母の想い
逃げてばかりもいられないことは分かっている。
結菜はマユに連れられて、省吾の家にやって来た。省吾とよく似た大きくて綺麗な瞳を前に、結菜は緊張していた。
ここに来るまでに決めたことがある。やはり、もうこれ以上嘘はつけない。
それは省吾のためでもあり、自分のためでもあり……そしてなにより、この子のためでもあると感じているから。
母親が嘘つきでは、産まれてくる我が子に合わせる顔がない。
この子が蓮の子だとさえ言わなければいい……
「突然こんなことしてごめんなさいね。省ちゃんに何度聞いても納得出来なくて……今日は結菜ちゃんと二人でゆっくり話しがしたかったの」
この前の神妙そうな顔とは違い、穏やかないつもの塚原ママの表情だった。
「あの。私もお話ししたいことがあって」
上手くは説明できないかもしれない。でも、ちゃんと気持ちを込めて話せばきっとわかってくれるはず。
そう願いを込めて結菜は話し始めた。
「省吾先輩や家族の皆様にはご迷惑お掛けしました。先輩は何も悪くはないんです。ただ、この子を守ろうとしてくれただけなんです」
「それはどういうことかしら?」
「あの……この子は……省吾先輩の子ではありません」
一瞬、塚原ママの眼が大きく見開いた。
「赤ちゃんは……私のお腹にいる赤ちゃんは……私の子供です。私だけの」
「それじゃ、私を納得させられないわ」
「…………」
それはそうだろう。あれだけ省吾との子だと広海の前でも言い切ったのだから……
でも。蓮との間の子供なんて言えない。
「何か事情があるのかは分かっているのよ。それを省ちゃんもパパも言おうとしない。いったい何があると言うの?」
「……そ、それは……言えません。すみません。こんなにご家族にご迷惑をお掛けしているのに」
結菜は俯いて小さくなった。太ももの上で握った自分の手を眺めるしかない。
「そうね。迷惑を掛けていると思っているのなら、言うべきだと思うわ」
「…………」
この際。省吾の母親の納得するように全てを打ち明けたいとも思った。
そうすればどうなる?
この子が蓮の子だと進藤に知られる可能性が増えてしまうことになりかねない。
結菜は震える自分の手を見ながら黙ってしまった。
「私が許せないのは……省ちゃんはね。あなたのことが好きなのよ。それを結菜ちゃんは知っているわよね。それなのに、あの子の気持ちを利用するような事をして……」
「…………すみません」
もう謝ることしかできない。
対面している省吾の母親から溜息が漏れた。
「純ちゃんとマユちゃんのこともあったし、省ちゃんから結菜ちゃんに自分との子供が出来たって聞いて時には本当に驚いたわ。でもね、あの子が嬉しそうに話すものだから、結菜ちゃんとなら……って思ってたのに。残念だわ」
最後には涙声になった省吾の母親は席を立ち、背を向けキッチンに立つと、見えないように涙を拭った。
初めはちょっとだけ嘘を付くつもりだった。誰も傷つけずこの子を守るつもりでいた。
そんなこと出来るはずもないのに……
「すみませんでした……」
省吾の母親に届いているのか分からないような小さな声。
結菜は背を向けている省吾の母親に一礼すると部屋を出て行こうとした。
「省ちゃんにはもう会わないであげて」
母親が子供を思って言う言葉だと感じた。
「はい……」
省吾の家を出た結菜は大粒の涙を流しながら歩いていた。
省吾と省吾の母親に対して申し訳ない思いで一杯で……そして、自分に対する怒りが溢れてくる。
何をやってるんだろ。
自分さえいなければ、周りの人達がこんな目に遭うこともないのに……
そう考えると止まらなくなる。
両親やヒカルの死も、蓮との別れも、自分さえいなければ、広海や菜穂。省吾に省吾の母親……それに蓮もあんなに悲しい思いをさせなくて済んだのに……
自分さえいなければ。
蓮と行った広場に自然と足が向く。
バイト帰りにもよくこの場所を訪れていた。
蓮と来たときとは違い、今は広場を公園にするために工事をしている。作業員が帰った後の工事現場にはカバーをした黄色い大型の機械がいくつか取り残されていた。
