ピンチ
違う高校に通っているヒカルとは、最近は家以外で顔を合わすことがない。
それに、この忙しさだ。今週の土曜日から公開する映画の番宣でテレビの生放送に出まくっている、と広海が言っていた。
その疲れもあってか、今朝のヒカルはリビングにあるソファーで気持ちよさそうに眠っていた。タキか広海がかけたであろう毛布が、半分落ちそうになっている。
−幸せそうな顔をして……
結菜は落ちそうになった毛布を肩までかけると、ヒカルのほっぺをツンツンと付いてみる。
弾力のある皮膚に、ニキビの一つもないきれいな肌。それに、なんて長い睫毛なんだろう。
肌の手入れも仕事のうちだろうけれど、羨ましすぎる。
「そんなに見つめられると、オレ照れちゃうよ」
「妹に照れてどうすんのよ」
すかさず、ツッコミを入れる。
ヒカルはソファーから起きあがると、寝癖のついた髪を両手でもっとぐしゃぐしゃにした。
「だーっ。もうこんな時間かよ」
「ごめん。起こしちゃったね」
「いや。今日は学校だから、どっちみちもう起きないと」
ヒカルは、「よっこらせ」とオヤジくさいことを言いながら立ち上がり、シャワーを浴びにリビングを出て行った。
結菜が朝食を食べ終わる頃、ヒカルがタオルで髪を拭きながら結菜の隣に座った。
「最近学校はどうだ?」
なんか質問がお父さんみたいだ。
「別に、変わったことなんてないよ。何人か友達はできたけど」
あえて、男友達とは言わないでおこう。
「そっか。毎日楽しい?」
昨日のことがあるまでは楽しかったのかもしれない。
実は今日、学校に行くのが恐い……なんて口が裂けても言えない。でも、まだ今の処、何かがあったわけでもないし、この先起きるとも限らない。
「まあ。ぼちぼち……」
「なんだよ。ぼちぼちって」
今のヒカルの言い方はきっと私に遠慮している。私があんなことを言ったから。
−『もう、私のことなんて放っておいてよ!』
きっとまだ、そのことを気にしているんだ。
「あのね。ヒカル。この間のことなんだけど……」
「まさか。『やっぱり映画観に行かない』とかって言うんじゃないだろうな」
それも本当は言いたいが。アッキーが言った『意味』がもしかしたらあるのかもしれない。そう思い行くつもりになっていた。
「そうじゃなくって。ヒカルに酷いこと言ったでしょ?気にしてるかなって思って」
「酷いこと?なんか言ったっけ?」
惚けているのか本気で言っているのか……
「兎に角。私って今反抗期らしいから、私が何を言っても気にしないで」
「へえ。結菜が反抗期ねえ」
「そうやってみんな大人になっていくのよ。ヒカル安心して。私も日々成長してるの」
拳を握り言った結菜のそんな言葉も虚しく、ヒカルは黙々と朝食を食べ始めた。
誘拐事件が本当かどうかは分からない。もしそれが本当なら、そのこともきっとまだヒカルは心配しているはず。ヒカルが心配せずにいられるように、自分に出来ることは大人になった姿を見せることではないだろうか。もう小さな何も出来ない私ではないと思ってくれれば、ヒカルは安心するのではないだろうか。
「結菜。反抗期だろうがなんだろうが、オレはお前に何かあれば必ず力になるから。だから、肩肘を張らないでオレに頼れ」
−ヒカル……
「そういうのは、恋人に言ってよね」
素直じゃないのは分かっている。本当はそんな風に言ってもらって嬉しいことも……
でもね。ヒカル。私は決めたんだ。もうヒカルに心配なんかさせない。私のことよりも、自分自身のことを一番に考えてほしいから。
***
アッキーとマユは写真のことを綾と省吾に相談するように、と言った。
でも、もうこれ以上、出来る限り誰にも迷惑はかけたくはない。
昨晩決めた私のこれからの目標は『自分のことは自分で解決する』だ。
結菜は靴下だけの自分の足と、腕に巻かれた包帯を見て溜息をついた。
−ダメだ。さっそく挫けそうだ。
きっと大丈夫だと高を括っていた。だから、その反動が大きいのかもしれない。
