新しいスタート
「ちょっと、ホントにここで暮らす気?」
「?そうだけど」
ペンキの剥がれかけた、鉄の外階段を上ると、荷物を持った広海の足が完全に止まった。
結菜は狭い通路に立ちつくしている広海を押しのけ、そこを無理矢理通り抜けると、部屋の鍵を開けた。
今日からここでの新しい生活が始まる。
「きゃぁぁぁぁぁっ。な、何この部屋っ!!」
部屋に入っての開口一番がこれだ。
いちいちうるさい……
「広海さん。手伝いに来てくれたんだよね」
「だって。女の子が暮らすような部屋じゃないわよぅ」
確かに、狭い靴置き場からすぐの台所は汚くておんぼろだし、奥にある6畳のタタミの部屋はカビくさい……
「でも。若い頃の広海さんだってこんなとこに住んでたでしょ?」
上条の家を出て、今の事務所を立ち上げたとき、お金のなかった広海は貧乏暮らしをしていたと聞いたことがある。
「私は男だからいいのよ!」
「男女差別だね」
結菜は奥の部屋に入ると荷物を置いた。
広海は玄関先に突っ立ったままで大きく溜息を付いている。
「家賃のことは心配しなくていいのよ。今からでも、ちゃんとしたところ探してあげるから」
「それじゃ意味がないよ。私は私でちゃんとやっていくから、広海さんは心配しないで」
もう何度この言葉を言っただろう。
「結菜ちゃん……」
結菜は広海が手に持っていた荷物を受け取ると同じ場所に置きに行く。
「これから仕事でしょ。後は大丈夫だから、もう行って」
心配してくれるのは本当に有り難いと思う。でも、もう決めた。これからは誰にも頼らず一人で生きていくと……
「何かあったらいつでも言ってよね」
「うん。ありがと……」
ずっと考えていたことがもう一つある。
蓮と別れ、みんなに危害が及ばない今、実行する時かもしれない。
見送る広海の背中は寂しそうで、これからしようとしていることに後ろめたさを感じる。
復讐の連鎖なんて無意味だと今でもそう思っている。でもこれはきっとこれから前に進むために必要なことのように思えた。
この世の中で一番会いたくない人に会いに行く。
義郎の妹。志摩子。これまでにあった数々の嫌がらせ。そして、紫苑をあんなに追い込んだ志摩子を許すことは出来ない。そう、一番許せないのはヒカルをあんな目に遭わせた根源は志摩子にあるとそう思えて仕方ないから……
上ってきた階段を広海が下りている。何段か下りたところで広海は振り返った。
「あの人がね……」
「お爺さまが何?」
手すりに手を掛けた広海は下りていた階段をまた上った。
そして部屋の前で見送っていた結菜の傍までくると、肩に手を置く。
「志摩子の事を上条財閥から追放したそうよ。あの人はもう何も出来やしないわ。あの人が何もさせない。だから、結菜ちゃん。おかしなこと考えちゃだめよ」
まるで自分の心の中を読まれた気分だった。
そこまで分かってくれている広海をもうこれ以上悲しませたり困らせたり出来ない。
志摩子のことが知らないところで解決していても、ヒカルのことも蓮のことも解消されないまま心に大きな穴が開いている。何を詰め込んだって埋まることのないブラックホールのような穴には、ひゅうひゅうと冷たい風が通り抜けている。
だから、ヒカルや蓮、それに広海たちに一人でも大丈夫だと思ってもえるように、この場所で一からやり直す。
そう決めた。
なのに。どうしてそう上手くいかないんだろ……
「ねえ。どうやってこの場所が分かったの?」
「そんなの簡単。金があればちょちょいのちょいって。いてっ」
片付けも終わらないうちに、この新たな出発地点である新居に、初めての訪問者がやってきた。
「そういうところ嫌い!お金の無駄遣いにも程がある」
「言わない結菜がいけないんだろ」
ケイと話しているといつもこうだ。
