜ちゃんに助けられたことがあるんです。だから、今回のことで少しでも結菜ちゃんの力になりたいって思ったのも本心……でも、助けてもらったとき、もしかしてって、ちょっと期待しちゃったけど。僕じゃダメなんだって、蓮くんといる結菜ちゃんの笑顔を見ると思い知らされた……僕は結菜ちゃんを困らすばかりであんな笑顔にさせてあげられない」
-先輩……
「それ。お前だけじゃないと思うぞ?誰だってそうだ。結菜は蓮、蓮は結菜じゃなけりゃダメなんだよな」
「だったら何が何でも離れなきゃいいのにって……そうもいかないか」
「それで二人は苦しんでるんだからな。どう足掻いたってなるようにしかならないのかもな。まったく。オレたちにはどうすることもできねえよ」
二人が自分たちのことを真剣に語ってくれていることに胸が熱くなる。
「ケイさんって……」
「なんだよ」
「いや……」
「気持ちわりいな。最後まで言え」
一瞬間が開いて省吾がボソリと答えた。
「ケイさんて。結菜ちゃんのこと好き……なんですよね」
「は!?」
-はい?
唐突な省吾の言葉に、ドアを隔てた結菜も思いきり否定したい気分だった。
「そうですよね?」
「な、何言ってんだ?」
「見てたら分かります」
「だから!なん……」
はあと言うケイの溜息がここまで届いた。
「全く。お前には敵わねえな。そんな女みてえな顔で見つめんな」
「女じゃありません。話しが逸れてますけど?」
「だからな……そりゃ~初めはそんなこともあったかもしれねえな。けど、蓮との仲を間近で見てきたら、そんなこと考えられなくなる。今は妹みたいなもんだ」
「そうですか。僕ケイさんの気持ち何となく分かります」
「生意気な」
二人の笑い声が聞こえた。
-私って幸せ者だよね……
結菜は部屋に引き返すと再びベッドに潜り込んだ。
朝起きると、リビングにはもう省吾の姿はなく、買い物から帰ってきたばかりのケイが一人いるだけだった。
夜中の省吾とケイの会話を思い出して、一人気まずくなる。
「今日は大学一限目からなんだってさ。あいつも忙しいよな」
キッチンのテーブルにコンビニで買ってきた物を袋から取り出して並べながらケイが言った。
そして結菜の顔を見て一言。
「それにしても、ひっでー顔」
「…………」
顔を洗いに洗面所に行くと、鏡に映った自分の顔を見て気分が落ち込む。
瞼の上に皮膚以外の物が乗っているように腫れ、顔全体も浮腫んでいた。
冷やすように冷たい水で何度洗ってみても、タオルで拭いた後の自分の顔は変わらない。
仕方なくそのままの顔でリビングに戻った。
「何でも食べろ。なんせ二人分食べなくちゃいけないからな」
テーブルの上にはサンドイッチや菓子パン、肉まんに総菜、お弁当にホイップクリームが乗ったプリンまである。
「こんなに食べられないよ」
「そっか。コンビニ弁当じゃ栄養が偏っちまうな。明日から……いや。今日から専属の料理人をつけよう」
パンにかぶりつきながらモゴモゴとその後も何か喋っていた。
「食べてから話せば?」
ケイは珈琲で口の中のパンを流し込む。
「結菜。暫くここにいろ」
「は?」
「大丈夫だ。オレは当分帰らないから」
「帰らないって。ケイはどこに行くの?」
「ん……蓮のとこ」
―――え?
「まさか。蓮くんに言うつもりじゃ……」
「言わねえって。言う時がくるとすれば、結菜が自分の口から蓮に伝えろ」
「それじゃどうして蓮くんに会いに行くの?」
「ん……進藤の様子を探ってこようと思ってな。もちろん蓮のことも帰ったら報告してやるよ」
ケイは今日の午後の便で発つと言った。出来ることならケイについて行きたい。
蓮は今どんな生活をしているのか気になる。
新しい学校生活はどうなのだろうかとか、仕事は順調なのだろうかとか……
なんでも話せる友達が出来たのだろうかとか、仲良くしている女に子はいるのか……とか。
気になる……
そんなこと気にする資格もないのに。
結菜はケイのマンションを出ると、自分のアパートに荷物を取りに行った。
ケイは業者に頼んでアパートの荷物を全てマンションに移すと言っていたけれど、ケイが蓮のところから帰ってきたときに、住む場所がないと困るからと、これまで通りアパートは借りておくことにした。
そろそろ、赤ちゃんが生まれたときのことを考えなければいけない。
広海にもきちんと話さなければいけないし、妊娠していることをOMURASUの夫婦にも報告しなければいけない。
マユのようにお腹が大きくなれば、バイトも休まなければいけなくなるだろうし……
その間の生活費は?
赤ちゃんの出産費用は?
やはり、アパートを引き払うべき?
考えると憂鬱になってくる……
結菜は荷物をバッグに詰め込むと、荷物で溢れかえるアパートを後にした。
「聞いたわよ。省吾くんの子供じゃないんですって?」
アパートを出た結菜はその足で広海の芸能事務所に向かった。
久しぶりに訪れた事務所。
勝手なことばかりしている自分を、広海は快く迎え入れてくれた。
「……うん。でも。蓮くんの子じゃないから……」
広海にまで嘘を付くのは心苦しい。
「ふうん。そう。まあね、結菜ちゃんの考えてることぐらい分かってるつもりだけど?蓮くんと別れた原因も理解してるつもりよ?もうちょっと、私を頼って欲しいとこだわね」
社長室からは街が見下ろせる。
黒い高級そうなソファーにスーツを着た広海がもたれかかると、髪の長い品のある女性が珈琲を運んできた。
女の人が立ち去るまで会話が途切れる。
「今朝。ケイくんから電話があったわ。今ケイくんの家にいるそうじゃない」
「ケイが?どうして広海さんの番号……」
「蓮くんがあなたのことを託して行ったのよ」
「蓮くんが……!?」
「みんなあなたのことを心配してるの。分かるわよね?結菜ちゃん。あなた、うちに帰ってらっしゃい。菜穂も心配しているわ」
そうできれば、どんなに楽だろう……
でも、出来ない理由がある。
ヒカルだけではなく、菜穂や広海にまで被害が及べば……と思うと、怖くてあの家に帰ることは出来ない。
「私。この子を守ることで必死なの。だから、一人で居る方が、気が楽っていうか……その方がいいんだよ」
「進藤さんのことを気にしているのね。それとも、志摩子のこと?」
「…………」
「蓮くんの子供だって分かれば、進藤さんや志摩子が何かしてくるって思ってるんでしょ?」
「…………」
何も言わなくても、広海には何もかも分かっているようだ。
「あのね。いくらなんでも、蓮くんの子供を進藤さんがどうにかするわけがないでしょ?」
「そんなこと……そんなこと広海さんには分からないじゃない」
蓮とのことを反対している進藤はきっと何か仕掛けてくるはず。
「そうね。進藤さんはともかく、志摩子のことは問題ないわよ」
「え?」
「上条財閥は私が継ぐことになったから」
どうして……
広海は上条家を、義郎を、あんなに頑なに嫌がっていたのに。
「お爺さまはなんて……」
「あの人と話して決めたことなのよ」
「それじゃ、この事務所は?」
「心配しなくても、両立させていくわよ。私こう見えても器用だから」
フフフと笑った広海は小指を立てて珈琲カップを持ち上げた。