―――それは、今朝学校へ登校してきた時から始まった。
下駄箱を開けると上履き用のスリッパがなかった。それが合図かのように、廊下では女子の集団にすれ違いざま足を引っかけられ派手に転ぶわ、移動教室の時には上から植木鉢が落ちてきて、危うく頭に当たりそうになり死にかけるわ、トイレに行くと立て付けも悪くないのにドアが開かず閉じこめられるわ……などなど、まるで学校中の生徒が敵に思えるほど細々した嫌がらせを受けていた。そして次の日も、それは変わらなかった。
それを知っているのか、それとも全く気づかないのか、綾や純平たちは何も言ってこない。
それも、少し恐い気がしてきたところだった。
お昼休みになり、いつものようにお弁当を食べるが、やっぱり何か変だ。いつもはよく喋る純平や、綾はほとんど何も喋らず、慌ただしく食べ終わると、二人でそそくさと教室から出て行ってしまった。省吾も嫌がらせを受けるようになってから一度も姿を見せていない。
おかしい、絶対におかしい……
「ねえ。綾ちゃんたちどこへ行ったんだろうね」
結菜は仕方なく、一人残った蓮に聞いてみる。
「俺が知るわけがない」
学校用に作った顔で怒ったように言われてしまう。
結菜は溜息をつくと、まだ半分以上残っているお弁当に蓋をした。
−少しぐらい優しくしてくれたっていいじゃない。
まだ悠長に食べている蓮を残し、結菜は教室の外へと出て行った。
外に出るのは危険かもしれないが、ずっと教室にいるのも息が詰まりそうだった。
行くあてはないが、綾や純平を見つけようと、廊下を歩きその姿を探した。
食堂やその周辺にトイレの中。なるべく人が多くない所から探すが、一向に見つけることが出来ない。
気がつくと随分と遠くまで来てしまっていた。あまりまだ来たことのないC棟。その棟には中庭があり、その中庭をぐるりと取り囲むように校舎が建てられている。天気が良いこともあって、そこで生徒たちがお弁当を食べている姿がちらほら見える。
結菜もその中庭へ出てみた。芝の青臭さが鼻を刺激する。日曜に公園で省吾と一緒に寝転んで流れる雲を眺めたことを思い出した。それは、随分と遠い記憶のような気がする。
結菜は空を見上げた。雲一つない青空が見える。校舎が邪魔をして空全体が見えないのは少し残念に思えた。
−あれ……?
二階の廊下に綾の姿が見えた気がした。この校舎の二階部分は中庭が見える廊下側と渡り廊下に限り、壁ではなく柵で仕切られていて、一歩教室から出ると誰がいるのかここからはよく見える。
廊下は見えるのだが、教室に入れば廊下側にいない限り全く見えなくなってしまう。
結菜は後退りをし、教室の中が見える位置に移動しようと背伸びをした。でも、綾らしい姿はここからでは見えない。
階段を上って反対側の廊下から見よう。
そう思い階段に視線を向けたときだった―――
「動いたら、刺すよ」
掠れた低い声が結菜の後ろから聞こえた。
振り向くとそこには黒縁のメガネをかけたひょろ高い男がナイフを持って立っていた。
「なっ――――!?」
――――何なの??
「おっと。声も出さないでね。僕の言う通りにすれば、刺したりしないから」
その男は口の端を上げて笑っているように見えるが、目が笑っていない……
恐い。この男の言うように、言うことを聞かなければきっと本当に刺されてしまう―――
結菜は為す術もなく立ちつくしていた。
男はナイフを結菜に向けたまま、携帯電話を耳に当てた。
「確保したから連れて行くよ」
それだけ言うと男は結菜に階段に向かって歩くように指示をした。
階段を何段も上っていく。いったいどこへ連れて行かれるのだろうか。
結菜は階段を上っている間に逃げようと、辺りの様子と、後ろに張り付いている男の様子を窺っていた。
「逃げようとしても無駄だよ。今君が逃げたら、佐久間綾と塚原純平がどうなっても知らないよ」
−綾ちゃんと純平くんが!?