結菜は広場の突き当たりまで行くと、高台から街を眺めた。
蓮との思い出の場所。
蓮と手を繋いだ場所。
蓮とキスをした場所……
最後に蓮とここを訪れたときには、何も語らずただこの場所に立っていた。
蓮と二人で……
隣には蓮が居て、握った掌が温かくて、本当はずっとずっと一緒に居たかったのに、それを押し通すことが出来なかった。
あの時、自分のことだけを考えて、蓮と一緒に居ることを選んでいたら、この子の誕生を蓮も喜んでくれただろうか。
誰がどうなろうと構わず、自分の事だけを考えれば……
そうしていれば……
きっと自分自身のことを嫌いになっていただろう。
今よりももっと嫌いになっていた。
だから、今のこの状況も同じ事。
結菜はオレンジ色の夕日を見上げた。
いつも空の上ではヒカルが見守っていてくれる。
こんなことじゃへこたれない。
強くなって、一人でもこの子を守らないといけないのだから。
気持ちが落ち着く頃には太陽は沈み、辺りは薄暗くなっていた。
アパートに付くと、階段の脇に大きなトラックが一台止まっている。
それを気にとめながら、階段を上っていった。
「結菜。遅い!」
部屋の前で仁王立ちしているケイの足下には、大小様々な箱がいくつも置かれていた。
「なに?」
結菜は迷惑そうな顔をする。
「これ。必要なもん、かき集めてきた。中に入れるからカギ開けろ」
「入れるって……何か知らないけど、この部屋にこんなに入らないって分かるでしょ?」
「これだけじゃないぜ。ほら」
そう言われて下を覗くと、先程止まっていたトラックから、男の人が大きな荷物を下ろしていた。
「あのね……」
「これだけあれば、子供がいつ産まれても大丈夫」
ケイは親指を立てて、片目を瞑った。
ケイが無理矢理部屋に押し込んだ箱の中身は全てベビー用品。
ベビーベッドにベビーラック、ほ乳瓶に粉ミルクまである。
「これ、賞味期限あると思うよ」
「そうか?細かいこと気にすんな」
ケイは片端から箱を開けると、狭い部屋に広げ始めた。
「ありがたいけど、これだけ荷物が増えたら、それこそ床が抜けそうなんだけど」
チャイルドシートの箱を開けながら「そうか?」と呑気にケイは答えた。
「車もないのに、これ必要ないと思うけど」
「これはオレ様の車につけるの。チャイルドシートは義務づけられてるの知らねえのか?」
子供もいなのに、よく知ってるなと感心しつつも、結菜は床が抜けないか心配ばかりしていた。
「こんなに物があったら寝るととこも座るとこだってねえな」
「だから、始めっから言ってるのに」
全て箱から取り出すと、玄関に重ねた段ボールを引き取って貰い、トラックは去っていった。
「私今晩どこで寝ればいいのよ」
「だな」
呆れて出てくるのは溜息ばかり。
でも、部屋を埋め尽くしている物を暫く眺めていると、不思議と嬉しい気持ちになってきた。
今はまだ必要ないけど、これから産まれてくる赤ちゃんに使う物ばかり。
「ケイ。ありがとね」
きっと自分じゃこれだけの物を買い揃えてあげることなんかできない。
「いいってことよ。オレとも血が繋がってる子供ができるんだからな」
これぐらい……とケイが言うと、隣に居た結菜は露骨に嫌な顔をした。
「なんなんだよ。その顔」
「いや……そういえばケイと血繋がってるんだ。なんか、気持ちわるい。って痛いな」
「いつものお返し」
結菜はデコピンをされたおでこを押さえながら、ケイに向かって拳を振りかざした。
「に、してもだ。これどうするかな」
「そうよ。どうすんの?」
「いっそ、結菜引っ越しすれば?」
「無茶言わないでよ。こんなに安い家賃のとこもうないわよ」
「……いや。あるにはある」
「それ。どこ?」
「オレんち」
「あのね……」
二人は益々狭くなった部屋を為すすべもなく眺めていた。
その時、玄関の戸を叩く音が聞こえた。
「結菜。省吾が来たぞ」
「あ……」
―――「省ちゃんにはもう会わないであげて」
省吾の母親の言葉が脳裏に蘇ってきた。