嬉しさと不安
エアコンの温風で時々髪がなびいている。
外は木枯らしが吹いて冷え冷えとしているのに、定員オーバーをしているこの部屋には嫌な熱気が籠もっていた。
みんなが省吾に目を向けている。
結菜は省吾がこれから何を話すのか、不安と焦りでごくりと唾を飲み込んだ。
「結果から言うと、結菜さんとはもう終わってしまいました」
「それは、どういうことなの!?」
省吾の言葉に広海が食ってかかった。
「正確には、結菜さんとはお付き合いを始めてもいませんでした」
-先輩……?
まさか、赤ちゃんが蓮くんとの子供だと言うつもりじゃ……
結菜は心配そうに省吾を見ていた。
「結菜さんとそうなったのは、結菜さんが蓮くんと別れてすぐでした。ちょうどその頃、僕も好きな人と上手く行かなくて、お互いの傷を癒し合った結果子供が出来てしまいました」
「出来てしまいましたって……あなたね!」
「もちろん、産まれてくる子供には僕が出来る限りのことはしたいと思っています。結菜さんもそれで納得してくれています」
「省ちゃん!!」
涙を流した省吾の母親が、省吾の頬を叩くパーンという音が狭い部屋に鳴った。
「結菜ちゃんはそれでいいの!?」
今にも泣き出しそうな広海の顔。
目の前の状況について行けず、結菜の目からも涙が出そうになっていた。
それをぐっと堪える。
そして、何も言わず首だけ縦に振った。
「先輩……このままじゃやっぱりダメだよ」
「どうして、上手く行ってると思うけど」
二人でもう一度よく話し合いなさいと広海と省吾の母親が帰った後、結菜は省吾に氷の入った袋を差し出した。
省吾はそれを受け取ると、母親に叩かれた頬にあてた。
「上手くなんていってないよ。現に先輩がみんなから責められてる」
「何度も言ってるけど、結菜ちゃんは責任感じることないんだよ。僕がしたくてしてるんだから」
この人は……
どこまで優しいんだか……
こんな人を傷つけてはいけない。
「先輩。もういいよ。私、広海さんに本当のこと言ってくる」
今から追いかければそんなに遠くには行っていないはず。
立ち上がろうとした結菜の腕を省吾が掴んだ。
「分かったよ。結菜ちゃんがそんなに後ろめたいなら……こうしよう。僕と一度してみるとか」
「してみる?」
何を?と結菜は首を傾げた。
「そう、僕とすれば結菜ちゃんだってもう責任を感じることはなくなるかも」
「先輩?何を私とするの?」
「鈍いな……」
クスッと笑った省吾は自分の方へ結菜の腕を引き寄せると、そのまま結菜を抱き寄せた。
「先輩……」
そして、一緒に後ろに倒れ込む。
上から省吾に見下ろされ、結菜は初めて省吾の言葉の意味に気付いた。
「ここまでくれば結菜ちゃんにも分かる?」
見下ろされる省吾の顔はいつものように優しいのに、手首を掴んでいる手の力が省吾ではない気がして、急に怖くなった。
「はなして……」
自分の上にいる省吾がだんだん近づいてくる。
結菜はぐっと瞼を閉じた。
瞼を閉じ、顔を背けるように横に向けていた。
でも……
一向に何事も起きない。
結菜は固く閉ざしていた瞼をそっと開けてみた。
「ぶっ。冗談だよ。結菜ちゃんまた騙されたね」
「せんぱい……」
にこやかに笑っている省吾を見ると、結菜は一気に脱力した。
騙されたのはこれで二度目だ。
結菜は手を外されると、起きあがってまだ笑っている省吾を見た。
「こんな冗談先輩でも言うんだ」
「それは決めつけだね。こないだも結菜ちゃん言ってたよね。僕は結菜ちゃんが思ってるほどお人好しじゃないよ」
「またそんなこと」
「ほんとだよ。さっきだって本当は結菜ちゃんや母さんの前で結婚宣言するつもりだったし……」
「え?どうして?」
「僕がそうしたいと思ってるから」
それもまた冗談……?
もう騙されない。
「はいはい。それはそれは」
「あ。冗談だと思ってるんだ。これじゃ、嘘つきの羊飼いだよね。ははっ」
省吾は頭の後ろに手をやると、微笑した。
「先輩には感謝してる。でも、もう……」
「それじゃこうしようよ。これは冗談なんかじゃないからね」
「うん……」
「この子が無事産まれるまでは僕の子供ってことにする。産まれてからは……それからまた考えればいいよ。嘘を付くのはずっとって訳じゃない。そう考えれば少しは気楽に思えるでしょ?」
結菜は省吾の言葉を、もうそれ以上拒否することが出来なかった。
本当にこれでいいのか、いつも分からない。
人と関わりを持ちたくないと思えば思うほど、人にこれ以上ないほどの関わりを持ってしまう。
それも、自分の運命なのだろうか……
お腹の中の赤ちゃんは何事もなく順調に育っている。
外の世界で起こっている出来事なんか、何一つ知らずに、すくすくと大きくなっていた。
このまま何も知らなければいい……
『お腹が大きくなって動くの大変よ~そうだ。私が動けるうちに、赤ちゃん用品見に行く?』
マユからの誘いに結菜は即座に了解返事をした。
妊娠もそうだけれど、出産、育児は未知の世界。
マユとショップに着くと手にしたのは、掌よりも小さい靴下。何種類もある肌着。思ったよりも値段の高いベビーカー。
マユにいろいろ教わりながらのデパート巡りを終えると、歩き疲れたとマユはタクシーを止めた。
胸の下あたりから突き出した大きなお腹を抱え、マユは息をするのもしんどそうだった。
「結構物入りよね」
赤ちゃんを産むということは、お金がかかる。
出産費用にオムツや肌着……その前に、検診費用も馬鹿にならない……
「大丈夫。貸せる物は私が貸してあげるよ。もう少し間があいてれば、全部貸してあげられるのにね」
「ありがと。経験者が傍にいるってだけで、私は安心だよ。頼りにしてるよ。マユ」
「私。頼られちゃった」
まだ、何も解決していないのに、時間だけは過ぎていく。赤ちゃんは日に日に大きくなっていく。
嬉しいはずなのに、これからのことを考えると、不安で仕方ない時もある。
「言いにくいんだけど……今日ね」
「マユ?」
「これから、純平の実家に行くんだけど……その、ユイも連れて」
「え……」
それって……
「お義母さんが、ユイと話したいって」
マユは申し訳なさそうに笑うと、突き出したお腹をさすった。