「ちょっと、綾ちゃんたちに何したのよ!」
結菜は足を止め後ろを振り返った。
「声を出さないでって言わなかった?脅しじゃないよ」
そう言ってナイフをちらつかせる。
−こんの男は……!綾ちゃんたちに何かしたら許さないから!
結菜は拳を握り、男を睨むとゆっくりと前を向いた。そしてまた階段を上る。
怒りのあまり、握った手の平の感覚がなくなりそうだった。
男に連れて来られたのは誰もいない屋上だった。
男は結菜の背中を押し、乱暴にフェンス側へと移動させた。結菜は振り返り男を睨んだ。
「やっぱり、あいつの妹だよな。その目……本当にむかつく」
「あなた……ヒカルのこと……」
−知っているの?
「恨むんなら、兄貴と塚原省吾を恨むんだな。僕はお前の兄貴にしか恨みはないけど」
男はそう言ってニヤッと口だけで笑うと、首元にきれいに巻かれていたネクタイを緩めた。
結菜は後退りをするが、すぐに金網に背中が触れてしまった。
「ヒカルになんの恨みがあるのか知らないけど、こんなことしていいと思ってるの?」
「僕はこんな機会をずっと待っていた。上条ヒカルに復讐する日を。大事な妹をやられたあいつはどんな顔をするかな。楽しみだ」
男はジリジリとこちらに近づいてくる。
大丈夫だ。たとえナイフを持っていたって、この男一人なら……
結菜は握っていた拳を胸の高さまで上げた。
それを見た男は途端に声をあげて笑い出した。
「言っただろ?僕は上条ヒカルにだけ恨みがあるって。僕だけ倒しても無意味だ」
男の背後にある屋上の扉が開くと、次々に男達が入ってきた。全部で四人……メガネの男を入れて五人。これでは素手でなんて到底無理だ。
「こいつらはみんな塚原省吾に恨みのある奴らだ」
「省吾先輩に恨みって……」
ヒカルに恨みがあるのは何となくわかる。ヒカルがこれまでやってきたことを思えば、今まで何もなかったことの方が奇跡だったのかもしれない。
でも、あの平和主義の省吾先輩に恨みのある人がいるとは思えない。
「お前は知らなくていい。僕は、僕の目的さえ果たせればそれでいいからね」
男はそう言いネクタイを更に緩めると、するりとネクタイを外し後ろにいる男にそれを渡した。
ネクタイを受け取った男は結菜に近づいてくる。
「ちょっと、何するのよ!」
抵抗するも、メガネ男の後ろにいた男達が結菜を押さえつけると両手首を縛った。
そして、またメガネ男の後ろへ戻る。このヒカルに恨みがあると言ったメガネ男がリーダーだ。結菜は更に男を睨んだ。
「君はまだ今の状況が分かってないようだ」
「……小さい男……」
メガネ男の顔が歪む。
「今……なんて言った?」
「恨みがあるなら私じゃなくて、正々堂々と本人と向き合ってよね!それが出来ない男は尻の穴が小さいって言ってんの!女一人に男が集団で!かっこ悪いとは思わないの!?」
結菜が言い終わるのと同時に頬に衝撃がはしる。遅れてきた痛みとともに、殴られたのだと気づく。
「本当に兄貴そっくりだよ。正義感ぶった言い方といい、僕を見下すその目つきといい……でも……すぐにその口も利けないようにしてあげるから」
そう言うと今度は後ろの男からビデオカメラを受け取った。
「君の兄貴にも見せてあげないといけないからね」
「な、なにをするつもり?」
メガネ男がカメラを構えると、後ろにいた男達が結菜の前にずらりと並んだ。