これからの自分
「菜穂さん……」
菜穂は長い髪を後ろで無造作にひとつに結び、口許を上げて笑った唇は、柔らかいラインを引き立たせていた。同性から見ても魅力的な女性。
「ヒロがね。結菜ちゃんがいないって慌てて電話してくるから…」
その唇でフフフと笑った。
「ちょっと。余計なこと言わないでよ」
広海は恥ずかしそうに横を向く。
広海だけではなく、菜穂にも心配させてしまった。それなのに自分ときたら、心配してくれた広海に八つ当たりみたいなことをして。
自己嫌悪。
「ねえ。ヒロ。いい機会だから、あのこと結菜ちゃんに話しましょうよ」
落ち込んでいる結菜に気付いているのか気付いていないのか、菜穂はご機嫌にそう言った。
言われた広海は難しそうな顔をしている。
「なんの話し?」
「いや……うん。ちょっと今話す事じゃ」
広海は話すことを躊躇っている。
隠されれば、ますます知りたくなる。
「何?」
広海は少し考え込むように眉間にシワを寄せ、それから「仕方ないわね」と溜息に似た息を吐いた。
「その前に、結菜ちゃんに聞いておきたいことがあるの」
「いいよ。何?」
「結菜ちゃんは、この先どうしていきたいの?」
広海の心配そうな顔がこっちを見ている。
どうしていきたいか?
それは学校に行かないことを言っているのか、それとも蓮とのこと?
「どうしてって……」
「もちろん、学校のこともあるけど、ずっとこのままじゃいけないでしょ」
「…………」
蓮のことを言っているのだと悟った。
「そういうことを話しに行ったのよね?」
「…………」
何も答えが返せない。
一言。「蓮くんとは別れたよ」って言えばいいのに、自分の口からその言葉が出てこない。
何も言わない結菜を見かねたのか菜穂が口を開いた。
「結菜ちゃん。私とヒロね」
「菜穂。ちょっと待って」
菜穂の言葉を広海が遮る。そのやり取りを見ていると、二人の雰囲気がいつもと違うような気がした。
「広海さんと菜穂さんって、付き合ってるの?」
「え?」
何気なしに言った言葉だった。それは蓮とのことをあやふやにするために言った冗談だったのかもしれない。
その冗談に広海の顔が真っ赤になった。
「もしかして……え。ホントに?」
「あのね。その。付き合ってるっていうか」
誤魔化そうとしてなのか、広海は否定するように両手をふっている。それを冷静に見ていた菜穂が一言こういった。
「ヒロと結婚しようと思ってるの」
-え?
「えええええええっ!!!!」
自分でも自照するぐらい驚く自分がそこにいた。
驚愕する結菜を楽しそうに見ながら、菜穂は話しを続けた。
「もっと早くこうしていればよかったのに。そんなに上手くはいかないものね。私ね、ヒカルと一緒に暮らすつもりだったの。あの時はヒロのことなんて考えてもなかったけれど。不思議よね」
そう言って綺麗な顔で笑っている。
「そ、そういうことなのよ」
まだ広海は照れていた。
「結婚って。菜穂さん仕事は?」
もちろん続けると答えが返ってくると思っていた。
なのに。
「やめようと思ってるの」
あんなにがむしゃらに頑張ってきた仕事をやめる?ヒカルを上条家に預けてまで突き進んできた道を、菜穂は広海と一緒になることで閉ざそうとしている。
「どうして?そんなに簡単にやめるなんて言えるの……」
「それは……」
「こんなこと私が言うべきじゃない。それは分かってる。でももうヒカルは何も言えないから。あなたに何も言うことが出来ないから」
「結菜ちゃん?」
結菜の様子がおかしいと感じ取った広海が、菜穂と結菜の間に入った。
菜穂が初めてここへ来たときのヒカルの顔を思い出す。
「ヒカルはずっとあなたが迎えに来てくれるのを待ってた。パパとママの帰りを待ってる私の隣で、ヒカルはあなたが迎えに来てくれるのをずっと待ってた。ずっと信じて待ってたのに……菜穂さんがヒカルの前に現れたとき、ヒカルは「やっぱり、許さなきゃいけないのかな」って泣いてた……あんなにヒカルに辛い思いをさせてまでしてきた仕事を、そんな簡単にやめるんですかっ」
自分にそんなことを言う資格なんてないのに、それでも言わずにはいられない。
お祝いムードになるはずが、部屋の中はシンと静まり返ってしまった。
「そうね。その通りだと思うわ」
先程と変わらない微笑んだ菜穂。
「だったら……」
納得がいかない。そうだと思うなら、ヒカルのためにも仕事をやめなければいい。両立している人は沢山いるはずなのに。
「ヒカルが教えてくれたの。今を大切にしないと一生後悔するって。今の私にはヒロが一番大切だから」
「ヒカルが……?」
「結菜ちゃん。私、ヒロと一緒になってもいい?」
結菜は二人の間にいる広海を見た。
広海は困った顔をしている。
「どうしてそんなこと私に聞くの?」
一緒になることを広海の姪である自分が反対しようが賛成しようが二人には関係ないように思える。
結菜は微笑んでいる菜穂と、困った顔をしている広海を交互に見た。
ああそうか……
二人が一緒になればここで菜穂が暮らすことになる。
「結菜ちゃんが賛成してくれるならここで一緒に……」
「広海さん。私、これからのこと考えたよ」
それは、菜穂と一緒に暮らしたくないからじゃない。生まれ変わったつもりで違う自分になりたかったからかもしれない。
「考えたって……」
「私、ここを出て一人暮らししてもいい?」
出来ることなら、誰にも頼らずに一人で生きていきたい。
そうすることが誰にとっても一番良いと、そう思う。
決意してからは行動が早かった。
住む場所を探し、部屋の荷物を整理した。
その間にも、反対していた広海とは何度も話し合った。菜穂が嫌いなわけじゃない。ただ菜穂と広海の結婚がきっかけになったのは確かだけれど。
「本当にここを出て行くのね」
広海は悲しそうな顔をしている。
「私、ここで暮らせて幸せだったよ。広海さん。今までありがと」
両親が亡くなってから引き取ってくれた広海には本当に感謝していた。
「私こそあなたたちがここに来てくれて本当に良かったわ。あのね、結菜ちゃん……」
広海は「これ」と言って、通帳と印鑑を差し出した。
「そんなのもらえないよ」
お世話になった上、迷惑もいっぱいかけてきた。だから、これ以上広海には何も迷惑をかけたくない。
「違うのよ。これはヒカルちゃんから」
「ヒカル?」
「そうよ。結菜ちゃんのために、ずっとあの子が貯金してたのよ。あなたが使ってあげなさい」
-ヒカルが私のために……?
「そんな大切なお金。使えないよ」
「何言ってんのよ。これは結菜ちゃんが使ってあげなさい。そうじゃないとヒカルちゃんが怒るわ」
広海はそう言って、結菜の手の中に通帳を残して部屋を後にした。手にある通帳には自分の名前が書いてある。ただの薄っぺらな紙なのに、どんな物よりも重く感じる。
ヒカルがここまでしてくれていたなんて思いもしなかった。
ヒカルと一緒に過ごしたこの家を明日出ていく。ヒカルが居ればきっと反対するだろう。
もしもヒカルが生きていれば、今も変わらずバカばっかり言って、何も考えずこの家で暮らしているのかな。この先もずっと……
なんだかヒカルに怒られるようなことばかりしているように思えた。