ズルイひと
久しぶりに訪れたケイのマンション。
あの時とは変わっていない部屋の様子を懐かしく思っていた。
結菜のアパートに省吾が訪れ、ケイは気を利かせてか結菜と省吾を自分のマンションまで連れてきた。
荷物で埋め尽くされた狭苦しいアパートでは立ち話も出来ないと思ったのだろう。
まともに見られなかった省吾の顔。
あんなに懸命にこの子を守ってくれようとしていたのに、自分はその想いを裏切ってしまった。
ちらりと視界に入った省吾の顔は、何か言いたげで、そして今にも泣きそうな眼をしている。
広いリビングの中央に腰を下ろすと、ケイが省吾にビールの缶を手渡した。
「結菜はこれな」
そう言うとケイはジュースのペットボトルを差し出した。
ひんやりと冷たく冷えた容器は、まるで今の自分の心の中を表しているようで……そんなことを考えている自分がまた嫌になる。
「僕まだ飲めないので」
省吾はローテーブルの上にケイから受け取ったビール缶を置く。
「面白みのねえお坊ちゃんだこと」
ちっと舌打ちをして今度は結菜と同じペットボトルのジュースを省吾の前に置いた。
「なんか空気悪くねぇ?」
あぐらを掻き、喉を鳴らしてビールを飲んだ後、ケイは徐にそう言った。
口を開かず黙ったまま眼も合わせようとしない二人に、少々苛立っているように、顔を交互に見ている。
「二人。なんかあったのか?」
ビールの缶を口に当て、今度は一気に飲み干した。
「私がね……」
そう言いかけると、省吾の俯いた顔が上がった。
「結菜ちゃん。僕の本当の気持ちを聞いて欲しいんだ」
省吾のくりっとした潤んだ瞳が自分を捉え、訴えている。
「オレ……もしかして邪魔者?」
ケイの声も聞こえていないのか、省吾は結菜に向かったまま話し始めた。
「本当は……僕はズルイ人間なんだ。ホントは僕の子だって結菜ちゃんに嘘を付かせたまま結婚するつもりでいた。蓮くんとの子供を僕の子として結菜ちゃんと一緒に育てていきたかったんだ。結菜ちゃんが蓮くんのことを忘れられなくてもいい……ただ、一緒にいてくれるだけで、それだけでいいって思ってた……僕は親切で父親役になったんじゃない。その子を守るためだけの純粋な気持ちでそう言ったんじゃ……」
「もういいよ」
「結菜ちゃん……」
「ごめん。私、たぶん先輩のそういう気持ち分かってたんだよ。分かってて利用しようとしてた……私の方がズルイ人間なんだよ」
そう……
省吾の母親に言われてはっとした。
心の奥底では自分に対する省吾の気持ちは感じていた。
なのに、知らないフリをしていた……
サイテーなのはこの私……
「まあな。お互い様ということで」
いつの間に持ってきたのか、ケイはまたビールの缶を開けていた。
あの荷物まみれの部屋では寝られないだろうと、ケイのマンションに泊めてもらうことになった。元はと言えばケイの所為なのだけれど。
結菜はゲストルームに入るとベッドに腰掛けた。
蓮と一緒に眠ったベッド……
あの時、顔や身体は傷まみれで、ボロボロになっていた蓮は、何度も自分の名前を呼んだ。
低くて、少し枯れたその声でもう一度愛しそうに自分を呼ぶ声が聞きたい……
結菜は携帯電話をバックから取り出すと、蓮の名前にカーソルを合わせた。
今、蓮の声が聞けたら、まだまだ頑張れそうな気がする……
あんな別れ方をしたのだから、こちらから連絡をとる事なんて出来るはずもない。
そして……
もちろん発信するボタンを押す勇気もない。
-あ。でも……
蓮は日本にはいない。だとすれば、携帯電話も繋がらなくなっているのかもしれない。
そう思っても、ケイに確かめる訳にもいかず、何度も携帯電話を開け閉めしていた。
それでも声が聞きたい―――
もう……これしかない。
考えに考えた末。結菜だと分からないように非通知設定にして、電話を掛けてみた。
呼び出し音が鳴るまでの間がやけに長く感じる。途轍もなく悪いことをしているみたいで、嫌に緊張していた。
ツツツツ……と機械音が鳴った後、普通に呼び出し音が聞こえてきた。
-わっ
繋がったんだと思うと、今度は心臓がヤバイぐらいバクバク音を鳴らし始めた。
そして、何度かコールした後。呼び出し音が途切れた。
『はい……』
感情も何もない蓮の無機質な声。
でも絶対に間違えない……
携帯電話を持つ手が震え、呼吸が苦しくなる。
蓮は一言言った後、何も言わず電話の向こう側も生活音など聞こえてこない。
何も話さない電話の相手を勘ぐっているようなそんな雰囲気だった。
『誰……』
訝しそうにまた低くなった声を聞きながら、結菜はギュッと眼を瞑り、手を口に当てた。
思わず声を出しそうになる。
-蓮くん私だよ。結菜だよ。
蓮くん……
逢いたいよ……
すぐそこに蓮を感じるのに、向こう側にいる蓮は自分の存在にさえ気づいていない。
それでもいい。
それでもいいから、ずっとこうして繋がっていたかった。
『……間違いなら切るぞ』
「あ……」
怒った蓮の声に思わず反応してしまい、声を出した後、いつの間にか外れていた手でまた口を塞ぐ。
気づいた?
気づいてない?
また沈黙が続くと、蓮の息が受話器にかかった。
『……上条?』
そう聞こえたと同時に大粒の涙が頬に落ち、口を塞ぐ手の甲に流れ落ちた。
泣いているのを悟られないように、嗚咽を押し殺す。
先程とはまるで違う蓮の声。
その声は優しくて全身に染み渡るような心地よさだった。
『上条なのか?』
もう少し聞いていたい。
けれど、自分だと蓮に悟られてはいけない。
結菜は耳から携帯電話を遠ざけると親指を電源ボタンに押し当てた。
「ううううっっ」
押し殺していた嗚咽が漏れる。
繋がれた二人の空間。それはほんのわずかの間だったけれど、今の自分にとって何事にも変えられない貴重な一瞬だった。
結菜は愛おしそうにお腹に触れた。
「あなたのお父さんよ……」
この子にも聞こえただろうか。
蓮にもこの子にも決して伝えることの出来ない事実。
結菜はまだ耳に残っている蓮の声を感じながら眠りについた。