「どうせ。文句言いに来たんでしょ!?」
「分かってんじゃん。片付けはいいから、とにかく座れ」
この場所は誰にも言わないつもりだった。そして誰にも会わないつもりだったのに。結局は同じ事を繰り返す。
結菜は仕方なく手を止めると、その場に座った。
ケイの言いたいことは何となく分かる。
「お前さ。蓮と別れたんだって?だからってここに住むって……なんかさ。この悲惨さがお前の心ん中、表してる感じ?」
「茶化しにきたの?」
「はあ……オレっちがせっかく引き合わせてやったのに、別れるって。なんじゃそりゃ~って感じなんだけど?」
「だから?もうそうするしかなかったんだもん。ケイには分かんないよ」
どんな気持ちで蓮と別れたなんて、ケイには絶対分からない。
「そうだな。分からないよ。だってオレ、本気の恋愛なんかしたことねえもん。でもな、蓮も結菜もバカだよ。あんな別れ方した日にゃ、お互い気持ちが残ってどっちも辛いだけじゃん?相手のことを想うんなら、それなりの別れ方があるんだよ」
「別れ方って」
「ん~まあ。それは二人にはちと高度かもな……オレ様ぐらいにならないと、女とスパッと別れられないってことだよな。ウンウン」
ケイの言うことはいまいち分からないけれど、気持ちが残って胸の辺りがいつもチクチク痛い。蓮のことを想うと、本当にこれでいいのか?ずっと一緒に居られる方法は他に何かあったんじゃないのかって今更ながら悪あがきをしてしまう。
「これって蓮くんも同じなのかな?」
「あいつは……なあ。結菜。蓮が傍に居なくても平気なのかよ」
ケイの瞳が自分を捉えた。
「平気……にならなくちゃいけないんだと思う。そうじゃないと身動きとれないよ」
「頑張っちゃう感じなんだ」
「頑張らなくっちゃいけないんだよ」
そう。頑張って頑張って……
頑張った先にはいったい何があるんだろう。
「結菜。蓮は遠くに行っちまう。それでも平気かよ?」
「え……?」
その時、部屋の薄っぺらな窓ガラスに北風があたると、ガタガタと音を鳴らした。
ケイは静かにその先を話した。
「あいつ。進藤にアメリカに連れて行かれっぞ。それでも結菜は平気なのかよ?」
蓮がこの街から居なくなる?
遠く離れた場所に行ってしまう……
蓮に会いたい。抱きしめて抱きしめられたい。ずっと傍にいてほしい。
学園ですれ違うだけでいいから……たとえ目も合わさなくても、同じ場所にいるだけでいいから。
それさえも叶わなくなる……?
心が大きく揺らいだ。
それでも、どんな時だって自分が決断したことを貫かないといけないことがある。それが自分にとって今なのだとしたら……
「蓮くんが遠くにいっても。それでも、私は平気にならなくちゃいけないの」
それが蓮やみんなを守ることだから。
本格的な冬がやって来た。
一人暮らしにも慣れ、長く休んでいた学園にも通えだした頃、すぐに冬休みに入った。
そして、広海の家で菜穂と三人で正月を過ごした。
広海は相変わらず家を出たことは良く思ってないみたいだったけれど、何も無くても電話がよくかかってくる。こうして家に帰れば快く迎え入れてくれる。
菜穂に「ヒロは結菜ちゃんのことを、本当の娘のように思っているから鬱陶しいこともあると思うけれど、大目にみてやって」と、あの完璧な微笑みで言われると、広海の子供のような我が儘も菜穂の器量で包んであげているのかなと想像してみたりして。
なんだかなんだ言って上手くいっている。
そう。
蓮とさえ会わなければ、こんな普通の生活が送れる。
蓮もきっとそう。
自分と出会う前の生活に戻っただけ……
「ユイ!初詣行くよ」
また一段と大きくなったマユのお腹に手を乗せると、結菜はみんなの待っている輪の中に自然と入り込んでいた。
この静かな幸せは蓮との別れと引き替えに得たものだとそう感じていた。